大人〜都遣えの男〜
「待ってください!」
夕焼けた空の色は、果実のように瑞々しく色鮮やかだ。それに照らされ、包まれる風景や人々もまた。
水面で踊る金波銀波を背景に、一人の男と少年は向き合った。
少しずつ動く影を携えて、息を荒く吐いているジークが口を開いた。
顎を上げて、なるべく斜に構えたように。
「どうせ、あなたも、この命令も。権力の誇示しか考えてないんでしょう?」
ジークの息切れだけが、その場に聞こえる。ジークは、また息を吸う。
「だから人前で言えなくて、追い詰められて。力で黙らせようとしたんでしょう。『うちはこんな無理な命令だって、民達に聞かせられるんだぞ。』力の誇示にはぴったりな命令だ。」
都の男の顔からは、表情が読み取れない。怒りも喜びも見えないその顔は、ジークにとって恐ろしかった。
初めてこの男が見せた顔、いや、男はきっと、いつもこの顔をしていた。ジークはそう思った。
男が口を開く。その声は低く、低く。
「分かっているなら、大人しく命令を聞いてろ。」
ジークの体に、電流のような何かがはしる。
身を翻そうとする都の男の腕を掴んだ。太くて、とても指が回らなかった。
ジークは叫んだ。
「どうしてあなた方は、ちゃんと全部を言いたがらないんですか!」
反応の返ってこないその背中に、なおも語り続ける。
「どうしてさっきみたいに怒らないんですか。いや、さっきだって本当に怒っていたんですか。今のあなたは、絶対に何かを我慢する顔をしていた。今気付いたんです、あなたはいつも、どこか何かを我慢するような顔だったって。どうして何も言わないんですか。どうしてそうやって……」
この言葉が、彼にどこまで届くか分からない。それでもジークは、合っていますようにと祈るような気持ちで訴えた。
「泥を被ろうとするんですか。」
都の男が、一人で苦しんでいるように見えたんだ。
再び、夕焼けの景色に静寂が戻った。水のせせらぎだけが聞こえる世界で、ジークは息を殺して、男を見つめ続けた。
「深入りすると、苦労ばかりするぞ。」
男が小さな声で述べた、彼の心の一端。最も硬い、心の最初の扉を開けてくれた、ジークはそんな手応えを感じた。
「宝石と水の関係、その危険を最初にこの国で述べていたのは、民間団体だった。その頃は根拠も提示して、今の何倍も説得力があったらしい。」
男が、静かに息を吸った。
「でも、誰も聞いてくれなかった。頭のおかしいやつらだと思われて終わりだった、じいさんは言っていた。」
根拠がありながら誰からも聞いてもらえない物、根拠も無いのに、それを言う人が強いからという理由で皆が聞く物。
辺りの陽はどんどん沈んで、影は傾き続ける。
「でもそんなある時、国がその民間団体の話を聞こうとしてくれたんだ。その民間団体は、光が差したような心地だったろうな。それで結局、国はその話を信じて御触れを出すことにした。」
でも当然、反発する奴らがいた。宝石を取り扱うことを生業にしている、いわゆる宝石屋とかだ。そう、都遣えの男は言った。
「奴らからしてみれば、宝石を取り扱うことの禁止なんて死活問題。必死だったろうなあ。それで、宝石関係の奴らと民間団体はかなりもめた。
でもそんなある時。そいつらは、民間団体が抱えていた、宝石と水の関係の根拠を示してくれる科学者らとその家族や親しい人を、大勢の前で殺したんだ。見せしめのために。
そしてその直前に、奴らは証拠となる研究結果や文献を燃やしていたんだ。
あったはずの証拠もない、それを説明してくれた人もいない。自分だけならともかく、自分の周りにいる相手に手を下されることに皆は恐れ、もう一度研究し直すこともできなかった。
笑えることにその民間団体は、死んだ研究者達以外宝石と水の関係というか、仕組みをよく分かっていなかったんだ。職務分掌が仇になったな。大まかになら知ってるって奴すらほんの少数だったんだと。
だから、大した証明もできなかった。形骸的な命令だけが残って、今のように馬鹿みたいなお伽話として伝わっちまった。」
一気に喋った分の息を取り戻すかのように、男は深く息を吸って、深く長く吐いた。
「これが、俺の知っている、あの御触れが出た経緯だ。」
ジークは都遣えの男を見つめ続けていた。これが本当に、これまで自分の知っていた都遣えの男かと。
男は続ける。
「お前達で言う都遣えってやつだな、俺は上に遣えるようになった。そしてこの仕事を任命された。二年ごとに管轄地は異動になるから、ここは十箇所目くらいだな。俺は自分のやることは、自分で理解していないと気が済まない性分だったから、それが幸いだか災いだかして、この経緯まで行き着いた。さっき言ったみたいに、当時のことを知ってるじいさんやばあさんに話を聞きに行ってな。
だからこれを知った時、驚いたよ。自分が仕える場所に疑念なんて抱きたくないところだが、俺もこの御触れだけは上手く納得できてなかった。心のどこかで、迷信の延長だと思っていた命令が、まさかこんなにも歴史が浅く、明確な理由があると思わなかった。
だから俺は必死になって、宝石を未だに隠し持つ住人達を説得しようとした。危険なんだ、安全のために言っているんだ、って。
……でも、言ったところで、全然聞いてもらえない。まあ、その根拠が提示できないんだから、当たり前といえば当たり前なんだがな。それでも誠心誠意頼めば、きっと何か言えないだけで事情があるのだろう、と察してくれると思っていた。
しかし宝石を隠し持つ市民は全くと言っていいほど減らない。どうしてだ、皆の安全のために言っているのに。どうして分かってくれないんだ。このままだったら、皆死ぬぞ。でもその根拠を示すこともできない。だからある時、思い立ったんだ。
少し強く、言ってみようと。
お願いから命令へ。親しみやすい人から冗談の通じない厳格な人へ。今まで積み上げてきたことと、逆のことだ。そしたら、皆の態度も変わった。あれだけ言っても差し出さなかった人が、少し権威を振りかざしてみれば、ころっと態度を変えて宝石を差し出す。そして俺はそれを遠くに捨てに行く。
その時俺は、何だろうな、って思ったんだよ。俺だって権威をふりかざせば簡単だろうってこと、予想はついてた。それでも、それをずっとしなかったんだ。そんな反則まがいなことではなく、真っ向からやり遂げたいって思ったんだ。でも結局俺はそれをやって、俺が今まで苦労していたことはそれのおかげですんなりうまく言った。
何なんだろうな、本当。これが権力、権威があると無いの差か、って虚しくなった。民間団体だった頃は見向きもされなかった話が、国が後ろについた途端に皆聞くようになったって話もそうだ。権威があれば、人は言うことを聞くってことを、嫌ってほどに実感してしまった。
本当にすごく、虚しかった。俺が今までやってきたことは、一体何だったんだろうって……。」
ジークは、この男と初めてあった日のことを思い出した。あの日、水を運んでいたジークは、住人から隠し持っていたらしい宝石を差し出された。その住人は、この強面の男を見かけ、この男にそれが見つかることに恐怖して、ジークに渡したと言っていたのだ。
動かぬ事実が、ジークに「そんなことない」という言葉を言わせてくれない。
「最後は俺の弱音だったな。忘れろ。とにかく怖くないと、駄目なんだよ。舐められちゃ駄目なんだ。中途半端な根拠なんて言ったら舐められる。これまでのことが全て無駄になるだろ。怖いやつだと思ってるからこそ、皆言うことを聞くんだ。そうしないと守れない。守れないんだ。」
辺りが、しんと静まる。風の音も鳥の声も、無かったかのように静まり返っていた。
泥の中で、たった一点の光のみを頼りにもがき続ける男。
ジークは目の前の男が、そんな風に見えた気がした。
辛かったのだろう、悲しかったのだろう。
この男の選んだことは、結局は独りよがりになってしまったように思えた。しかしそれは男が、今まで誰にも頼れなかったということの裏返しではないだろうか。
ジークは、そう思わずにはいられなかった。
――大人は俺達が思ってるより子どもっぽくて、間違いも多くて。そして思っている以上に大人なんだろう。
空にはだいぶ青白い色がかかりつつあり、そこに数粒、星が散りばめられているのが見えた。
赤々とした夕焼けの色は、もはや揺らぐ水平線に薄くかかるのみ。
しばらくそれを見つめていたジークと都遣えの男の二人。
男がぽつり、と言った。
次自分がここに来る時、反対派の手から逃れた数少ない証拠になる物を持ってくる。そして、もしお前が行きたいなら、俺が宝石を捨てに行っている場所に連れて行ってやる、と。
俺は単なる虚勢で民を従わせられるなんて思わない。それなりの理由がなければ、きっと人々を動かすことなんてできない。人間は、そこまで馬鹿じゃないからな。
男はのちに、ジークにそう言っていた。