セネガル戦まで、あと1日
「「おっ、おっ……おー!」」
男達の野太い声が重なった。
「やるなぁ、彼女。まだ18歳なんだろ? うちのレディースに来ないかな。可愛いし話題作りには持ってこいなんだけど」
前屈みの体制でテレビ画面にアップで映る黒髪の少女を眺めながら、沢田さんがため息をつく。
日本代表の宿泊先、キャリントンのホテル、そのロビーに備え付けられたテレビの前。コの字型に配置されたソファへ代表メンバーのほとんどが座り、テレビで繰り広げられている激闘に一喜一憂をしていた。
今日、8月6日は女子サッカーの準決勝が行われている。明日が男子の準決勝なので、女子が男子の日程を1日先行しているような形。
危なげなく3連勝でグループリーグを突破した女子サッカー代表は、その勢いを準々決勝でも遺憾なく発揮し、強豪ブラジルを2―0で下した。ワールドカップ王者の風格を漂わせ、北京オリンピック銅メダルのドイツとニューカッスルにて激闘を繰り広げているのだが……
「これで2―4で2点ビハインドか。残り時間が……あと30分。ここからが踏ん張りどころだね」
険しい表情を浮かべ、ボールを手に持ってセンターマークへ走っている黒髪の少女――田宮さんを見ながら、伊藤さんがつぶやく。
おそらく、日本女子代表にとっては……この試合が初めての「ピンチ」。
要因は絶対的エース、沢尻穂花さんの交代。
どうやら小耳に挟んだ情報によると、イギリスへ来てから沢尻さんの体調はあまり芳しいものではなかったようだ。大きな病気や怪我ではないようだが、それでも無視出来ないほどの影響はあったようで、これまでの試合は全て途中交代、あるいは途中出場をしている。
今までの試合を見る限り、日本女子代表は決して沢尻さんに依存したような様子はなかった。沢尻さんがいない場合でも、ゲームをうまく作る選手がたくさんいる印象を俺は持っている。特に、田宮さんという最強フィニッシャーの存在は大きく、ここぞというときにゴールを奪い、日本女子代表は順調に勝ちを重ねていった。
だが……今日は苦しい。
オーストラリア戦で男子も経験をしているが……苦しいときほど「精神的支柱」の存在は、とてつもなく大きい。単純な言葉では言い表せないほどに。
沢尻さんがいた前半最初は1―1でなんとか互角の戦いを演じていたが、前半20分頃に沢尻さんが交代したあと、ハーフタイムを挟んでドイツに3点を献上。今ようやく田宮さんが1点を返したが……状況はかなり危うい。
「日本は上手くシステムが機能していない印象だな。それほど中核を支える沢尻の存在が大きい、ということか」
ソファのど真ん中に座っている佐野さんが眉間にしわを寄せる。
「それは俺らにも言えるんじゃねーの? 実際立木さんが抜けてからグタグタだったんだし」
壁に寄りかかっていた奥村さんが腕を組み、低い声でぼやく。テレビを見てそれぞれに議論していた声がぴたりと止み、静寂がロビーを支配する。
これは、間違いなく日本男子代表の喫緊の課題だろう。
奥村さんの言うとおり、オーストラリア戦の日本は立木さんの交代を機に、それまでの攻勢が嘘のように崩れてしまった。個性派揃いの選手を支えていた屋台骨がなくなって以降、日本はゆらゆらと一定しない不安定な形を作ってしまった。
今思い起こせば、立木さんの仕事内容はJリーグやA代表で行っているそれと、オリンピックでのそれとでは大きく異なっている。
JリーグやA代表では、今よりももっと自由奔放に、奇抜なアイディアを使ってプレーをしているような印象があった。ところが、オリンピック代表の場合はまとめ役に徹し、俺らのサポート役を務めることが多い。
グループリーグまではこれで上手くいっていたので、この方針が悪いとも一概に言えない気はするけど……やっぱり、立木さんが本来の力を発揮するには……
「僕が支えます。立木さんや……他の皆さんが自由に動けるように」
静寂を破り、伊藤さんが口を開く。
「……出来んのかよ? お前に」
すぐさま奥村さんが伊藤さんに返す。ふたりはソファの端と端に立っているため、その間に挟まれている他の選手たちは目線を左に、右にとせわしなく動かしている。
「確かに口ではなんとでも言えますよね。実際にプレーを見て下さい、としか今は言えませんが……」
少しの空白を置き、伊藤さんが躊躇いなくこう言い放った。
「ゾーンは……おそらく次の試合までにはコントロール出来るようになります。……いや、コントロールして見せます」
なおいぶかしげな表情を作る奥村さんが、さらに追求する。
「……根拠は?」
「オーストラリア戦の前半でゾーンへ入った回数は、3。そのうち、僕が意図してゾーンへ入った回数が、3。つまり、オーストラリア戦の前半に限って言えば、完全にコントロールをすることが出来ました。まだ1試合だけですので、根拠としては乏しいかもしれませんが……」
ロビーを大きな驚きが支配した。
全員が絶句し、伊藤さんの顔を眺める。奥村さんもこれ以上突っ込む気は無いらしく、口を噤む。
「僕は……今までゾーンに依存し過ぎていました。もちろんゾーンに入ることが出来るからこそ、僕は今この場にいるわけですが……なんと言ったらいいんでしょうか」
「信頼と依存は別物、ってことだろー?」
朗らかな笑顔を携え、立木さんがこちらへ向かって歩いてきていた。その隣には……中島さんの姿も見える。
「切れ味が鋭すぎる諸刃の剣ってのも使いどころが難しいよなー。調子に乗って使いまくってると自分まで血みどろになっちまうし。かといって脇差一本で切り開けるほど甘い世界じゃねーからなー。どうしても切れ味いい方を使いたくなっちまう」
立木さんはそのまま伊藤さんの前まで歩き、肩をぽんっと叩く。
「だがなー伊藤。お前が脇差と思ってた刀、実はお前が思っている以上によく切れるんだぜ?」
俺にはよくわからない例えだったけど、満足げな表情で頷く伊藤さんを見る限り、立木さんの意図はしっかり伝わったようだ。
「お前や中島はしっかりと土台を固めろ。周りは黙っててもリスクを取りたがるバカばっかりだろーが。俺を含めてな。……おっ、もう1点返した」
立木さんの言葉に反応し、全員がテレビ画面へと釘付けになる。
どうやら田宮さんがまた点を決めたらしい。ボールを手に持って走っていた。これで3―4。残り時間25分で1点差。もう完全に射程圏内まで足を踏み入れている。
全員が黙ってテレビを見ていると、沈黙を保っていた中島さんが静かに語り出した。
「オーストラリア戦は迷惑をかけてしまって、申し訳なかった。この借りは……決勝で返す。だから、明日の試合……死に物狂いで応援させてもらうよ」
退場したことを相当気に病んでいたんだろう、昨日はほとんど口を開かなかった中島さんが、全員を見回して頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。
少しの間をおいて、
「おし。中島にコスプレで応援させようぜ」
GKの森さんが中島さんの肩をぐいっと手繰り寄せ、
「あの判定は誰も納得いかないものでしたから。気にする必要はありません」
三宅さんがうんうんと頷き、
「よかよか。セネガルばぶっ飛ばしてからみんなでロンドン行こうや。勝負はそこからやろうもん」
「……ああ。期待してるぞ」
「任しときんしゃい!」
南さんが大きな声で笑う。
「やる気出してるとこすまんが……南、お前は明日ベンチスタートだ」
「……はぁ!? なんでね、先生!」
黒田監督が申し訳なさそうに南さんの肩を叩く。
いつの間にか監督を始めとしたスタッフ陣までロビーに集合していた。そんなに広いとも言えない空間だが、30人程度なら十分に集まれるだけのスペースはある。
「2、3……なんだ、全員集まっているのか。だったらここでミーティングするか。女子の動向も気になるところだしな」
監督の言葉を受けてざっと見回してみると……ソファに座っていない選手は何人かいるが、気づけば代表の18人全員がこの場に集合していた。
このホテルは日本の関係者しか宿泊していないので、こういったパブリックスペースで重要な話をすることも出来る。
「先に言っておくが、明日の試合はメンバーを大きく変更する。……まずスターティングメンバーから言っておくか」
黒田監督がバインダーに挟まれた紙に視線を落とした。すかさず佐野さんがテレビに近寄り、音量を下げる。
「フォーメーションは4―1―3―2。これ自体は今までと同じだな。基本的な戦術は変更しない」
そこで一拍置いた黒田監督が、用紙をめくる。
「GKは岡。DFは左から前島、今海、奥村、三宅」
GKの岡さんはスペイン戦、前島さんはホンジュラス戦以来の出場。今海さんはこれが初出場になる。佐野さんの隣に座っている今海さんが、少し緊張した面持ちを見せていた。
「ボランチ、伊藤。MFは左から植田、桑原、沢田」
この布陣は今までとあまり変更はない。桑原さんがスターティングに入っているということは、やっぱり立木さんは怪我の影響があるんだろうか。
「FWは左に大峰、右に倉田」
倉田さんはグループリーグのモロッコ戦以来の出場。少し離れたところに立っている倉田さんの眼光が明らかに鋭くなった。
そして俺が……再び、FW……か。
オーストラリア戦から比べると、スターティングメンバーは……実に半分の5人が変更されている。
「オーストラリア戦のハーフタイムにも言ったが、ここが総力戦、正念場だ。我々は必ず金メダルを持ち帰る。これはそのための布陣だ」
「ちょちょ先生、なんで俺はベンチ!?」
食ってかかる南さんを、黒田監督が冷静にたしなめる。
「左太もものハリは? 取れたのか?」
「……なんで先生が知っとうと!? ……さては」
南さんの目線の先にいたチームドクターが、南さんから目を逸らす。
「……しゃべったな」
「体調管理もプロの立派な仕事だぞ。同じ理由で疲労が溜まっている福井もベンチに下げる。今までと大きく選手を入れ替えたので、GKは経験豊富な岡にスターティングを任せる」
「岡さん、頼みましたよ」
「ああ」
岡さんと森さんががっちりと右手を組む。
「層の厚さを存分に発揮する場面だ。全員の動きに期待しているぞ。何か質問はあるか?」
特に質問する人もなく、黒田監督が締めようとしたところで……俺が手を挙げた。
「あの……質問ではないんですが……」
「大峰か、どうした?」
全員の視線を浴びて少々萎縮してしまったが、意を決して声を出す。
「俺を……ボランチで使ってもらえませんか?」
しん、と静まり返ったロビーに、微かなテレビの音が響く。
気のせいか、ほんの少し表情を緩めた黒田監督が俺に向き直った。
「……どうして?」
「俺、いろいろ考えたんすけど……今まで通りじゃ、ダメな気がするんです」
「ほう」
「オーストラリア戦は全然ダメだったんすけど……俺はFWよりもボランチの方がチームに貢献できるんじゃない……かと……」
表情を緩めたとはいえ、黒田監督の鋭い目つきは俺の決意をしぼませるには十分だった。しりすぼみに声を小さくしてしまう。
しばし俺をじっと睨んでいた黒田監督が、静かに口を開く。
「その考え方自体は悪くない。実際、先ほどの会議では小野田コーチからも似たような意見が出た。現状に満足せず、変わろうとしていることは評価をしてやろう。だがな、大峰」
黒田監督が俺に歩み寄り、正面から肩をたたく。
「FWでお前がやっていたことは100点満点だったのか? お前のやりたいことはボランチでしか出来ないのか? ……おっ、また1点返したな」
黒田監督の声に反応した全員が、またしてもテレビ画面に釘付けとなった。しばらく眺めていると、ゴールシーンのリプレイが映し出される。
どうやら単騎突破した田宮さんが上手く相手を引きつけ、もう一人のFWへ絶妙なパスを送って得点したようだ。
これで同点。4―4。残り10分。
完全に日本女子が盛り返していた。
「……大峰、今のお前には彼女がいい見本になるかもしれんな。彼女はお前が持っていないものを持っている」
「俺が持っていないもの……っすか」
「ああ。あとは自分で考えろ。こういうことは自分で答えを見つけてこそ、血となり肉となる。次の試合も期待しているぞ」
もう一度俺の肩を叩いた黒田監督が静かにその場を離れた。
全員から見える位置に移動した黒田監督がミーティングを続ける。
「さて、全員知っているとは思うが……次の相手、セネガルにとんでもない選手が現れた」
選手たちの表情が一気に引き締まった。
セネガルに現れた彗星、ティアム。
「メンタルトレーナーの斉藤さんが調べてくれたところによると、イギリスのオースティンと似たような出自を持っているらしい。こちらでもいろいろと調べてみたが、プレーの映像はほとんど集まらなかった。つまり、現状ほとんど情報はない」
これは日本だけでなく、おそらく世界中そうだろう。今頃各国のメディアが躍起になってティアムの情報を探しているに違いない。
「準々決勝までは3トップで幅広い攻撃の種類を持っている印象だったが、ティアムが出場してからセネガルは5―4―1という一極集中のシステムを採用している。つまり……FWのティアムさえ抑えれば、というわけだな」
険しい表情を浮かべる黒田監督が、伊藤さんへ向き直る。
「伊藤。ティアムはお前に任せるぞ」
「はい」
伊藤さんが短く応えた。
「FWのティアムに伊藤をつけるというのはある意味リスクが高いが……そこは今海。上手くバランスを取ってくれ」
「はい!」
今海さんが大声で返事をした。ひとつ頷いた黒田監督が全員を見渡す。表情は決して硬いものではない。
「その他に大きな脅威となる選手はいない。システムも熟練されているわけではない。お前らの実力を発揮できれば、間違いなく勝てる。自信を持っていこう」
各自が静かに頷き、やる気をみなぎらせる。
一望して満足げな表情を見せた黒田監督を先頭に、スタッフ陣はホテルの食堂へ向けて歩いていった。
「頼んだぜー。俺たちはまだまだ暴れ足りねーんだからよー」
立木さんが中島さんの肩をぐいっと引き寄せ、朗らかな笑顔を見せた。中島さんもそれにつられたのか、自然と笑顔を見せていた。
「倉ちゃん! マジで頼んだばい! このまま終わったら俺完全に消化不良やけん!」
「……あ?」
「あ、やなくて! 頼りにしとうけんね!」
「……ああ」
南さんの勢いに倉田さんが飲み込まれていた。珍しいな……倉田さんが素直に返事をするの。
それぞれに盛り上がる選手たちをぼんやりと見ながら、俺は黒田監督の言葉の意味を考えていた。
オーストラリア戦で大失態をしてしまってから、ボランチでの挽回と、そこから活路を見出すことに固執してしまっていた。だが、確かにFWでの俺の仕事が完璧かと言われれば、もちろんそんなことはない。
でも……うーん。黒田監督が何を考えているのかさっぱりわからない。
「これが最後の攻撃だな」
佐野さんの声がロビーに響いた。
自然、テレビへと意識が傾く。
残り時間もわずかになり、いよいよ終盤の終盤に突入した女子の試合。現在ボールを保持している日本はあえて綺麗にゲームを作ろうとせず、やや遠目の右サイドからボールを中央へ放り込んだ。
そこへ――田宮さんが飛び込む。
相手のドイツ選手たちと比べると、決して大きな体格ではない田宮さん。ただ……ポジション取りが別次元に上手い。FWはボールを持っていないときこそ、善し悪しがはっきり分かるとはよく言うが……その観点から言えば、田宮さんはトップ中のトップ、ということだろう。
……ボールを持っていないときの動きか……
もちろん黒田監督は俺に技術的なことを言っているわけではなく、もっと根本的な話をしていたんだと思うけど……うーん、ボールを持っていないとき……。
「「「おぉぉぉ!」」」
何かが閃きそうだった俺の頭の中は、ロビーを埋めたたくさんの歓声でかき消される。
ついに――田宮さんが勝ち越しゴールを決めた。角度がついたアーリークロスへ頭から飛び込み、ヘディングでネットを揺らした。
これで3得点目。つまり、ハットトリック。
「これは決まったね」
伊藤さんが驚きとも呆れともとれる表情を見せていた。確かにこの試合の田宮さんが見せた活躍ぶりは異常。それこそ男子で言うティアムの活躍に匹敵している。
――田宮さんが持っていて、俺が持っていないもの、か……。
画面の中で喜びを爆発させる田宮さんを見て、俺は再び思考の迷路をさまよっていた。




