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準々決勝、オーストラリア 8

 冷たい雨。

 重い身体。


 ピッチ上に降り注ぐ大量の雨粒は容赦なく選手たちの体力を奪っていく。いくら真夏であろうと、全身が濡れた状態をかれこれ30分も続けていれば、本来活発な動きで上昇するはずの体温を根こそぎ奪ってしまう。


 雨が選手に与える影響は、もちろん体力だけではない。

 視界は半透明のカーテンに覆われ。

 張り付いたユニフォームと、水分を吸った重たいスパイクは動きを阻害し。

 本来であれば不必要な動きを余儀無くされる選手たちは、思うようにプレーが出来ない。俺は後半の雨に備えてスパイクを雨天用の軽い、水分をあまり吸収しないタイプへ履き替えているが、それでも影響は大きい。


 特に顕著に現れるのが、ドリブル。

 水気を吸った芝は、あたかも泥の上であるかのように選手たちの前進を拒む。スピードが出せないのでディフェンスを振り切ることが難しく、かといって細かいプレーもしづらい。バウンドの角度も予測が難しいので、安易なパスも出来ない。もちろんこれは俺だけに対してのデメリットというわけではないが、周りの選手たちのプレーを見るに、苦戦しているのは俺だけではないだろう。


 しかも、この天然芝というのが非常に厄介で、スタジアムによって特色が大きく分かれる。あのスタジアムでは雨でも大丈夫だけど、こっちは……ということも少なくない。どうもオーストラリアはこの芝に苦戦して、日本を攻めあぐねている様子。ここぞとばかりに攻め込みたい日本だが、ひとり少ない日本はどうしても後手後手の対処をしなければならない状況に追い込まれていた。


 しかし。


 そんな中で、輝きを放つ選手が、ひとり。


「あがれ!」


 右サイドMF、沢田さん。


 沢田さんが右サイドでボールをキープし、そのままドリブルでオーストラリア陣内を切り裂く。マークに付いているオーストラリアの選手が左から沢田さんのボールを奪おうと駆け寄るが――


 全くスピードを緩めることなく、沢田さんが突き進む。


 通常よりドリブルの間隔を広げている沢田さんは、ボールをやや遠目に蹴る。ボールはあたかも沢田さんを待つようにぴたりとその場に止まり、次いで歩幅を調整すること無く奇麗にボールへタッチする。一見何気ないプレーのように見えるが、容易に出来ないということは俺を含めた他の選手たちを見ていれば一目瞭然。

 ここが沢田さんのホームスタジアムであるドリームトラフォードということを差し引いても、沢田さんのプレーは他の選手よりも圧倒的な躍動感がある。


 沢田さんがゴールラインの手前まで攻め上がり、左足を一度大きく跨ぎ、フェイントを入れた。沢田さんのマークへついているオーストラリアの選手も粘り強くついているが――僅かに見せた一瞬の隙を逃さず、沢田さんが右足でクロスを入れた。


 ゴール前には……

 オーストラリアのDFが3人。

 対する日本は……南さん、ひとり。

 

 3人に周囲を囲まれた状況で、南さんが宙を舞う。対するオーストラリアのDF陣も飛ぶ。

 沢田さんのクロスはピンポイントかつ絶妙な高さで、孤軍奮闘する南さんの頭へ吸い付くようにボールが飛ぶ。ペナルティエリア前、ややセンターサークルよりでスペースを埋めている俺からは雨が邪魔でよく見えないが……南さんはがっしりとユニフォームを掴まれているように見える。レフェリーも見えづらいからファールを取りにくいだろう。


 それでも。


 南さんの頭が――ボールを捉えた。


 体勢が悪く、惜しくも当てただけのボールはGKの正面へ飛んでしまった。だが、あの状況においてシュートで終わらせることが出来る南さんの異常なタフネスは……半端じゃない。


 日本陣内へ引き返している南さんが、沢田さんへ向けて右手でサムズアップ。


 これを受けた沢田さんは――


「南ぃぃ! 決めろよ!」


 大声でダメだしをしつつ、笑顔で返す。


 同点に追いつかれてからの沢田さんは、とても生き生きとしている。攻めあぐねるオーストラリア。慎重にならざるを得ない日本。そんな両チームにおいて、沢田さんの存在はひと際輝いていた。

 グラウンドコンディションが悪い場合は、グラウンダーでの細かいパス回しも難しいため、ロングフィード、ロングシュート、クロスなどが有効な武器になる。後半30分のここまでで、沢田さんが入れたクロスの数はこれで5本。惜しくもゴールには繋がっていないが、オーストラリアを大きな振幅で揺さぶっている。

 後半は南さんが最前線でひとり待つという図式が多くなっているが、これはある意味仕方ない。一か八かのギャンブルに賭けるのは、よほど環境が整ったとき。それ以外でリスクを大きく取る――つまり、攻撃の枚数を増やす――ことは難しい。防戦一方でないだけ、日本は最悪の状況から抜け出しつつあった。


「大峰、ここらが正念場だぞ。乗り切れば必ずチャンスが巡ってくる」

「そうっすね」


 オーストラリアのGKのフィードに備えて自陣へ引き返していた俺は、掛けられた声に反応して後ろを振り向く。

 佐野さんが辺りをきょろきょろと見回していた。


「三宅! #16がやや前のめりになってる! 警戒してくれ!」

「了解」


 三宅さんが頷き、


「福井! どうもブラウンは左サイドを嫌っている傾向にありそうだ! 遠慮なく中へ詰めてくれ!」

「あいよー」


 福井さんが右手を挙げ、


「奥村! ……頑張ろう!」

「……あぁ?」


 奥村さんがいぶかしげな表情を佐野さんへ向けていた。


 今は雨音が激しく鼓膜を揺らし、ベンチからの声を聞き取りづらい。そんな中、佐野さんが的確な指示と細やかな気配りを絶やすこと無く、選手たちへ声を掛け続ける。

 佐野さんの声はうるさい雨の音にも負けず、日本の選手たちに違和感なく浸透している。劣勢に追い込まれた責任を感じて沈んでいた俺も、佐野さんの声のおかげで冷静さを取り戻していた。


 状況は、ほぼ拮抗。


 いくら攻めあぐねているとは言え、オーストラリアが枚数をかけて攻撃してくれば、日本はほとんどの状況で数的不利に立たされる。沢田さんが積極的な動きを見せ始めてから、特に沢田さんが上がった後の右サイドをオーストラリアが攻める傾向にあった。しかし、ここにはボランチの俺と中央の桑原さんが首尾よくフォローへ入り、なんとか凌いでいる。

 ひとり少ないこの状況で、延長戦へ入ることは是が非でも避けたい。すでに日本はふたり交代している。交代枠は3人なので、延長に突入した場合ひとりしか交代出来ない。今のところスタミナに不安がありそうな選手は少ないが、それでもじわじわと傷口を広げる結果になりかねない。


 おそらく、勝負はワンチャンス。


 かく乱、奇襲、意外性。

 ボランチへポジションチェンジしてから自分を見失ってしまっていたが、佐野さんや奥村さん、沢田さんのおかげでようやく俺のやるべきことを再認識することが出来た。


 俺は、俺。


 立木さんのようなゲームメイクは出来ない。

 伊藤さんのような超人的なディフェンスは出来ない。

 中島さんのようなパワーもない。


 だけど、それ以外で俺に出来ることがあるかもしれない。俺はそれを何とか上手く使って、チームに貢献しよう。


 考えをまとめた俺の前方で、ブラウンがボールをキープして様子を伺っていた。桑原さんがブラウンへと走り、プレッシャーをかけているが……ブラウンは軽やかな足さばきで右サイドへとボールをはたいた。連携した動きで、沢田さんがボールを受け取ったオーストラリアのMFへ詰め、激しく体を当てる。表情を歪めたオーストラリアMFがボールを後ろへ戻し、もう一度オーストラリアがゲームの形を組み立て直す。


 額に張り付いた前髪を後ろへ流し、俺はある違和感について考えていた。先程佐野さんが日本のディフェンス陣へかけていた言葉。


 オーストラリアは右サイドからの攻めが……多い?


 確かに後半に入って、ブラウンは右サイドを好んで多用していた。広くピッチ上を見渡してみると、なるほど日本陣内の左サイドは右に比べて荒れている印象がある。水たまりもそこかしこに出来ているので、プレーはしにくいだろう。

 だが、そんなことでブラウンがサイドを偏らせる可能性があるだろうか。

 ブラウンのプレーを見ていても、特段雨のピッチに苦戦している様子はない。それもそうだ。歴戦のプレイヤーが雨が降った程度でプレーを崩すとは考えにくい。先程の桑原さんを退けたボールさばきは、見事の一言だった。

 もともと俺は沢田さんが上がったところで、オーストラリアが右サイドを……と思っていたが、よくよく考えるとカウンターだけでなく、スローペースな場合でも右を頻繁に使っている。

 オーストラリアは親善試合にも出ていた左のSBが豪快な攻め上がりを特徴にしていた印象があったが……


 現在ボールが回されている右サイドから意識的に視線を逸らし、左SBの選手を視界に入れる。


 ――えらく後ろに引いているな……


 ひとり多い状態なら、尚更前屈みで攻めてきそうなものだけど……。前屈みどころか、前半より下がっている。逆にシーソーでバランスをとるように、右SBがポジションを前に移している。この状態は絶好調の沢田さんとがっぷり組み合ってしまうから、本来オーストラリアにとって好ましいポジショニングだとは思えないけど……


 ちらりと視界に入った時計。

 現在、後半33分。


 ……ん? 待てよ……


 ボールを保持していたオーストラリアがロングフィードをしようとしたところを沢田さんがカットし、オーストラリアボールのスローインで一旦試合が止まった。ボールボーイが素早くボールを投げないことにイライラしているオーストラリアの選手を横目に、佐野さんへと声をかける。


「佐野さん、左のSB……」

「ああ。どうやら俺の思い込み、ってわけでもなさそうだな」


 阿吽の呼吸で佐野さんが返事を返す。


「オーストラリアも後半に入ってふたり交代している。延長に向けて交代枠は温存しておきたいだろうから……つまり、後半のあと10分が勝負ってわけだな。大峰、お前の舞台が整いつつあるぞ」


 俺の背中を叩き、佐野さんが左SBの福井さんへ駆け寄って行った。


 あと10分。

 このオーストラリアの猛攻を凌ぎ切れば、必ずチャンスは……来る。


 センターライン付近でスローインを入れたオーストラリアが、早速ブラウンへボールを当てようとした。そこへ先回りして俺はスペースを潰し、相対するブラウンのいかつい目と睨み合う。僅かにオーストラリアのリズムに淀みが生まれた。

 次の瞬間、ブラウンが勢いよく走り出した。ピッチ右サイド。

 並走する俺の肩に思い切りぶつかり、ブラウンが俺との距離を作ろうとする。俺は無理に張り合おうとせず、力を受け流し、ブラウンと50cmほどの距離を保つ。激しい雨音に、ブラウンの短い舌打ちがかき消される。

 これでいい。

 無理に張り合って優位性を作ろうとしても、先程のように逆効果になる可能性が高い。


 俺の真骨頂はパワーじゃなく、スピードとスタミナ。

 俺ひとりでブラウンを止められなくても、邪魔さえ出来れば……あとは頼りになるチームメイトがなんとかしてくれる。


 オーストラリアのMFが、ブラウンへ向けて縦パスを入れた。


 ピッチ状態を考慮した、やや緩やかに上げたボール。

 絶妙な場所へ送られた為、パスカットは出来なかった。ブラウンが後ろから来たボールに反応して、ふわりと浮かせたパスを右足の太ももでトラップする。

 ここで無理に足は出さず、俺はブラウンとゴールの間にポジショニングした。

 いくらゴールまで遠いこの場所でも、この状況ならシュートを打たれかねない。まずは最悪の状況を作らないことを念頭に置く。


 後ろの日本ディフェンス陣は4人が横一線で体形を整えている。

 オーストラリアのFWが二枚、その前でチャンスを待っていた。このシチュエーションならドリブルよりもパスの可能性が高い。シュートコースを防ぐと同時に、パスコースを予想する。


 ブラウンがトラップしたボールが重力に従い――地面に着いた。軽やかに水しぶきが上がる。目に入った雨をまばたきして洗い流したい衝動を必死に耐え、ブラウンの動きに注視する。


 次の瞬間――ブラウンの足がボールを捉えた。パス。


 落ち着いて目線と体の動きからパスコースを判断していた俺は、懸命に右足を伸ばす。ブラウンは奇をてらうこと無く、シンプルなパスを出した。相手は――ウィルソン。


 ボールに俺のヒザが僅かにかすり――やや勢いを失う。


 水切り石のように何度かピッチを跳ね、ボールがやや空いたバイタルエリアで止まった。


 奥村さんの前にポジショニングしていたウィルソンがそこへ走り込み、ボールをキープ。すぐさま反転し、かなり強引に奥村さんの方へと突っ込む。ゴール正面、ペナルティエリア直前。

 先程ゴールを決めてから、ウィルソンはかなりのイケイケムード。状況も先程と瓜二つ。右から詰める三宅さんと正面から迫る奥村さんに囲まれた状態でも、ウィルソンはその口元に光る獰猛な笑みを消さない。


 俺が今出来るのは、ここまで。


 後はブラウンへボールが戻ってきたときに対処する程度。


 俺にはブラウンのパスやシュートを全て防ぐことは出来ない。例えパスを繋がれることを止められないとしても、邪魔だけはする。それが精一杯。幸い、ブラウンのパスに足が当たり、ウィルソンを半テンポ遅らせることが出来た。とりあえずの仕事は出来た。あとは日本のDF陣を信じる。


 俺が今「ディフェンス」で出来るのは、ここまで。


 三宅さんと奥村さんへ突っ込んでいくウィルソンを横目に。

 スペースを探して移動するブラウンに付いて行きながら。

 俺は必ず来る「オフェンス」に備えて、考えを巡らせる。


 さっとピッチの状況を確認すると、オーストラリアは中盤にかなり厚みを持たせていた。日本の最前線には南さんしかいないので、オーストラリアの3枚しかいないDFもかなりラインを押し上げてきている。左SBもかなり前のめりにポジショニングしていて、今にも走りだしそうな雰囲気を出しているけど……


 ウィルソンが三宅さんと体をぶつける。やや小柄な三宅さんの体が泳ぐ。


 中盤は分厚いオーストラリアだが、最前線にはFWふたりとブラウンのみ。親善試合のときもそうだったが、オーストラリアは攻撃のほとんどの軸をウィルソンとブラウンへ任せきっている。他の選手たちはポゼッションと連動したハイプレスを念頭にポジショニングをしている。唯一、左SBが意表を突く動きを見せることが多かったが……


 ウィルソンはなおも止まらない。半身になった奥村さんがシュートコースを防ぐ。


 俺はピッチを見回して状況を確認しながら、必死に食らいつく日本のDF陣を祈るような気持ちで見つめる。


 ――絶対、止めてくれる!


 ウィルソンがやや崩れた三宅さんを振り切り、右足でシュートしようとした。奥村さんもシュートコースはほとんど消し、森さんの選択肢も十分に狭まっているだろうが……


 ウィルソンが、右足を振り上げた――そこに、佐野さんがスライディングで飛び込む。


 完全にシュートコースを防がれたウィルソン。


 だが。


 ウィルソンは笑う。


 振り上げた右足をすぐさま戻し、真横――右へグラウンダーでパスを送った。


 その先にいたオーストラリアFWへのラストパス。


 ボールへ走り込む、オーストラリアFW。


 しかし。


 その間に――福井さんが割り込んだ。

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