閑話「手」
その日、リズとジークは太陽が天辺にある頃に、湖で会っていた。
リズは水に入ったまま、草はらに頬杖をついている。小首を傾げて、こう聞いた。
「ねえ、人間は泳げないの?」
太陽に金髪を輝かせて、ジークがうっすらと笑った。
「そんなことないよ。息が続く間は泳げる。」
へえ、と言って、リズがにんまりと笑った。
「じゃあ、一緒に泳ぎましょうよ!」
そう言って、リズは思いっきり腕を伸ばし、ジークの手を握った。
「熱いっ!」
しかし、触れたかと思った途端。リズが叫び、手を引っ込めてしまった。
「リ、リズ?」
リズは手を水の中に入れて、必死に動かしている。その仕草が、ジークは火傷をした時の処置の仕草と重なった。
「もしかして、火傷したの?」
リズが眉を下げて、こくこくと頷いた。見ると、手のひらが赤くなってしまっている。
ジークは一瞬だけ、そんなまさか、と思ったものの、昔父親と魚取りをした時のことを思い出した。
父親は、先に水で手を冷やしてから魚に触れと言っていた。どうしてか聞くと、魚は体温が低いため、人間の体温でも火傷をしてしまうからだ。手を水にさらして温度を下げれば大丈夫、と教えてくれた。
その時の思い出がまさか今に繋がるとは思わなかったものの、ジークは半分人間でも、やっぱり半分は魚なんだなあと、人魚であるリズを見てそう思った。
「大丈夫?」
「うん、もう大丈夫。」
そう言って、リズがにこっと笑った。
ジークの手首には、リズが握ってくれた時の感触が残っていた。
ひんやりとして、濡れた指。その名残を、ジークは何故だか何度も反芻してしまっていた。
――そっか、初めてお互いにふれたんだな。
ジークは緩んでしまいそうな口元を、さっと自分の手で覆った。
リズは、何度もタイミングを伺っていた。
理由があって、自然にふれることのできる流れ。
そこで思いついたのが、「泳ごう」という申し出だった。
人間は少しなら泳げるって言うし、自分が手を引いてあげる、という名目があるならきっと大丈夫。
リズはそう思い、何度もタイミングを伺い、平静を装ってその話題を口にした。
ジークが特に訝しむような様子も見せずに返事をして、ほっとする。
さあ、いよいよだ、と勇気を出して触れてみた。
――熱いっ!
思わず、手を引っ込めてしまった。
すごく驚いた。人間は、熱いのだ。
人間に触れたことの無かったリズは、予想外の出来事に作戦が全て吹っ飛ばされ、どうすれば良いか分からなくなった。
――思い切ったことをしてみたのに、そこで失敗なんてきまりが悪いというか、恥ずかしい。きっとジークも、何がしたかったのか意味が分からないって思っただろうなあ。
指先は今も少しじんじんする。とてもじゃないけど、これ以上は無理。
そう思った瞬間、もう一つのことが頭に浮かんだ。
――そうだ、ということは、人魚の私じゃ地人のジークに触ることもできないってことだ。火傷しちゃうから。え、そんな。そんなことって。
リズが放心していると、ジークがおもむろに手を水に浸け、ばしゃばしゃと動かし始めた。
何してるの、とリズが聞くと、ジークは んー、と言葉を濁して、手を水に浸け続けた。
そして少しして、ジークが水の中から手を出した。きれいな青い目で、リズをじっと見つめてくる。
「手、出して。」
「え……」
――手を出して、どうするんだろう。
リズは少しだけ、自分の胸の鼓動が速くなるのを感じた。そのまま手を出さずにいたら、ジークが気遣わしげに笑った。
「あ……。やっぱり、火傷するかもって怖い?」
リズは思わず ぱっと顔を上げた。
違う! と声を上げそうになったものの、ならどうして手を出さないのか聞かれたら、と思い、その勘違いに乗ることにした。否定はせず、でも肯定もせず。
手を差し出してくるジークに、おずおずと手を伸ばした。とん、と指先が触れる。
思わずリズは声を漏らした。
「熱く、ない。」
ジークが ぱぁっと顔を輝かせる。その顔にリズは、胸が きゅっと締め付けられた。
「やっぱり! あのね、父さんに聞いたんだ。魚は普通に触ったら火傷をするから、水で手を冷やしてから触りなさいって。だからそうしたら火傷しないかなって思ったけど、良かった! 火傷、しないね。」
そのままジークは、無邪気に、花がほころぶように笑った。
そして触れていた指が、そっと握られる。
そこでリズは自分が今、手を繋いでいると気が付いた。
頬に赤みが差す。リズはジークに気取られていないか、いや、気取られてもいいか、と繋がれた手に視線を落とした。
――うまく言えないんだけどね、ジーク。私今、すごく幸せな気分になってるんだよ、分かる?
繋いだ桜色の手は、やっぱり細くて、しなやかだった。
きれいな子は、指先まできれいなんだな、とつい思ってしまい、ジークはその考えを慌てて頭から追い払った。
自分の手を冷やしたからか、先ほどはひんやりしているように感じられたリズの手は、少し生ぬるく感じた。
自分の読みがあたっていたことが嬉しくて、つい大胆なことをしてしまった、と今は後悔していた。
リズは「ほんとだ、すごいね!」と無邪気に笑い返してくれると思っていた。
しかしリズが見せた顔は、微妙な仏頂面だったから。
おまけに特に何も言わず、あまつさえ俯かれてしまった。
――あんまりリズはこういうの気にしないかなって思ってたんだけど、もしかして、嫌だった?
――どうしてそんな顔してるんだろう、何か間違ったのだろうか。
――もしかして、ただ単に俺が勘違いしてただけ? リズは、優しさで俺に対応してたとに、俺が調子に乗ったから、とか?
居心地がかなり悪くなってきて、繋いだ手を離したくなった。自分はどうしてこんなに調子付いたことしてしまったのだろうか、と。
そして、リズが人間に触れたら火傷することを驚いていたことに、今更ながら安心もしていた。
リズは人間に触れたことが無いって分かったから。リズを邪な目で見ていた他の男がいないって分かったから。
そこまで思った所で、ジークは顔が かーっと熱くなった。
――何言ってんだ、俺!
自分が邪な目で見てるとかじゃなくて、そんな独占欲があるとかじゃなくて。動転した頭の中から、いろんな言葉が出てきた。
――それに人間じゃなくとも人魚の男がいたかもしれないし!
不意に出たその考えに、ジークは自分の火照る心めがけて、思い切り冷水を浴びせられた。
あり得る事実を突きつけられ、良く言えば冷静になったジークは、同時に別の事実が はっと閃いた。
――そうだ、先に手を繋ごうとしたのはリズなんだから。
きっと嫌がっているというわけではないだろう、ジークはそう思った。




