宝石の捨て場
「あの、本当に行き先は水で繋がっているんですよね?」
空が高く澄み渡る、朝。
ジークは先日、都遣えの男、マシューと共に「マシューが宝石を捨てに行く場所」に行くということに返事をした。
待ち合わせ場所で待つマシューは、いつもの制服ではなく私服を着ていた。まくられた袖からは筋肉に包まれた太い腕と、量の多い腕の毛が見えていた。
見渡す限り水と、水に浸されたごつごつした岩。歩く場所は何とか自ら岩が顔を出しているものの、少し道を踏み外せば深い深い水の中だった。
「ジークー! 水の中、何だか岩がごつごつしてて擦っちゃいそうだけど、泳ぐだけの広さはあるー!」
その水の中から、リズがぱしゃっと顔を出した。手をぶんぶんと振り、愛嬌のある笑顔を振りまいている。
薄く笑みを浮かべたジークを見て、マシューが口を挟む。
「俺の知っている限りじゃ、水が途切れることはない。ずっとこんな感じだ。ただ、水の下の岩がどうなっているかは分からない。お前の、彼女の人魚が通れるほどの隙間じゃなさそうだと思ったら、引き返すようちゃんと言っておけ。」
ジークは数秒黙った後、小さく 分かりました、とだけ言った。
口の横に手を当て、大きく息を吸う。
「リズー! 大丈夫だって! 行こう!」
顔だけをちょこんと出していたリズが、ぱしゃんと水の中に潜った。顔と入れ替わるようにしてリズの緋色の尾びれが ちらっと見えて、そのまま音もなく、優雅にジーク達の元へ泳いできた。
「よかった! マシューさん、よろしくお願いします!」
リズが桃色の唇を にこっと笑顔の形に変える。
ジークはそんなリズと、リズを見下ろすマシューを交互に見直す。
今日のリズにはジークたってのお願いで、いつもの赤い首飾りと、髪や鱗の隙間にはめられていた宝石達を外してもらっていた。そして、岩がごつごつしていて危なそうだから、と言ってリズにはジークの黒い上着を着てもらっていた。
汚しちゃっていいから、とにかく明日一日はこれを着ていて、と念を押され、リズは服は邪魔だの肌に張り付いて気持ち悪いだのとは言えなくなってしまった。
「いいですよね、マシューさん。じゃあ、行きましょう」
急かすようにジークが口を挟み、一行の日帰りの旅は始まった。
朝はまだ平気だった陽光も、日が昇るにつれてだんだんと灼熱の太陽に変わっていく。
歩き始めて、しばらく経った。
こうして、たった三人だけでこの変わらない景色の中を延々と進んでいると、まるで世界がここだけで途切れているかのような奇妙な感覚に襲われた。
まるで一度世界の終わりでも迎えたかのような、どこまでも続く穿たれた岩とこの地形の一面に滴る水の世界。
マシューはその風景の中で、淡々と話を始めた。
「足場のごつごつした岩があるだろう。これは、ここ数十年できたものらしい。」
ジークは自分の足元を見た。ここの岩は確かに変わった形だなと思っていた。まるで、たくさんの人の手みたいだと。
「これはな、はるか遠くにある”海”という、塩辛い湖にしか生えない宝石とそっくりなんだ。」
ジークの視界の端では、リズのあげる水飛沫が、きらきらと輝いている。
「宝石と言っても、真珠や琥珀のように、持っていても害はない例外的な宝石だ。琥珀と同じく生物によって作り出された宝石だからな。俺達にとっての敵は、岩の中に埋まっている宝石だ。」
真珠に、琥珀。これ以外の宝石が装飾品として使えなくなった今、真珠や琥珀はかなりの高級品で、ジークも真珠を一度見たきりだった。
マシューは海に想いを馳せているのか、どこか遠くを見たまま言葉を紡いだ。
「そしてその、海の宝石は”珊瑚”という。」
足元の、その海の宝石によく似た岩が、足の下で しゃり、と音を鳴らした。
マシューは続ける。
「俺も一度だけ見たよ。珊瑚は本当にこの岩そっくりなんだ。だからこの岩達は岩じゃなくて、真水に育つ珊瑚なんじゃないかって思っている。」
ジークは自分の足元を ちらりと見ただけで、何も言わなかった。
――これが宝石、ねえ。
砂利が不思議な形に固まったようにしか思えない、ジークは心の中だけでそう呟いた。
「とはいっても、塩水で育つ珊瑚は本当に色とりどりだった。宝石と呼ぶに相応しいほどに。東雲から晴天、夕焼けまで、まるで多彩な空の色をしているんだ。」
まるで自分の心を見透かしたかのように続けられたマシューの言葉に、ジークは少しだけ肩を跳ねさせた。
そして驚いたのはもうひとつ。マシューは向こうを向いたままだったため、頬の筋肉の動きなど微細なものでしか感知できなかったが。そのマシューの顔に、笑みが浮かんでいたからだ。
マシューは声を子どものように跳ねさせて。
きっと今のマシューの顔は、おもちゃを見る子どものように活き活きしているのだろう、ジークはそう思わざるを得なかった。
ジークの頬が、少しだけ緩んだ。
「宝石、好きなんですね。」
そう声をかけたら、後ろ姿だけでもマシューが高揚を抑えてしまったのが分かった。
ジークの顔が、さらにほころぶ。
「俺も好きです。」
「私も好き!」
ぱしゃんっ、と。いつの間にか近くで聞いていたリズが、飛沫をあげながら身を乗り出してきた。
一行がやがて辿り着いたのは、大きく深い湖だった。澄んでいるはずなのに、何も遮るものは無いはずなのに、太陽の光は底まで届いていない。
ただ眼下に広がるのは、底の見えない水の暗さだった。
歩み寄ろうとするジークを、マシューが腕で制す。
「あまり近寄るな。この辺はいきなり深くなる。」
かりそめの珊瑚の道は、ここらで途切れる。
ここが、マシューの言う「宝石の捨て場」だった。
今後は宝石をここに捨てろと言うことだろうか。ジークは額の汗が風に当たるのを感じながら、きらきらと輝く水をただ眺めていた。
しかし、マシューはしゃがんだまま、何やら水を見つめている。目を凝らして、まるで水底を見透かそうとしているかのように。
そして呟いた。
「ここが、宝石に沈んだ国の跡だ。」
風が吹いた。
強くなった風は、まるで自分をこの深い水に突き落とそうとしているみたいだった。
ジークは、そっとその場に膝をついた。ズボンが水に濡れる、珊瑚のような岩が膝に食い込む。
ぐっと水底に目を凝らすが、よく見えない。
「今日みたいに晴れた日なら、多少は見えるんだが……。今日は土埃が水に溜まってでもいるのか?」
マシューが、低い声で独り言を呟く。
ジークは思う。どうしよう、本当にまさか、国が沈んでいるとしたら。
――俺は本当は、ものすごく重い責任を背負っているんじゃないだろうか。
知りたくないが、ジークは、知らなきゃいけない気がした。
血の気が引き、冷たくなっていたジークの耳。
そこを甘い声がくすぐった。
「……あの、私が見てきましょうか? 私なら、深くまで潜れるし……」
柔らかなリズの申し出に、マシューが ハッとした。
「そうだ、忘れていた……。今日は人魚がいるんだ。ああ、そうしてくれ、頼むよ。それと、」
もし水底に何かあったら持って来てくれ、マシューの頼みを胸に、リズは深く深く、水の中へ潜っていった。
リズがいなくなり、再び静かになった水の上。
まだ膝をついたまま呆然としているジークに、マシューが声をかけた。
「お前が自分の仕事に熱心な奴で、助かったよ。俺が今まで居た場所の担当はどこもあやふやか、全く行動を起こさないような奴らだった。」
その声に、ジークが振り向く。
言いにくそうに、振り絞るようにジークが声を出す。
「俺はそんな、立派な気持ちで言ったんじゃありません。ただちょっと気になったからって言うのと、その、友達……リズが気になってたらしいから、答えになるものを探して居ただけというか、そんな理由でした。」
「ほぉん、娘の興味を自分に繋ぎとめておくため、か。」
ジークは、頰が かっと熱くなるのを感じた。
違います、と言っても見透かされてしまいそうで、否定もできない。でも、否定をしなきゃ肯定に取られてしまう。
――でも言われてみれば、もしかしたら俺はリズと話す理由を作るために、宝石と水のことを調べ始めたんじゃないのか。
ジークの脳裏に、初めてリズと会った時のことが浮かぶ。
桃色がかるような、あま色の髪。燃え立つ朝焼けのような美しいうろこに、柔らかで甘い笑顔。今だから言えるけど、あの時、すごく可愛い子だと思ったんだ。くっきりして整った目鼻立ちを、蜂蜜のような甘い可愛らしさが包んでいる。
――ああ、そうだ。俺はリズと話すために、これについて調べていたのか。
ジークの中で、感情の蓋が取れていくような心地がしていた。気付かなかった、もしかしたら見て見ぬ振りをしていた感情が、やっと出れたと安堵しながら、蓋から飛び出してくる。
そしてその蓋の下にあるものが、露わになる。
――俺はもしかして、リズのこと、好、き、なんだろうか。
自分はてっきり、親の勧めでお見合いをして、自分に釣り合う誰かと流されるまま結婚すると思っていた。
恋愛結婚なんてあり得ないことだと思っていたし、恋愛も無駄なことだと思っていた。
――だからもし”それ”をしてしまう場合、してしまった場合。どうすれば良いのか分からない。
ジークはリズに早く帰ってきて欲しい反面、自分の心の落とし所が分かるまで、まだ水の中に潜っていてほしい、そう思った。
水面は生暖かい、やっぱり少し潜ると水が冷たくなって気持ちが良い。
リズは体全体をしならせ、すいすいと水底に潜りながら、そう思った。
しかしこれほどまでに深い水はリズ自身初めてだったため、潜るほど不安が増してきた。
――どんどん暗くなって、どんどん冷たくなってく……。それになんだか、下の方に行くほど体が押し返されるような……。
このままどんどん冷たくなって、最後は何もかもが凍りつく場所だったらどうしよう。そう思い、体が進むのをためらう。
でも自分が役に立つチャンスなんだから、頑張らないと。リズはそう思って、限界まで行くことにした。
底の方は暗すぎて、よく見えない。リズはエラで集めた酸素を、一時的に肺へと送り、自身の声帯を震わせた。
ラ――――、ラ――――。
透き通った、賛美歌のような音が、水を震わせる。
リズはそのまま、まるで歌を歌うかのように音階を奏で続け、やがて伏せていた目をそっと開いた。
――中心にお城。そしてその周りには、規則正しく並ぶたくさんの家がある。
音の反響を確かめ、周りにあるものを見通す人魚の習性。
リズはこの水底にある物が、確かに国の形をしていることを感じ取った。
そして、変な違和感。
――でも、それにしてはざらざらぼこぼこしてた。まるで、岩が国の形を真似たかのような。
そこでリズは、先ほどの真水の珊瑚を思い出した。
――そうだ、あれだ。沈んだ国の上を、あの珊瑚達が覆っている。きっとここは、それほど昔の建造物ってことなんだ。
マシューの言葉、何かそこにあったら持ってきてくれ。リズはこれ以上深く潜るのは怖かったが、それで何か進むなら、もう少しこの調べ物が続くなら、と胸の中で呟き続けた。
ジークの町に帰って来たのは、もう空が熟れた果実のような色に変わった、夕方だった。
「じゃあ、これは俺が先に見させてもらうってことで、良いんだな。」
ジークがマシューの言葉に、こくりと頷く。
マシューの手に握られているのは、まだ湿っている黒い手帳。
そして防水のためと思われる、その手帳が入れられていた皮袋。
その皮袋には所々、まだあの珊瑚のような何かの塊がこびりついていた。
水に潜った後しばらくしてから、リズはこの皮袋を持って出てきた。
リズ曰く、これは珊瑚岩の中に埋まってたんだよ、とのことだった。端だけ出ていて、力づくで引っ張り出したらしい。
水の中で少し皮袋を開けてしまったため水が入ってしまったらしいが、インクは紙にしっかり染み付いていて、読む分には問題なさそうだった。
「昔、国があった所に行って、謎の手帳を見つけちゃうなんて。何だかまるで冒険みたいだね。」
水辺で腰掛けるリズが、自分を見上げながら無邪気に笑っていた。
もうジークが貸していた色の濃い服も脱いでいて、いつものリズの姿だった。
ジークも隣に腰を掛ける。ズボンの裾が、水に濡れる。
正直言ってジークは、リズを一人で水底へ行かせてしまったことを、行かせてすぐに後悔していた。
危険な生物が住み着いているかもしれない。ただでさえ得体のしれない場所に、どうして自分は何の懸念も無くリズを送り出してしまったのだろう、と。
そんな最中、水の中から高く長いリズの声が聞こえた時は、体全身が凍りついた。
悲鳴かと思ったんだ。
無意識に腰を浮かせていたジークを止めたのは、マシューだった。
「あれは暗闇の中に何があるのか調べるための、人魚の暮らしの技だ。聞いてみろ、歌ってるみたいに何度も声を上げているだろう。あれをやってるってことは人魚の娘も無事だってことだし、何よりあれでいて、ちゃんと用心深い性格をしてるってことだ。」
そうは言われても、ジークは湖から目が離せなかった。
高らかに響き渡るそのきれいな声が、急に恐怖に彩られた悲鳴へと変わるのではないか。声が聞こえても、聞こえていなくても心配だった。
不安は、リズが潜って時間が経つつれに増していく。
せめて、無理はしないように、とか。五分経ったら戻ってきてとか言えば良かった。
だから水の中からリズの気配がした時、本当に安心したんだ。
そして満面の笑みで、ぼろぼろの何かを天に掲げるようにして持ってきた。
そんなリズの得意げな顔を見たら、力が抜けて、歩けなくなったかと思った。
「ジーク?」
今目の前にいるリズが、ジークに話しかけてきた。夕焼け色に染められた彼女。その温かな笑顔が、自分に向けられていることが嬉しかった。
リズに向かって、ジークは笑いかける。
「リズ。黒い手帳が戻ってきたら一緒に見よう。」
リズは、花がほころぶように微笑んだ。




