何も知らなかった僕ら
手の中にあるのは、ふたつの宝石。
ワインのような色をした、恐ろしいほど精巧にカットされた宝石。それと手のひらサイズの、紫水晶の洞窟。
紫水晶の方は、裏から見るとただの石ころだった。しかし表にすれば、石には空洞があって、そこで紫水晶が育った姿が拝めた。
ジークは、こっちの紫水晶の方は少し欲しいな、と思ってしまった。
いやいやと首を振り、そっちの石を思い切り振りかぶる。
どこまでも澄み渡る湖の、光で揺らぐ水平線を見据えて。
その石を思いっきり投げた。
もうどこに行ったか分からなくなるように、未練がすっぱりなくなるように。
その石は、とぽんという音を立てて、水しぶきと入れ替わるように湖の中へ入っていった。
ジークは、心惹かれた石が落ちた場所をうっかり目に焼き付けそうになり、目をつぶった。
すっかりその場所を忘れてしまえるように。
しばらくして、ジークは ふう、と長く息を吐いて、顔を覆っていた手を外した。もう完全に、どこに落ちたかは分からない。そう言い聞かせるように心の中で唱えて、目を開けた。
そして、もうひとつのワイン色の宝石を、そっと水に浸した。
そこで、彼の体は固まった。
水の中に、さっきまで無かった、長い髪の毛が浮いている。髪の毛だけじゃない、そこに白い顔が見えた時、ジークは凍りついた。
――水死体だ!
そう、ジークは心の中で叫んだ。
本当は、反射的には「おばけだ!」と思っていたのだけれども。パニックになりつつも働いた羞恥心によって、それはジークの中で「水死体」になった。
だからその水死体にされた物体が大きく揺れ動き、ぷかぁ、と首が浮かんできた時。ジークはやっぱりおばけだった、と、心の中で訂正した。
浮かんで来た首と、ばっちり目が合った。
ジークが惨劇を覚悟した瞬間。
「ねえ、あなたたちはどうして宝石をここにばら撒くの?」
その浮かんできた首が、可愛らしく小首を傾げた。
ジークは、ワイン色の宝石は投げ捨てたりせず、そっと水の中に入れてようとして良かったと思った。
何故なら、もし乱暴に水に入れていたら、自分のすぐ下にいた女の子にぶつけてしまう所だったから。
女の子の髪には、たくさんの宝石が散りばめられていて、小さな粒がきらきらと輝き、とてもきれいだった。
そして彼女の下半身に生えている、魚の尾、さらにそこに生えるうろこにも、細やかな宝石が散りばめられていた。
長い睫毛に、とても可愛い顔。水の中で見た時は、あまりに一瞬だったため、女の子がどんな顔か、まで把握できていなかった。
「ねえ、落ち着いた?」
人魚の女の子が、澄んだ美しい声音で話しかける。
ジークはピンクやオレンジが舞う、赤みがかったリズのうろこを見つめたまま、こっくりと頷いた。
「そう、落ち着いたなら良かった。ねえ君、人魚を見たの、初めてだったの?」
ジークは舌をもつれさせながら、何とか口を動かした。
「それもあるけど、聞いたことはあったし……。」
水死体だと思った、とは言えなかった。
「この湖にいるなんて知らなかったけど。」
それを聞いて、リズは手を口のあたりに運び、くすくすと笑った。
「そうだね、人間は一部の人を除いて、ここに近づかないもの。」
嬉しそうに、リズの尾びれが ぱしゃんと水面を弾いた。水の粒が舞って、きらめいた。
太陽の光がいっそう強くなり、視界いっぱいの水面や、リズの姿が白く輝く。
「ねえ、君は今、どうして宝石をここに捨てたの?」
「あ……」
――そうだ、この子にしてみれば、自分たちの住処をゴミ捨て場にされたようなものなんだ。知らなかったとはいえ、どうしよう。
目をそらしながら、ジークは言葉を探した。
「ごめん……。その、ここに捨てたりして……。」
「そうじゃなくって、どうしてこんなきれいなものを捨てちゃうの、って聞いているの。」
そう言って身を乗り出してきたリズの胸元には、熟れたりんごのように赤いルビー、その周りを糸のような華奢な金に飾り付けられた首飾りが下がっていた。
「ぎゃっ!」
ジークの声に、リズが びくりと体を引いた。
「え、な、なぁに。どうしたの。」
ジークは顔を隠したまま、何でもない、何でもない、水しぶきが目に入って驚いただけ、とごにょごにょ呟いた。
「今から三代か四代くらい前、都から唐突に御触れが来たんだ。あっ、俺たちの住む町は、その都って所の下っ端みたいなものでね、命令は聞かなきゃならないんだ。他にもそういう町や村はいっぱいあるよ。それで、都の偉い人が、俺たちに向かって命令したんだ。宝石をひとつ残らず捨てて、この地に残すなって。宝石を集めていた人や、宝石を売り買いする仕事をしていた人だっていたんだ。当然ひどい騒ぎになったって。でも都は、反対する人たちを弾圧……つまり、殺したんだ。そこからぴたりと、この土地は雰囲気が変わったらしい。都が力押しでその命令を聞かせてくるってなってから、ここは強い不信感と緊張が、常に入り乱れているような土地になっちゃったって。」
リズは、風にさらさらと流れるジークの金髪、そしてその横顔を見ながら静かに聞いていた。
目に水が入ったくらいであんなに動揺するものなのかな、リズは聞いている間も、その疑問がずっと頭につきまとっていた。
よく分からないけれども、落ち着いた後彼はつらつらと、宝石が捨てられた話をしてくれた。
――なんだ、おばあさまが言った、人間は人魚に宝石を捧げてるんだよ、って言葉は、ただの昔話だったんだ。
聞いている間、リズも草はらに腰掛けていた。水に浸かった膝より下の尾びれで、ぱしゃっと水を跳ねさせた。
「どうして、宝石を捨てろ、なんて言ったのかしら。」
静かに、呟くように言った。ジークがリズの方を見て、また顔をそらす。この子、全然私と目を合わせようとしてくれない。
ジークは言いにくそうに、もじもじと宝石が捨てられた理由を教えてくれた。
「その、宝石がある場所に、水害が来るから、だって……。」
「へ?」
リズは、思わず聞き返した。ジークの頬が少しだけ染まるのが見えて、しまったと思ったものの、どうしても口が止まらなかった。
「水害、宝石で。なん、で? あ、それとも何かの比喩表現?」
「お、俺だって分からないよ……。皆分からないんだ。それ以上は大した説明もしてくれない、というか、都は場所的にも立場的にも俺たちには遠すぎて、質問だってできないし。」
口早にそれを言うジークは、とても決まりが悪そうだった。リズは自分たちに向かってそよぐ風が通り過ぎるくらいの間沈黙して、小さく口を開いた。
「その、大変ね。」
リズはそれくらいしか言えなかった。
その後二人は、たくさん話をした。人魚の世界のこと。人魚は人間のことを「地人」もしくは「ヒレ無し」と呼ぶこと。水の中は宝石がきらめいていて、とても美しいこと。ジークは水を運んで売る仕事をしているということ。
別れ際に、リズはまた来てね。と言って、握手を求めた。
握手をほどき、さよならを言う直前、リズは言った。
「ねえ、もし宝石がね、本当に水害を起こすのか、って話にはならなかったの?」
その言葉が、ジークの耳に残った。