滑り落ちた櫛
後日、リズは人魚の長に頼み込んで、ジークが人魚達の前で話をさせてもらう機会をもらうことに成功した。
太陽の光が降り注ぐ下、ジークはすごく頑張って演説をしていた。人間が宝石を水に捨てた理由、手帳の内容、宝石の捨て場での話。
しかし話を聞いた人魚達の反応は、顔を見合わせてしかめるなど、リズの目から見て協力的とは言えなかった。
ただ結果としては、長の口添えもあって、何とか宝石を回収する許可を得るに至った。
不満を訴えるようないくつもの目。
それがジークに向けられているのが、リズには耐えられなかった。
大地から太陽のほてりが冷め始めた、夕焼け色の光が降り注ぐ中。
ジークが一人、湖の端で座っていた。
涼やかに風に吹かれて、髪を夕焼けの光で輝かせて。
遠くを見るジークの姿に、リズは胸がきゅうっとなる。
そっと水を撫でるように、リズは泳ぎ、ジークの元へ辿り着いた。
「ジーク、お疲れ様。」
ジークが振り向き、柔らかに笑う。
リズはジークの正面まで行き、水の中から語りかけた。
「ジーク、すごく堂々としてたよ。何が言いたいかも分かりやすくって。」
ジークが、ありがとう、と言って寂しげに笑う。
――ああ違う、それもそうなんだけど、私が本当に言いたいのは。
――でもやっぱり、言わないほうがいいかも。でもでもここで止めたら、気を遣って慰めたみたいになっちゃう。
リズは両手を胸の前で合わせ、唇を軽く噛んだ。
――私は、これを言うために来たんだもの!
「……あの、格好良かった、よ。」
さらっと言うつもりだったのに、声が震えて、途中で目も合わせられなくなってしまった。
「え。」
リズは上目遣いでジークの方を見る。恥ずかしくて、涙目になりそうになる。
見ると、ジークは目を丸くしていた。
そして少しだけ見つめあった後に、ジークは手の甲を自分の口に当て、顔をそらした。
「えーと、ありがとう。」
――え。
リズはどうしてか、自分の胸の奥で、氷で引っ掻かれたかのような冷たさと痛みを感じた。
――なんだろう、この気持ち。もしかして私、今のですごく傷付いたの?
どんどん、どんどん胸がえぐられる。
――もしかして私、格好良いよって言って、ジークが舞い上がってくれるのを期待してたのかな。ジークはそんな、舞い上がるようなタイプじゃないよ。あれ、なんで、こんな。
「あ……」
ぽたっと、リズの目から涙が落ちた。
雫が、夕空をうつす水面をたゆたわせる。
「リ、リズ!?」
ジークが、焦ったような声でリズの名前を呼んだ。続けざまに、水の音がする。
――お願い、見ないで。どうしてこんなことで。どうして私はジークに対してだけこんなに重いの、気持ち悪いよ。
リズの目から、なおも涙がこぼれ続けた。
そしてさっきからふいに始まった水の音がやんだかと思うと。
ふわっと、頭の上に何かを優しく置かれた。
見ると、ジークが目一杯手を伸ばして、リズの頭を撫でていた。
「リズ、大丈夫? えっと、俺、何か……」
ジークの腕は濡れていた。あの不思議な水音は、ジークが腕を冷やす音だったのだ。
だって、人間のジークに触られているのに、熱くない。
――何でそんなに優しいの。その気遣いも、何もかも。あぁやっぱり、私ジークのこと好きだよ。
胸の中が、今度は幸せの感情でいっぱいになる。
「ジーク、お願い。水の中に入ってきて?」
まだ涙に濡れた目で、リズは小首を傾げてお願いしてきた。唇には微笑が浮かんでいる。
ジークは ふっと、人魚の伝承を思い出した。
人魚は美しい声と姿で人々を魅了し、水の中に引きずり込むんだ、と。
何だか今の状況は、それの再現みたいだ。
そう思いながらも、この甘い笑顔を、このままもらえるならそれでもいいかと思ってしまう。
――そしてもしリズが自分のことを魅了する相手に選んでくれたのだとしたら。これ以上嬉しいことはないよ。
そう思って、ジークは服のまま水の中に入って行っていた。
水の中は、水面は温かいのに足先の方はすごく冷たかった。きらきらと一面が光り輝く世界で、一緒にいるだけでたくさんの幸せをくれる女の子がいる。
するとリズはくるっと向きを変えて、ジークの隣に来た。
そして左手でジークの右袖を掴み、肩をぴったりくっつけてきた。
星空よりも燦然と輝く、水面の光の粒たち。
肩をくっつけて、一緒にそれに飽きるまで、夕陽を眺めていた。
水面にうつる月。その光の粒はおぼろげな道のように、水の上を走る。
砕かれた月光の欠片が、水の上できらめく。
リズはきらめく夜色の湖の下で、自分の髪を梳いていた。
ゆっくり、ゆっくり。
胸の奥の、今にもこぼれ落ちてしまいそうな、幸せで甘い気持ちを噛み締めながら。
もう一梳き、すると。
手から、くしが滑り落ちた。
ここ数日、指が痺れる。
拾おうとしても、しびれが頭にまで来て、意識がぼんやりしていく。
リズは、大きな貝殻でこしらえたベッドに向かって、少しずつ泳ぎ始めた。
ほんの少しの距離が、遠く感じた。だんだん頭が何も考えられなくなってくる。体の中で、砂嵐が ざー、ざーと吹きすさんでいる。
――あぁ、これ、酸欠だ。
そう気付いた時には、リズはゆっくり水底に落ちて行っていた。
とん、と肩が底につく。目を伏せたまま、リズは動かなくなった。
宝石の脅威が、始まっていた。




