タイムラグズ
Time-lags
光枝初朗
B老父は自室で目を覚ました。胸躍るような出来事が今さら待ちうけているわけでもないのにまたどうせ早く目覚めてしまったと、寝起きの感触でB老父は考えた。最近はとにかく体が重い。それでも朝日を浴びれば体に心に潤いがあたえられてちょっとはましになるだろうとカーテンを開けると、まだ外はずいぶんと暗かった。どうしたんだろう。そう思ってB老父はベッドの傍に置いてある置時計を確認した。時計は四時を指していた。あまりにも早い。早すぎる。B老父はため息をついた。今から寝るわけにもいかない。B老父は仕方なく部屋を出た。
通路を歩いていると自分の吐く息が白くなった。ずいぶんと冷え込んだものだと思いながら、B老父は居間で紅茶を沸かした。ティーポットのなかで液体がコポコポと心地よい音を立てているのを見ると、次第に体の強張りがほどけていくのを感じた。甥がイングランドから帰国したときに買ってきてくれた土産のアッサムの葉の香りを愉しみつつ、B老父はちょっとしたティー・タイムにふけった。
随分年季の入った、リヴェイユ木材でできた肘掛椅子に座っていると、もう五年も前に亡くなった妻のマチルダとの思い出が自然とよみがえってくるのだった。大した美人ではなかったが、非常に気立てのよい、優しくて素晴らしい女だった。マチルダのことを愛していたが、それだけでは人生には足りず、もっとあの女のことを大事にしてやればよかった、とB老父は苦々しく今でも思い出すのだった。マチルダを愛していたが何も奉仕してやれなかった。
B老父はやがておかしな事に気がついた。居間には大きな壁時計がしつらえてあったが、B老父がその壁時計を見ると針は十一時をさしていた。どういうことだ?? 時刻は四時ではなかったのか。時計が狂ってしまったんだなと思い、やれ、ねじを巻いてやらなければならないなとB老父は考えた。工具箱はどこだったかな、その中にねじ巻きの用具がある。
家の玄関から最も離れた位置にある物置き部屋に入ると、そこは埃っぽかった。そして工具箱を探す途中で、物置き部屋のガラス時計が目に入った。ガラス時計は三時をさしていた。?? 我が家は時間が狂ってしまったとでもいうのだろうか? B老父はここにきてようやく怖れおののいた。ねじ巻きも取らずに物置き部屋を去り、しかし通路途中でよろめいてしまった。いや気を強く持たなければならないとB老父はふたたび立ちあがった。死んだ妻の、マチルダの部屋にいってみよう。B老父は頭が混乱していた。バタバタバタと急いだ。部屋の扉をあける。マチルダの好みの、深紅の薔薇の装飾がある時計は彼女のベッドの上に置かれていた。これもつい前に時間を正確に戻したはずなのだ。しかし針は十二時を指している。B老父はわけがわからなくなっていた。この家は壊れてしまったのだ、流れる時間が狂える思い出に取って代わったかのように。
B老父は黙って居間に戻った。正気にでも狂気にでも戻るつもりは無い、ただ少し前まで己の存在を確かめさせてくれた肘掛椅子の座り心地とアッサムティーの香りに引き戻されたかった。それが唯一の正しい行動であるようにB老父には感じられた。B老父は肘掛椅子に座り、テーブルの上にある冷めかけの紅茶を一杯すすった。たしかにそれは冷たかったが、現実の冷え冷えとしたたしかさをも思い起こさせてくれるかのようだった。B老父はしばし落ち着いた。そしてしばらくしてから、おそるおそるそれを見た、つまり壁にかけられた時計の方を。時刻は今度は六時を指していた。もしかしたらそれは朝の六時で、“外”の時間と正確に合っているのかもしれない、戻ったのかもしれない。しかしB老父にはもう事の判別がつかなくなっていた。彼は妻のマチルダが最期に呟いた言葉を思い返していた――「ねぇ、あなた、私は確かに幸せ者だったわ――」。(了)