諦めた私と今更な彼
彼女と何かあると私を呼び出すのは、彼がやるいつもの行動パターンで、私はあきれたようにため息をつく。私の気持ちが全くわかってないなんてはずはないのに、毎度毎度飽くことなく私に彼女の愚痴を聞かせるのだ。ほんと、あきれた人。それなのに、私はどこかで期待して、お気に入りの服なんか着るのだから始末におえない。あきれているのは、自分に対しても同じだった。
いつもの駅の前で、彼はいつも通りぼやっと突っ立って待っていた。その姿を見た途端、なぜか今日は猛烈に腹が立った。
人の気も知らないでぐちぐち文句を並べ立てるくせに、そのあと必ず呑気に鼻の下を伸ばして、でもさあ、と平気でのろける顔が浮かんで、それがもう五年にもなることまで思い出してしまってどうしようもなくなった。だから――本当はひっぱたいてやりたくなったけれど――私は呼び出してごめんね、などと悠長な言葉を口にする彼に、意地の悪い言葉を投げつけた。
「祥ちゃんはいつもそれだね。謝るぐらいなら呼ばなきゃいいのに」
言った瞬間に後悔した。じゃあもう呼ばない、と彼が言わないことを祈った。彼が呆気にとられたように黙り込んだのをいいことに、私は彼が、もう会わないと言い出す前に、彼の思う「いつもの若菜」に戻った。自分の話を親身に聞いてくれて、相談に乗ってくれて、のろけ話も嫌がらずに聞いてくれる、便利な私に。口にしてしまった本音を冗談にして取り消し、ついでにこの役は私にしかできないことを印象付けるような発言までした。いつもの店に誘うと彼は安堵の表情を浮かべたが、私の心はざわついたままだった。泥沼だ。彼と――祥ちゃんと会っているうちは、私は絶対に彼女になんかなれないのに、祥ちゃんと会えなくなることが一番怖いなんて。
席について、さあ、今日はどうしたの、と聞く前に彼がはっと、何かに気づいたような顔をした。
「あれ? 若菜髪切った? 前と印象違うな。かわいいじゃん」
これだから、と、私はぶつけどころを失った怒りを、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てる。初めて祥ちゃんが好きだと自覚したのは中学二年の頃。私は祥ちゃんにとって幼なじみで、彼女にはなり得ないと気付いたのは高校一年の頃。それから何度も、別の人を好きになろうとしたり、祥ちゃんを嫌いになったり無関心になったりしようとした。それなのに祥ちゃんは、そのたびに私が一番期待する言葉を、こともなげに投げかける。これだから。これだから嫌いにも無関心にもなれない。私のものにはならないのに。
それから彼は、いつものようにだらだらと彼女の愚痴を話しはじめた。内容もいつもと大して変わらない。いつも通り、お決まりの流れ。一緒になって彼女を非難すると、でもさぁ、とのろけが始まる。いつも通り、変わらないはずだった。
「で、あいつったらこーんな怖い顔すんの。もうどうしようもねえよな」
「……それでも祥ちゃんは好きなんでしょ、彼女さんのこと。じゃあ祥ちゃんが悪いよ。ちゃんと謝らなきゃ……」
「別れたの。それで」
声を取られた人魚姫のように、一瞬で何も言えなくなった。今の彼女、冴子さんとは大学在校中から付き合ってもう五年、一度見せてもらった写真の冴子さんは美人で、祥ちゃんの話の中の冴子さんはすごく祥ちゃんを理解していた。それに、祥ちゃんの彼女はもう中二から数えて五人目なので、そろそろ結婚して私の想いにとどめを刺してくれると思っていたのに。
正直なところ、別れ方は最悪だった。結婚したい冴子さんに対して、その気がなくだらだら付き合いたい祥ちゃん。その間に決定的な溝が生まれていた。祥ちゃんが最後に投げつけた言葉は確実に冴子さんを傷つけただろうし、傷ついた彼女は多分、祥ちゃんの言う「未来を見せてくれる男」とさっさと付き合って結婚するだろう。よりが戻ることはほぼ百パーセント、ない。
「……と、いうわけ。ね、もう完膚なきまでに終わりでしょ」
「そ……だね」
かろうじて返事をしたものの、私の心の中はぐちゃぐちゃだった。今更訪れる期待。今ならもしかして、祥ちゃんの彼女になれるんじゃないのか? 幼なじみの私は同い年で、祥ちゃんのことなら何でも知っている。祥ちゃんが彼女に見せた顔とベッドの中でのこと以外は、全部。でも、と別の私が叫ぶ。でもそれは一生わからないことじゃないかと。彼女がいなくなったって、そこにいる安田祥一という人間が、一度でもお前を女として見たことがあるのか、と。答えは否だ。でも、すぐに次の彼女できるって、という慰めの言葉を、十年以上抱え込んだ想いが邪魔をした。声が出ない。息が詰まる。駄目だ、駄目だ、駄目だ、今更、今更、なんでなんで――
「若菜? わーかなぁ、慰めてよ。五年も付き合ってきて、俺は彼女の代わりなんかいないと思ってたのに、相手には代わり見つけられて、最後はその新しい彼氏庇われて終わりだぜ。はかないもんだよなぁ」
「それは……そだね。悲しいね」
その言葉だけを絞り出した瞬間、涙が零れ落ちたのがわかった。ほんとは、このまま怒鳴りつけてしまいたい。なんで今更そんな話をするんだ。なんで今更、私があなたを好きで好きでしょうがないことを思い出させるんだ。なんで、なんで、大馬鹿祥ちゃん、大嫌い、大嫌いになりたい――声にならない思いは次々涙になってしまった。
「わ……かな?」
彼が呆然として、私の名前を呼んだ。ごまかしきれなかった。もうほんとのことを言うしかない。でも、最後の意地で、好きだとだけは言いたくなかった。ずっと好きだったというその気持ちは、私だけのものにしていたかった。受け取ってもくれない鈍感な幼なじみには、渡したくなかった。
「あはは。今日は無理だ。隠せないや。あーあ。最後まで幼なじみとして……親友として、隣で背中押したげる気だったのに。なんでここで泣いちゃうかな。台なしだね。ごめんね祥ちゃん。せっかく頼ってくれたのに。でも……呼んでくれてありがとね」
私は立ち上がる。これで終わりだ。もう祥ちゃんは私を呼ばないだろうし、私から祥ちゃんに会うこともない。冴子さんとの関係が終わると同時に、私と祥ちゃんの長く続いた「幼なじみ」なんて腐れ縁もおしまいだ。男女の友情なんて、気持ちのバランスが壊れた瞬間に、もろく崩れ去るのだから。
「若菜!」
祥ちゃんが私を呼び止め、手を掴む。その手はまるで地獄の亡者のようだ。このまま堕ちてしまいたい。いつまでも、都合のいい幼なじみのままでいいから、祥ちゃんのそばにいたい。冗談だよ、私の演技力、大したもんでしょ、なんて言って再び席に着く、そんな甘やかで残酷な妄想を、祥ちゃんの手ごと振りほどいて、私は自分の分のお金を財布から抜き、祥ちゃんに押し付けた。
あ、こんな映画あったな、と私は少しだけ笑ってしまった。映画は男女の友達だった二人の、男の子の方が想いを打ち明けた結果、二人の友情は壊れてしまい、女の子は泣きながら店を出た。私みたいに、自分の分を置いていく、なんてダサいことは、していなかった。
「……あ、ちょっとこないだの映画みたいって思ったのに、自分の分渡しちゃったらまた台なしじゃん私。あはは……」
どうでもいいことはいくらでも出でくるのに、大事なことは何も言えない。これは私の気持ちで、私の問題だ。受け止めてくれる気のない人にはあげない。それが最後の意地であり、かなわない片思いをし続けた私の、プライドだった。
「じゃあまた今度ね」
最後だけ、嘘をついた。今度なんて、二度と来ない。知っている。でも、さよならお元気で、とは言えなかった。あまりにつらすぎて、言えなかった。言ってしまえばそれで、中学二年生から今までの自分を、まとめて殺してしまうような気がしたから。
店を出ると外は雨の降りそうな曇り空で、雲が街明かりを反射して薄明るく、気味の悪い夜だった。追ってこないのはわかっていたが、走らずにはいられなかった。走って、走って、何もかも振り切って。全部が無駄だったなんて認めたくない、でも、何もかも無駄だったんだとかみしめながら。
私は自分の想いと現実から逃げるように、走り続けた。
こんなに長いことは経験ありませんが、私も昔から友達どまりの女です。
何がいけなかったのかはいまだに理解してないので、私はやっぱりモテない系なのです(笑)
この二人の結末については、気が向いたら書くかもしれない、ぐらいの感じです。