好きな人
今日も引き続き、水の中から宝石をさらおうと思っていた。思っていたのに。
ジークは湖のほとりで、数人の人魚達に睨まれながら。その言葉を復唱した。
「リズが、目を覚まさない……?」
涙に濡れ、その目付きを鋭くさせた人魚が頷いた。
「原因不明で倒れていたところを、朝に見つけられたんだ。リズが、よくお前と二人で会ってたのは知っている。昨日も……。お前が、リズに何か病気でもうつしたんじゃないのかって話で持ちきりだぞ。」
ジークはその言葉に答えなかった。
血の気が引いた。頭の中が真っ白になった。
――リズが、意識不明……。
意識を取り戻さない。発見に時間がかかった。
「どんどん弱り続けてるって! 死ぬかもしれないって医者が言ったんだ!」
――リズが、死ぬ……?
ジークの視界を、自分の金髪がさらさらと流れている。唐突すぎるその言葉に、自分はどうすればいい。
あの甘い笑顔も。他の誰と居ても味わえなかった幸福感も。
みんな、みんな消える。みんな無くなってしまう?
――なんで、どうして。
震える声で、ジークは呟いた。
「……リズに会わせてください」
心の中から勝手に漏れ出た声。その声は鋭さを増して再び吐き出された。
「リズに会わせてください、今すぐに!」
ひときわ強く睨んでいた男の人魚が、何故だか目を丸くする。
そしてまた、目つきを鋭くさせた。
「お前、聞いてなかったのかよ。ヒレ無しと居たから病気になったかもしれないって言ったのに、よくそんな……。」
「黙れ!」
ジークは叫んでいた。今まで叫んだことのない自分の、その行動を。心のどこかで驚いている自分がいた。
「それは、お前の願望だろ! どうせ、リズに俺を近寄らせたくないくだらない僻みだろ! 人間と人魚の間で死ぬような病気があったんなら、もうそんなの、とっくに知られてるはずだ。これ以上そのくだらない感情で邪魔してみろ、お前をぶん殴ってでも、俺はリズに会いに行く!」
人魚は、わなわなと唇を震わせていた。そこから出た彼の言葉はさっきよりも、ジークには弱々しいものに感じられた。
「お、お前がリズに会ったところで、お前に何とかできるのか!?」
――いつもだったら、きっとこの相手の剣幕とか、自分のせいで、とかいろいろ考えてしまっていただろうに。
今はそんなことが何も気にならない、それどころか、煩わしいとすら思っている自分に、ジークは心のどこかで驚いていた。
一人だけ喚きまくる人魚の男。一緒に来て同じように睨んでいた、老女や子ども、同年代と思われる人魚。
きっとこの人達は、本当にリズが大好きなんだ。その気持ちをきっと、こいつが仄めかして、煽った。俺のせいにしたいがために。
――いや。こいつもリズのことが好きなんだろう。だからこそこいつは、俺が憎いんだ。
ジークは嫌に冷静な頭で、そんな予想を立てていた。今まで、誰かのことをこいつ、なんて心の中ですら言ったことないのに、変だな。と思いながら。人魚の男はまだ叫んでいる。
「何もできないないだろ! そんなんで会わせられるわけ、」
「もうやめて!」
途端。水の底から、澄んだ声が響いた。
そこからざばっと出てきたのは、栗色の髪をした女の子の人魚。
「レミィ……」
レミィと呼ばれたその人魚。彼女のその目は、目の前にいる男の人魚よりも怒りに燃えていた。
彼女は叫ぶ。
「いないと思ったら、こんなくだらないことを! リズが、リズが危ないって言うのに! 普通に考えたら分かるでしょ、何かできるも何も、彼には十分リズにあう権利がある! リズだって……きっと、きっと彼の言葉が一番……。」
そこまで言って、レミィはとめどなく流れる大粒の涙を ぐっと拭った。
そしてジークに向き直り、落ち着いた声で言った。
「私はレミィ。リズの親友です。ジークさんの話はリズからよく聞いてました。私はジークさんに、リズに会いにきてもらうためにここに来たんです。」
レミィの濡れた目と、ジークの青い目が、力強く交差する。
「来て……くれますよね?」
ジークは力強く頷き、レミィの手を取った。
人魚達の住処は、まるで異世界だった。
まだ残る、宝石のきらめき。
桜色や忘れな草の色、淡い色をした大きな貝たち。
宝石の捨て場に行く途中で見た、黒いごつごつした不思議な岩。それをマシューは、珊瑚のようだ、と言っていた。
人魚の住処には、その色とりどりの本物の「珊瑚」がそこら中にあった。
――これが、人魚の世界。
美しいものだけを閉じ込めたような、まるで宝石でできた世界のような。
レミィの肩に掴まって、水の下で揺らぐその世界を見下ろしていたジークは、その世界の美しさに見とれていた。
ふっと、泳いだままのレミィが口を開いた。
「リズから、あなたのことはよく聞いていました。嬉しそうに話して……。」
人魚のレミィは、ぐんぐんと水を切って進んで行く。
「リズに呼びかけてあげてください。もしかしたら、あなたの声だったら戻ってくるかも、とか思ってしまうんです。」
レミィの声が涙声であったことを、ジークは気付かないふりをした。
人魚達の住処には、水を通して揺らぐ光が、ヴェールのようにかかっている。
ここで待っていてくださいね。リズを連れてきます。そう言われてジークは、三日月型の岩の上に乗せられた。
どこまでも澄んだ湖。そこをレミィが潜って行くのがよく見える。
そしてレミィは、桜色の大きな貝殻の中に入って行った。ここに来るまでもたくさん並んでいるのを見た、珊瑚に支えられるように、飾られるようにして鎮座する大きな貝達。あれは家だったんだ、とジークは遅ればせながら理解した。
リズはすぐに連れてこられた。
その蒼白な顔色に、こっちまで血の気が引く。わざわざ水で手を冷やす必要がないほど、ジークの手はもはや冷え切っていた。
連れてこられたリズの頰に、手を伸ばす。
「リズ……。」
呼びかけたその声に、レミィが痛々しそうに目を背けた。
レミィが言う。
「お医者さんの話では、症状的には酸欠の状態に似ているんだって。エラからの呼吸が……弱まってる。でもどうしてだか、分からないって。」
レミィの声が震えて行く。リズの体が、ジークに預けられる。
「じゃあ、私は行きますから。しばらくしたら、また呼んで。」
そう言って、身を翻そうとするレミィ。しかしその瞬間、ジークは奇妙なものが目に入っていた。
「なんだ、これ。」
その声に、レミィが立ち止まる。振り向いた彼女の目には、涙の雫が光っていた。
ジークは、リズのエラを指でなぞった。
何か黒い砂利のようなものが、リズのエラにうっすらこびりついている。
指でこすれば、その黒いものはぼろぼろと崩れた。
レミィは首を傾げる。
「エラに、ゴミが……? 変ね、そんなもの……。」
呼吸が弱まっているからなのかな、そうレミィが呟いたその時。
ジークの頭の中で、この映像が別のものとつながった。
広い青空、どこまでも続く岩と水。
足でこすればぼろりと崩れた、不思議な形の岩。
「黒い珊瑚……」
ジークは体中に電気が走るような感覚がした。
「リズは、あの珊瑚があるところを泳いだ」
もし、あそこの水が原因なのだとしたら。そうだ、リズは言っていた。沈んだ国まるごとあの岩、黒い珊瑚がこびりついていたと。
黒い手帳の内容が頭をかすめる。
――岩から、宝石は出て来た。
その岩が、黒い珊瑚のことだったとしたら? その黒い手帳の時代の宝石も、同じように、黒い珊瑚によって閉じ込められていたとしたら。
「本当に、あれはただの水なのか?」
ジークは、思わず呟いていた。
人間に、かさぶたになる体液があるように、あれがもし水ではない何かの液体だったとしたら。固体を作るための液体だとしたら。
――リズはその液体に入っていたせいで、気道が詰まってる……?
「レミィさん、今すぐお医者さんを呼んで来てくれませんか」
ジークはリズを抱きかかえたまま、目だけを鋭くさせていた。
――リズの気道で、黒い珊瑚が固まり出している。
そんなおかしな確信が、ジークの中で固まりつつあった。




