プレゼント
「なんか……こうしてのんびりするのも久しぶりだなぁ」
激闘だった準々決勝オーストラリア戦の明くる日、8月5日。
昨日の豪雨がウソのように晴れ渡った陽射しの下、俺はひとりホテル併設のグラウンドに出てごろりと芝の上に仰向けで寝転がっていた。
ロンドンオリンピックは試合会場があちこちにあるため、試合、移動、練習、試合……といった日程スケジュールが組まれている。次の準決勝がラッキーなことに準々決勝と同じマンチェスターのドリームトラフォードで行われるため、今日はいつものようにバスに長時間揺られることもなく、のんびりした午前を過ごしていた。
もともと中二日という日程に身体的なきつさや辛さは感じていなかったが、やはり精神面には知らず識らず負担がかかっていたのかもしれない。なんにもせずただ寝転がるというのが、こんなにも気持ちいいと感じたのはいつぶりだろうか。
――精神的な負担、か……。
直近の原因に心当たりが無いではない。というか、思い当たる節はこれしかない。
迷い。
もし、俺の心の中を可視化することが出来るとしたら、おそらく大半を霞がかかった様な半透明の色が占めていることだろう。
……どうしたもんかなぁ。
自然と目を瞑る。
耳に届くのは、小鳥のさえずりだけ。大都会の喧騒を離れたキャリントンには車の音さえなく、まるで森の中にいるような錯覚に陥る。こういうもやもやした気持ちのときは、自然に溢れた環境というのは心を際限なく落ち着かせてくれる。
このまま昼寝しちゃおうかなぁと思っていたところで、まぶた越しに太陽の光が遮られたように感じた。
「やっほー」
頬を筆のようなものでくすぐられる感触。
甘い香水の香り。
薄く目を開けた先に、片平さんの笑顔。満面の笑みを顔いっぱいで表現し、目を線にしている。気付けば、長いとは言えないセミロングの髪が俺の頬に落ちるほど、片平さんの顔は俺に接近していた。
「……わっわっわっ。ちょっと、近いっすよ」
俺の頭側から覗き込む片平さんから逃げるべく、仰向けのまま芝の上で身を捩り、みの虫のような動きで下方へ移動する。
少しご不満の様子を見せた片平さんが、
「……そんなに逃げなくてもいいじゃん。お姉さんがご褒美あげようかと思ったのに……」
対面で肘を立て、上体を起こした俺を一瞥し、少しだけ頬を膨らませた。
「……なんすか。ご褒美って……」
「教えないし、あーげない」
すぐに顔を綻ばせた片平さんが俺の隣に移動し、パンツスーツの上着を肩にひっかけ、芝の上に腰を落とす。片平さんはイギリスに来てから体裁を気にしているのか、いつもスーツでいる。芝の上にそんな格好で座ったら汚れちゃうのに、と心配している俺をよそに、片平さんは遠くまで続くキャリントンの田舎風景に目を細めていた。
「あたしの夢、続いてるねぇ」
風になびく片平さんの茶色の髪が、時折頬に張り付く。それを左手で耳にかける仕草はなんとも色っぽく、俺の意識は見事に片平さんに絡めとられてしまった。
「大峰君」
「はい」
「ありがとう」
「何もしてないっすよ」
「大峰君はあたしにいろんなものをくれた。ううん。あたしだけじゃなくて、日本中の大峰ファンが、大峰君からたくさんのものを貰ってるの」
「……何も、してないっすよ……」
片平さんが左手を上げ、親指から順に指を折る。
「感動、興奮。勇気、元気。あっあたしの場合は癒しも。みんな大峰君から貰ったものなんだよ。みんな大峰君がのびのびとプレーしているのを見るのが、楽しみなんだよ。だから……」
小指を折った片平さんはひとしきり笑ったあと、少しだけ表情に影を落とした。
「だから……そんな顔、しないで」
……やっぱりお見通しだったか。
そうだった。この人は他人の心情を理解するスペシャリスト。俺ではどうあがいても届かない遠い、高いところにいる人。
だったら……ごまかせるわけ……ないよな。
自然と突っ張っていた腕の力が抜け、そのまま両手を広げて転がる。
視界にはどこまでも広がる青い空。
右目の片隅に、たゆたう片平さんの奇麗な髪。
「……片平さん。覚えてます? 4月にパスヴィアで話したこと」
「うん。覚えてる。『お願いします! 美人の片平さんにしか僕の悩みは解決出来ないんです!』って大峰君がベンチの上で土下座したときの話でしょ?」
「大分脚色……どころか、もはやねつ造です」
片平さんは俺の変化に聡い。
4月にパスヴィアで話をしたときも、俺のちょっとした反応から悩みを抱えていることを見抜いていた。あのときとは状況も内容も違うけど、今日は……少しだけ、片平さんに甘えさせてもらおう。
「俺、どうしたらいいか……わかんないんすよ」
「情報が少な過ぎるなぁ……うーん、ちょっと待ってね。えーっと、大峰君が悩むことって言ったらサッカー。昨日の朝はこんな顔してなかったから、試合中か、もしくはそのあとになにかあった。試合中は……やっぱり、点を決められたときのことかな? うーん、でも大峰君がそこを次の日まで引きずるかなぁ……」
……すごいな。もはや当たらずとも遠からずってとこまで来てしまった。
「……あっそうか。ポジション変えたのは昨日の試合だけだったから、ひょっとしてボランチのこと?」
「……俺もう何も言わなくていいような気がしてきました」
「ふっふっふ。褒めて褒めて」
これほど屈託が無い笑顔が似合う人を、俺は人生の中で片平さん以外に見たことが無い。本当に俺と歳が一回りも離れているんだろうか、と自然に疑ってしまう。
昨日から悩んでいること。
緊張感を保っていた試合中はあまり深く考えなかったが、ベッドに入っていざ目を瞑ろうとすると無意識にこのワードが俺の脳裏に浮かんできた。
ボランチ。
サッカーはポジションを流動的に変化させることが多いスポーツだが、それぞれのポジションには与えられた役割や仕事内容が少なからずある。今の日本のシステムで言うと……
FWの場合。
何を置いても点を取るのが最重要、最優先。これに関しては、今のところ全試合で得点を重ねているので、及第点には達するだろうか。
守備面では戦略的なチームプレスを行うことが多いので、最前線からプレッシャーをどんどん与えて、相手に焦りを生ませることが必要になる。これに関しても不安はない。もともとディフェンス自体はあまり得意ではないが、豊富な運動量を生かして走り回るという、俺の長所と仕事内容ががっちりかみ合っている。ここに不安はない。
問題はボランチの場合。
攻守の要になるボランチは、様々な要素を兼ね備える必要がある。
攻撃面では基点となってボールを前線に運び、チャンスを演出。隙あらば飛び込んで相手の意表を突く。
守備面では相手の攻撃の芽を摘む役目を背負う。激しくぶつかるフィジカル。スペースを埋める判断力。崩された場所を立て直すカバー能力。なにより、DF陣と上手く連携するための統率力と厚い信頼。今の日本の戦術であれば、こういう部分が求められる。
この観点で見ると昨日の試合、俺はほとんどチームに貢献していない。出来ていない。……出来なかった。
「どうしたらいいかわからない、って言ってたよね。あたしはサッカーに関して素人同然だから、的を射ていないかもしれないけど……昨日の大峰君は、パスヴィアでボランチやっているときと同じ様な感じだったよ。結果上手くいったようにも見えたけど……あれじゃダメなの?」
「……ダメなんですよ。多分」
昨日の結果は、たまたま運が良かっただけ。
振り返ると、そういう結論しか出て来ない。
実際、パスヴィアで俺がボランチの形をそれなりに作れたのも、俺を中心としたフォーメーションを組んでくれたから。周りが最大限のサポートをしてくれていたから。このオリンピックでそんなことをしてしまうと、日本チームの各選手が持つ個性的な特徴を完全にスポイルしてしまう。それぞれの仕事をこなしつつ、立木さんという太い柱がまとめてこそ、スペインに完勝したときのような、あるいはオーストラリアに2点先制した前半のような素晴らしい化学反応を起こすことが出来る。
先程挙げたボランチに求められている仕事の内、俺が自分自身にギリギリ合格点を出すことが出来るのは「意表を突く」。ただこれだけ。その他に関しては、立木さんや伊藤さんに遠く及んでいない。かと言って、ふたりが出来ない、俺にしか出来ないことがあるかというと……多分無い。
「……黒田監督、なんで俺をボランチで使ったんすかね。俺なんかより、もっと……ってこれ片平さんに言っても分かんないっすよね。すいません」
自然と溢れてしまった愚痴。……そういや、サッカーのことで他人に愚痴を漏らしたのなんて……いつぶりだろう。結衣にさえ、サッカー関係の愚痴をした記憶はほとんどない。
「あたしには……」
そう言って俯いた片平さんの表情を、奇麗な髪が覆い隠す。「片平さんには分からない」なんて……ちょっとヒドいこと言っちゃったな。
上体を起こし、片平さんに謝ろうとした、そのとき。片平さんが勢いよく立ち上がった。
「あたしには……なんで黒田監督がそうしたのかは、分からない」
片平さんは肩を振るわせ、
「あたしには……大峰君がどうすればいいのか、技術的なことは一切アドバイス出来ない」
大きな瞳を潤ませ、
「でもっ! これだけは分かる」
顔を上げ、遠くを睨み、大きく息を吸い込んだ。そして、思いの丈をあらん限りに吐き出す。
「あぁたぁしぃのぉぉ!」
下を向いたまま。
「おおおみぃねぇくんはぁぁぁ!」
正面を向いて。
「せぇかぁぁいでぇ……いちばぁんだぁぁぁぁ!」
両手を天に突き上げ、限りなく広がる空へ向かって。
迫力がある、でも、とても澄んだ奇麗な声が、グラウンドに響き渡った。片平さんがヒザに手を置き、荒々しく肩で息をする。
突然の叫びに口をあんぐり開けて固まっていた俺。しばらくして、落ち着いてから片平さんが発した言葉の意味をよくよく考えると……
「……いやいや、片平さん! 落ち着いて下さい! 意味が危ない感じになってます!」
『あたしの「知っている」大峰君「のプレー」は世界で一番だ』
せめてこれくらいにしてくれないと、色々と誤解を招きかねない内容になってしまっている。こう直したところで、あまり大きな差はないのかもしれないけど。
グラウンドの遠く向こうには、日本チームのジャージを着た選手たちもチラホラいる。両手を挙げてガッツポーズをしている人もいる。心なしか、指笛の音も聞こえた気がした。
立ち上がり、少しオロオロとしていると、片平さんが下を向いたまま小さく呟いた。
「……ないの」
声のトーンから片平さんにはふざけた感情が一切無いことを判断し、静かに続きを待つ。
「私には、出来ないの。大峰君を応援することしか。見守ることしか」
「片平さん……」
吹き抜ける風が弱々しく放たれた片平さんの言葉をさらっていく。
不意に片平さんが顔を上げ、俺の目をじっと覗き込む。泣き笑いのような表情を保ったまま、片平さんが俺の心をつかんで放さない。
「自信……持ってよ」
そっと俺に近づき、胸元をとん、と両手の拳で軽く叩いた。
「大峰君が……世界一なんだよ」
2、3度叩いたあと、そのまま俺のジャージを握りしめる。
「出来るよ……大峰君なら。大峰君がやろうって決めたら……きっと出来るよ……。失敗しても皆が助けてくれるよ」
やろうって決めたら、きっと出来る。
そう……だな。
挑戦する気持ち、未開拓地を切り開く可能性を、俺は最初から捨ててしまっていた。俺に出来るのはこれだけだ、と。立木さんや伊藤さんのようには絶対にプレー出来ない、と。……いつから俺はこんな風に、達観したような気持ちを持っていたんだろう。
いつも当たって砕けろでやってきたじゃないか。それが俺の持ち味じゃなかったのか。
――また、片平さんに助けられちゃったな。
一度天を仰ぎ、意識的に呼吸を吐き出す。俺の中でいつの間にか培養してしまっていた、臆病菌を追い出すように。
「片平さん。やってみます。だから……見てて下さいね」
俺の声に反応した片平さんが、上目遣いで俺を覗き込む。
一度表情を緩めたあと、ひと際力を込めて俺の胸を叩いたあと、片平さんが少しだけ距離をとる。
「……大峰君、目、瞑って?」
「……え? なんですっか?」
「いーからっ!」
片平さんの剣幕に押された俺は、素直に目を瞑ってしまった。近づいてきた片平さんから放たれたふわっとした甘い香りが、俺の鼻腔を心地よくくすぐる。
「……届かない。ちょっと屈んで」
「……え?」
「いーからっ! 目開けないでよ」
……なんかよからぬことを考えているんじゃなかろうか、と邪推の気持ちが俺の心を横断した、ちょうどそのとき。
頭に「何か」が優しく付けられた。
目を開けた俺の目の前で、片平さんが満面の笑みを携え、小さな手鏡を掲げていた。
鏡に映る俺の額には……青い、ヘッドバンド。日本代表のユニフォームと同じ、抜けるように奇麗な青。
「ふふ。お姉さんからのプレゼント」
「……片平さん」
「春より髪、長くなったね」
下から俺の髪を一房撫で、片平さんが揺るぎない気持ちを持ってこう告げた。
「大峰君はね春よりいっぱい成長しているの。だから……自信持って」




