生まれた理由
「黒い珊瑚が……生まれた理由?」
夜と朝の境目の場所で、冷たい湖に浸かったまま。ジークはリズの言った言葉を繰り返した。
リズは上目遣いになりながら、こくんと頷く。
「よく分からないんだけどね、黒い珊瑚が私の体の中を侵食した時……黒い珊瑚と『ひとつ』になった感じがしたの。黒い珊瑚に、意思なんてあるはずがないのにね。でも、宝石をめがけて突き進むあの感覚は……まるで、黒い珊瑚の本能みたいだった。」
遠い目で語るリズ。リズは夢でも見ていたのだろうか、ジークはそう思いながら、静かにその話を聞いていた。
「黒い珊瑚はね、珊瑚ではやっぱりないの。似ているけれど。ここでは、分かりやすいように、呼び方は黒い珊瑚のままにするね。」
リズは一度、深呼吸をした。そしてつらつらと言葉を述べ出す。
「黒い珊瑚が生まれた理由は、宝石を包むため。黒い手帳のひとが書いていたでしょう。真珠は、貝が体の中に入った異物を無害化するために、自分と同じ組織で包んでできたものだって。あれ、すごく良い例えだったと思う。
宝石はね、雷が落ち続ける場所だったり、炎のように熱い洞窟だったり、生き物が住めない所にできるの。そしてそれは、大地にとっても”体調不良な場所”なの。だから黒い珊瑚っていう自分の一部で、そこを包んで全部無かったことにして、また一からやり直すために作る、かさぶたなの。」
ジークは、自分が宝石を捨てに通った道筋を思い出した。あの、生き物のいない不毛の大地。
――あれはやっぱり、生き物が全滅してたのか。
白紙になった大地に、新しい命が芽生えるのはいつになるのだろう。
リズは宝石の話を続ける。
「さっきも言った通り、宝石は天変地異がやまない、体調不良の場所にしか本来ないものなの。だから宝石を持ち出すと、そこは修理しなくちゃならない場所だっていう……誤解をしちゃう。だから黒い珊瑚で悪いところを包もうとするの。でも黒い珊瑚を作るにはあの水が必要だから、宝石のある場所はまず水で覆われちゃうってことなの。」
ジークはその話を、静かに聞いていた。そして、言葉が途切れたところで、気になっていたことを聞いた。
「修理をしないとならない場所だって誤解するって……誰が?」
ジークの問いかけに、リズは少しだけ迷ってから、言った。
「大地……いいえ、この星が。」
この星は、ひとつの生物みたいなものだから、私達みたいに代謝や回復をする、それと同じ。そう、リズは付け足した。
ジークはあまりにも大きすぎる話に、付いていけなくなるのを感じた。それはリズも分かっていたらしく、手をもじもじとさせている。ジークは話を小さく戻すためにも、この気まずい空気を打破するためにも、前に考えた自分の推論を口にした。
「つまり人間に、かさぶたになる体液があるみたいに。宝石が呼ぶ水は、普通の水じゃなくて、固体を作るための特別な液体だったの?」
リズは目を大きく開いて、それから、拍手しながら言った。
「そうだよ。あの液体から黒い珊瑚は作られるの。」
無邪気に笑うリズ。その笑顔はいつもと何も変わらないのに、話す言葉の不思議さに、何故だかどこか、異質だった。
ジークはリズの瞳を見つめる。どこまでも澄んだその目は、どこを見据えているのだろうと思いながら。
リズの心は、自分達からどこか遠くに行ってしまっているのではないだろうか。そんな不安にジークはかられた。
リズは遠い目をして、話し出す。
「本当はね、ここも危なかったの。ここが水……あ、あの液体のことね。に、沈まなかったのは、この土地の下には大きな岩が隙間なくあって、水が通れなかったから。でもそれも、何十年もかけて少しずつ侵食されて……。あと少しで、岩は決壊するところだったの。本当に……」
リズの目の色が変わる。
「惜しかった……」
その目に、声に。ジークの背がひやっとする。
「リズ!?」
ジークは思わず声を張り上げた。その声に、リズは びくっと体を震わせた。
そして、ハッとリズは息を呑み、その頭を抱えた。
顔色のなくなったリズの瞳が、小刻みに揺れている。リズはジークを見上げ、震える声で言った。
「ジ、ジーク。わたし、わたし、ちが、」
そのリズの並々ならぬ様子に、ジークの心が切り替わる。「何とかしなきゃ」、と心が叫ぶ。
ジークはリズの手を取り、ぎゅっと握りしめた。大丈夫、大丈夫と囁きながら、リズの手を優しく撫でた。
瞳を揺らしたまま、リズはしばらく俯いていた。そして手を握ってからしばらくした後、か細い声で彼女は話し始めた。
「ジーク、信じ、られないかもしれないけど。私、黒い珊瑚の立場で今、ものを言ってしまっていたの。でもあのね。惜しかったって言っても、星と違って、あの子達は決して、そこに居る人達を排除しようだなんて思ってない。そういう概念すら無い。あの子達はただ、宝石を自分達の体で包み込む役割を果たそうとしてるだけ。そのために生まれてきた存在だから。」
リズはジークの腕にすがりついて、今にも泣きそうな顔でジークを見上げていた。とても必死な声で喋りながら。
上がりそうな朝陽を背に、リズは言葉を発した。
「私今、まるで、自分を黒い珊瑚みたいに感じるの。宝石を包み込まなきゃって。私の、私の意思じゃない。どうしよう、ジーク。私、私の意思がのっとられてしまいそうに感じるの、怖いの!」
リズの手に力が入る。ジークの腕に、その細い指が食い込む。
リズが火傷をする様子はなかった。何故なら、ジークは極限まで血の気が引いて、指先はもはやリズよりも冷たくなっていたから。
自分の腕にすがりついて、涙を流す自分の好きな女の子。
――リズが、おかしくなってしまう? 消えてしまう?
――俺が、リズをあんな場所に連れて行ったから。
――俺がリズと出会っちゃったから。
ジークは、自分の顔から血の気が引くのが分かった。もはや痛いほどに。
それを見たリズが、もっと不安そうな顔をする。そこでジークは、ハッとした。
――駄目だ、一番不安なのはリズなんだ!
ジークは、がしっとリズの肩を掴んだ。今だけは、自分の手が冷え切っていて良かったと思いながら。
「大丈夫!」
ジークは力いっぱい声を張る。リズの後ろで、白金色の朝陽が見え始めていた。
「今さっき、リズは俺の呼びかけに応えたじゃん。リズの意思がまた遠くに行きそうになったら、その度に俺が呼び戻すから! 例の特別な水がなくちゃ、黒い珊瑚はできないんでしょ。だから、リズの体の中で黒い珊瑚がこれ以上増えることは無いよ。きっとこれ以上は進まない。」
水面が朝陽に照らされて、きらきらと輝きだす。リズの髪も、光に透けて白く光る。
「だってリズはもう、一回黒い珊瑚に勝ってるんだから。」
ジークはそう言って、最後ににこっと笑った。
根拠なんて無い。自信だって無い。ただリズを安心させるための、単なる予想。そして、自分の願望。
それでもジークは、リズに「俺のせいでごめん」「俺と出会わなかったら良かったね」などと卑屈に謝るよりも、こっちの方がよっぽど良いだろうと思った。
だってこれを言った今のリズは、朝陽に包まれながら、安心したように笑っているのだから。
リズの目からは、まだ涙が流れている。涙の粒を指先でぬぐいながら、リズは言った。
「うん……絶対だよ。呼び戻して。側にいて。」
ジークは何度も うん、うんと頷いた。
自分が絶対守る、自分が絶対守る。
ジークは見えない何かに誓うように、心の中でその言葉を繰り返していた。
美しい朝陽に涙の粒を光らせるリズは、この世の何よりも美しい、ジークはそう思った。




