黒猫ナイトの人生体験
なぜ僕は、人間になってしまったのだろうか。
黒い詰襟を来た小柄な少年は、腰を捻ったり手足を曲げ伸ばししながら、全身を隈なく確かめていた。
ここは、いつもの散歩コースにある抜け道だから、家からそれほど遠くない。ただ、この姿で帰っては、警備員が飛んできて追い返されるのがオチだろう。どうしたものか。
少年は眉根を寄せ、しばし顎に手を当てて思案に耽っていたが、やがて真顔に戻り、ギクシャクと歩き出した。
人間の身体というものは、こんなに鈍重で可動域の狭いものなのか。あぁ、早く元の姿に戻りたい。戻って、ユキに会いたい。僕が急にいなくなったから、きっと、執事の制止も聞かずに、家の中を探し回ってることだろう。そして、どこにもいないと知ったとき、寂しがるに違いない。
そのまま少年は路地を抜け、アーケードのある商店街に出た。
*
いささか窮屈だが、衣は満たしている。次は、食を満たさなければ。空きっ腹をかかえていては、良い考えが浮かばない。せめて、文字が読み書きできればなぁ。
少年は片手で脇腹を押さえつつ、左右に視線を走らせながら歩いていたが、あるディスプレーの前で立ち止まった。
ここは、前々から散歩のたびに気になっていた店の一つだ。透明なケースの中に食べ物を並べ、店の奥からは鼻腔をくすぐる香りがしてくるが、僕が近付くと、いつも決まって水を掛けられてしまうので、一度も中に入れた例がない。しかし、今は仮にも人間の姿をしている。ここは一つ、様子を窺ってみることにしよう。
少年が店に近付くと、黒いベストに黒いエプロンを着けた血色の良い男が出てきた。
「いらっしゃい。席なら空いてるよ」
「腹が減っているのだが、中に入っても良いだろうか」
「もちろん。さぁ、奥へどうぞ」
少年は男の手招きに従い、その身を誘導されるに任せた。
*
書いてある文字が理解できないが、きっと、横に描かれている絵のことを指しているのだろう。
少年がメニューを睨みつけながら黙考し続けているのを見るに見かねて、さきほどの男は助け舟を出した。
「そんなに背を曲げて熟視しては、紙に穴が開く。お悩みなら、こっちのセットがオススメだよ」
男はメニューをめくり、モーニングセットの文字を指差した。
おぉ、まだ続きがあったのか。これは美味しそうだ。
少年は、ゴクリと生唾を呑みこんだ。
「これにしよう」
「オーケー。腹ペコなお客さんのために、超特急で作ろう」
男はメニューを持ち去り、そそくさとカウンターの内側へ引っ込んだ。
ふぅ。これで何とか食べ物にありつけそうだ。
*
「お待ちかね、モーニングセットだよ。クラブハウスサンドと、オリジナルブレンドのコーヒーだ」
男はメニューを説明しながら、少年の目の前に並べていった。
「おぉ。何とも食欲を刺激する香ばしい匂いだ」
「サービスで、肉を多めに挟んどいたよ」
「それは、ありがたい。ところで、ナイフとフォークは無いのかね」
「お客さん、うちは洋食屋じゃないんだ。手掴みでガブッといっちゃいな」
少年は、ハミ出さんばかりに肉と野菜が挟み込まれたパンを何とか両手で掴み、大口を開けて噛り付いた。
*
「ハッハッハ。一気に平らげるとは、よっぽど気に入ったんだな。だが、一度に掻きこむと喉を詰める。コーヒーも飲みなさい。少し冷めてしまったかもしれないけどね」
「僕は、熱い物が飲めない」
「そうかい。なら、ちょうど良いな」
少年はカップを持ち上げ、漆黒の液面に浮かぶ自分の顔を覗き見つつ、一口啜った。
「苦いな」
「お子さまには、ブラックは早かったようだな。そこにミルクと砂糖があるから、甘さを調節すると良い」
やはり、あの小さな入れ物に入っている白い液体はミルクで、茶色いサイコロは状の固体は砂糖だったか。あれを加えれば、この苦々しい飲み物もマイルドになるはずだ。
しかし、少年がテーブルの端へ伸ばした手は、ミルクピッチャーにもシュガーポットにも届くことは無かった。
*
おや。ここは……。
「見つけたわよ、ナイト。もう、どこに隠れてたのよ」
そう言うと少女は、両手で黒猫を抱きかかえた。
紛れもなくユキだ。ということは、僕は元に戻ることが出来たのか。
「無事に見つかったようで、ようございましたね。それでは、お嬢さま。お部屋へお戻りください。家庭教師が待っております」
執事の言葉に、少女は頬を膨らませる。
「急に熱を出したから、今日は休ませると言ってちょうだい」
「いけません。ナイトさまなら、私が責任を持って面倒を見ておきますので、お嬢さまはお勉強にお励みください。言うことを聞かないのでしたら、奥さまに報告いたします」
少女は肩を竦め、黒猫に話しかける。
「しょうがないわね。――ごめんね、ナイト。またあとでいっぱい構ってあげるから、少しのあいだ、この陰気で神経質なお爺さんのところで大人しくしててちょうだい。良いかしら」
「ニャー」
もちろん。ユキのためなら、大人しくしていよう。
少女は黒猫をギュッと抱きしめ、頬を摺り寄せる。
「よくできました。ナイトは、お利口だもんね。そうそう、新しい玩具も買ってもらったの」
「利口な猫は、台所に忍び込み、カップに残ったコーヒーを舐めないと思います」
「それじゃあ、ちょっとのあいだ我慢しててね、ナイト。すぐに終わらせるから」
「ニャー」
早く済ませてくれよ。僕は執事が嫌いなんだ。
執事は黒猫のうなじをつまみ、そのまま少女の腕から抜き取る。
「それでは、しばらくお預かりします。のちほどお返しします」
執事は黒猫を台車に乗せると、その上に素早くアントレーディッシュを被せ、その場を颯爽と立ち去る。
おい、執事。僕は前菜じゃないぞ。
黒猫は爪を立て、内側から銀の表面を引っ掻く。
「大人しくなさい。好奇心は何とかを殺すと申します。今度、台所に忍び込んだら、タダでは済ませませんよ」
何をする気なんだか。やっぱり僕は、人間より猫が良い。二度とコーヒーを口にするものか。あっ、そうだ。蓋が開いたら、台車に乗ってたフォークとナイフを銜えて脱走してやろう。そして、あの喫茶店に投げ込んでやる。ニヒヒ。
今回は、ここまで。黒猫ナイトと執事の追いかけっこは、また別のお話で。