準々決勝、オーストラリア 4
ドリームトラフォードに、ぽつぽつと雨が降る。
――あぁ、やっぱり降ってきたか。
前線にいる俺は、心の中でひとりごちる。
小振りも小振り。
緊迫感張りつめるピッチ上も、熱狂渦巻く観客席も、この程度の雨に感想を持つ人はほとんどいないだろう。このくらいの雨じゃ、何も変わらない。変化と呼ぶほどのことではない。
対照的に……ピッチ上では、今日初めてと言ってもよい状況の変化が訪れていた。
立木さんのゴールから5分後。
この試合初めて、オーストラリアが日本を攻め立てる。
福井さんから俺へ向けてのスルーパスをオーストラリアのボランチがカット。そこから中央で待つ英雄ブラウンへと素早くボールを入れた。
オーストラリアMFのブラウンがボールを保持し、日本を牽制する。
伊藤さんが一定の距離を保ちながら相対する。
立木さんが前後からブラウンを挟もうと伊藤さんのフォローへ入ろうとした――そのとき。ブラウンが動いた。
ブラウンが伊藤さんの横を抜けようとやや強引にドリブルを開始。
ブラウンは屈強な体を有効に使い、必死について行く伊藤さんのタックルを退けた。伊藤さんの体が僅かによろめく。
ブラウンの身長は伊藤さんより数cm高い程度だが、パワーは歴然とした差を感じる。ユニフォームから出ている腕や太ももを見ただけでもそれは容易に想像が出来た。だが伊藤さんも大きく崩されることはなく、懸命にブラウンへついて行く。
やや右寄りの位置からブラウンがバイタルエリアに突入。日本のDF陣は4人が横一列にポジショニングし、裏へ抜け出そうと目論んでいるオーストラリアのFWふたりを警戒している。
ブラウンがどのような舵取りを行うのか日本選手全員が注目し、ブラウンが中央よりにドリブルで進んで来たところで、唐突に状況が動く。
ブラウンがノールックで日本の右サイドへパス。グラウンダーで転がるボールが人の網目を軽やかに抜けた。
普通ならそのままブラウンが勝負に来るか、あるいはFW――ウィルソンを使ってくるかという場面。日本の選手はまさに意表を突かれた。センターサークル付近で戦況を見守っていた――比較的視野を広く、状況を客観的に見れるポジションにいた――俺でさえ、ブラウンのアイディアに驚かされたほど。
日本右サイドにてオーストラリアMFの選手がボールを受け取り、勢いよくライン際を駆け上がる。
右SBの三宅さんがチェックへ行くが――オーストラリアMFはかなり早いタイミングでボールを中に入れた。
アーリークロス。
狙いはもちろん……FWのウィルソン。
身長195cmの巨体が――跳ぶ。
立っているだけでウィルソンは頭ひとつ抜け出しているのに、ジャンプをすればさらに他の選手たちとの差がつく。
右サイド、やや後ろ方向から高いボールが入ってきた。日本のペナルティエリア、ゴール真ん前。精度は抜群。真っ直ぐウィルソン目がけてボールが飛ぶ。
ウィルソンに対応する日本のマーカーは、中島さん。
中島さんは日本選手の中で、南さんと並んで最も背が高い選手だが、ウィルソンはその遥か上を行く。
だが――中島さんも負けていない。
体を入れ、ウィルソンに楽な状態でシュートは打たせない。
ふたりが競り合っている場所はペナルティエリアの中なので、激しく体をぶつけることはファール――ひいてはPKという大きなリスクがある。だが中島さんは引かない。ギリギリのラインで冷静に仕事をこなしている。
結果、ウィルソンはヘディングで完璧にミートさせることが出来ず、ボールは枠の外へと飛んで行った。
「オッケー! ナイスディフェンス!」
GKの森さんが両手を叩きながら中島さんの功績を労う。朗らかな笑顔。
対照的に、ウィルソンの表情は固い。前半から思うようなプレーが出来ず、イライラを募らせていることだろう。先程のヘディングが、おそらくウィルソンにとって今日初めてのボールタッチ。この事実は、オーストラリアの攻撃が上手くいっていない証拠、とも言える。
福井さんから「ウィルソンはとっても気分屋の選手だよー」という話を試合前に聞いていたが、それが正しいならば……今はかなり不調の状態、ということだろう。乗れば手がつけられなくなる選手を抑えている現状は、日本にとってかなり望ましい展開となっていた。
日本のゴールキックに備え、ポジショニングを前に移した俺は選手たちを一望し、この試合に確かな手応えを感じていた。
全員攻撃、全員守備。
現代サッカーにおいては、小学生のチームでさえ監督やコーチが口酸っぱく唱え、もはや当たり前となっているこの言葉。だが、実際に上手く機能させるとなると……案外難しい。
全員に体力、技術が求められるのはもちろんのこと、確かな連携、戦術に対する十分な理解が成立の必須条件として挙げられる。まとまりの無いチームがこれを形だけ実践したところで、穴だらけのシステムになってしまう。
実際、招集されたばかりの日本は、ある程度分業化したシステムを取っていた。招集が遅かった海外組と国内組の連携面を監督、コーチ陣が心配してのことだろう。
イギリスとの親善試合では、主に立木さんが基点になってボールを運び、ゲームを作る。このパターンが非常に多かった。間違いなくDF陣は今日ほどボールに絡む機会もなかっただろう。
だけど、徐々に両翼の福井さんと三宅さんが積極的な攻め上がりを見せ始めた頃から、この状況が徐々に変わった。今日に至っては中島さんと奥村さんがゲームを組み立てる基点になっている。
ひとつ、日本チームが殻を破った。俺は勝手にそう捉えている。
今日の守備に関してもブラウンを伊藤さん、ウィルソンを中島さんが何とか抑え込み、未だに決定的なチャンスは与えていない。世界で活躍する、あのスター選手たちを相手に、実に堂々と渡り合っている。
攻撃に関しては言わずもがな。立木さんと南さんという、日本の獣が恐ろしいほどに暴れており、加えて俺の調子も悪くない。後方からの手厚いバックアップも心強い。
立木さんに至っては、未だにエンジン全開。
相変わらず激しく、ピッチを縦横無尽に走り回っていた。その立木さんから、オーストラリアは確実に振り回されている。特に先程立木さんが決めたゴールをキッカケに、誰に的を絞れば良いか迷っているように見える。
立木さんが中央でシュートの構えを見せれば、オーストラリアは最大級の警戒をせざるを得ない。かと言って、立木さんに枚数を割けば、立木さんは自らをおとりにして両翼へボールをはたく。全員攻撃が上手く機能している今の日本は攻撃の枚数も多い。これを存分に生かして、多彩な攻撃のバリエーションを作っていた。
この流れは――悪くない。どころか、理想的な展開と言える。
現在ピッチ上では左サイドで日本がボールを細かく回し、攻撃のリズムを作っていた。
いつもよりやや前線側に張り出した伊藤さんが積極的にゲーム作りへ参加し、立木さんが機敏な動きでマーカーを振り切ろうとしていた。
左SMFの植田さんはやや中央よりにポジショニングしてボールをキープし、ライン際にて福井さんがオーバーラップの構えを見せている。
中央からはCBの奥村さんもやや高めの、攻撃参加ができる位置まで来ている。右サイドの選手は中央へ詰めてきていた。
ここまで攻撃の形が出来ていれば、FWの俺と南さんは比較的自由に動ける。ボール運びに参加する必要もない。ふたりで抜け出せるスペースを探し、フィニッシュの形を模索する。俺は植田さんの前方でチャンスを窺っていた。
ここで、立木さんが動く。
「へい!」
大声をあげて植田さんへ駆け寄りボールをもらうと、そのまま真ん前にいる俺の方へとドリブルで突っ込んできた。すぐに立木さんの意図に気付いた俺は立木さんを十分に引きつけ――逃げるように中央へ走る。俺の前方にいたオーストラリアのDF#3が、俺について行くべきかどうか一瞬躊躇した。
立木さんがその間を逃すわけもなく――ドリブルでオーストラリア#3へ正面から突っ込む。
立木さんには右からオーストラリアのMF。正面にDFの#3。ほぼふたりに囲まれていた。
一見、立木さんに活路は無いように見えるが……
立木さんがボールを――左へはたいた。ライン際をオーバーラップしてきた、福井さんへのパス。マークについていたオーストラリアのMFが手を使って立木さんの体を掴み、かなり強引に止めに来たが――それより僅かに立木さんのパスが早く、ボールは奇麗に福井さんへと渡った。
オーストラリアのMFが勢い余って、立木さんと一緒にグラウンドへ倒れ込む。普段ならファールでもおかしくない状況だが、笛は鳴っていない。俺の位置からレフェリーは見えないが、おそらく日本優勢のアドバンテージを取って試合を続行したんだろう。
ほぼフリーでボールを受け取った福井さんが、勢いに乗ってゴールライン際へとドリブルで突き進む。
これは立木さんの好判断が生んだ、好機。
俺の前方にいたオーストラリアの#3は、当然俺を最優先して警戒していただろうが、立木さんから突っ込まれてしまえば状況は一変する。
もし、立木さんについていたオーストラリアのMFが立木さんを崩せていれば、問題なく俺へのマークを優先しただろう。だが、実際はそこまで至らず、突破を許してしまっていた。
中央へ走った俺につけば、立木さんを抜けさせてしまう。
立木さんにつけば、福井さんがガラ空き。
かと言って、すぐに福井さんへつくわけにはいかない。
結果、オーストラリアの#3は立木さんの行動を後手後手に対処せざるを得なかった。今は、やや遅れて福井さんの後を追いかけている。
しかも、立木さんのこの動きのおかげで、俺はほぼフリーでクロスを迎えることが出来る。中にいる人数も多い。
ニアに俺。
ただ、フリーとは言え、角度はほとんどない。真後ろにはオーストラリアのDFもひとりいる。俺に来た場合はボールを頭で後ろへ流し、チャンスを作るのが正攻法か。
中央に南さん。
南さんにはがっちりした体格で、南さんにも劣らない身長のオーストラリアCBがついている。だが、急いで南さんの前を取ったオーストラリアCBは、多分気付いていない。南さんがややファー側へ移動し、こっそりCBとの距離を広げていることに。反対に、オーバーラップしてきた奥村さんはニア側へとじわじわ移動している。
ファーには沢井さん。
オーストラリアはやはり中央の南さんを1番に警戒していて、ファーサイドは若干薄い。中央をデコイにしてファーへボールを流すのも一興。沢井さんの少し後ろには三宅さんも控えている。
ペナルティエリア外では、伊藤さんがルーズボールに備える。
伊藤さんの場所取りも絶妙で、ぽっかり空いたスペースをひとりでカバーするようにポジショニングしている。ちょっと攻撃に枚数を割き過ぎな気もするが、オーストラリアもほぼ全員守備でこの攻撃に対応している。ひとりやや前方に残ったウィルソンには、しっかりと中島さんが目を光らせている。特に問題はないだろう。
立木さんが俺をフリーにしてくれたおかげで、いつもより冷静に状況を分析できている。これでどんな展開になったとしても慌てることはない。
準備は出来ている。後は――福井さんのクロス次第。
ここで、ゴールラインギリギリまで突き進んだ福井さんがクロスを入れた。
ボールは――中央。ややファーサイド。
つまり――南さんへ。
「っしゃおらぁぁ!」
抜群の高さ、絶妙なタイミング。
やや南さんの前へポジショニングしていたオーストラリアのCBは――ボールに届かない。
おそらく、福井さんは余裕があったんだろう。中の様子を確認し、1番確率が高い場所を選ぶための。立木さんが直前まで引きつけてくれたおかげで、福井さんのマーカーはプレッシャーを与える距離まで詰めるには至らず、福井さんは精度のよいボールを上げることが出来た。
南さんの頭がボールを捉えた。
コースは――右。
地面に叩き付ける、力強いヘディング。
素早く反応したGKが右方向へ懸命にダイブし、手を伸ばす。
果たして――グローブの先がボールに当たり、コースがズレた。
その先に、ゴールポスト。
角度によってはそのままゴールに入るが……。
祈るようにボールの行方を見つめるピッチ上の選手、観客たち。
ボールはポストに当たり――無情にも外へ弾かれた。
「詰めろ!」
瞬間的に南さんの声が響くが……ボールはファーサイドへ。
ファーサイドにてボールを待っていた沢田さんと三宅さんは、比較的ゴールから遠い位置に構えていた。
結果――オーストラリアDFがこぼれ球を拾う。
これを見たオーストラリアの選手が一斉に走り出した。
カウンター。
「沢田さん! ディレイ!」
中央で待っていた伊藤さんが自陣へ全力で引き返しながら、大声を張る。比較的ボールの近くにいた沢田さんが素早くオーストラリアのホルダーに駆け寄り、タイトなディフェンスでオーストラリアの攻撃を遅らせようとした。
沢田さんのおかげで一呼吸置いた日本だったが、すぐに状況は変化した。
一瞬の隙をついて、オーストラリアのホルダーが前線へ大きくフィード。
狙いは――ウィルソン。
ボールは真っ直ぐに飛んで行く。センターサークルやや右寄り。
これに走り込むウィルソンはおよそ195cmあるとは思えないほど、俊敏な動き。ただ、日本は最終ラインにいた中島さんがウィルソンへ目を光らせていた。当然このロングフィードも警戒していたようで、ウィルソンよりも先にボールの落下点へと走り込んでいる。
日本チームが安堵の気持ちを持ち始めたところで、思わぬ事態が巻き起こった。
中島さんが――足を取られ、体勢を崩す。
ヘディングでクリアしようとしたが届かず……ボールは後ろへ流れた。
そこへ――ウィルソンが走り込む。
ウィルソンはセンターラインを過ぎた辺りでボールを受け取り……そのままひとりで日本陣内に切り込んだ。
表情を歪めた中島さんが懸命にウィルソンを追う。
ゴールまではまだ十分距離があった。GKの森さんも飛び出すに飛び出せず、ウィルソンの突進に備えて両手を広げている。
――まずい!
日本チームも懸命に戻っているが、こうなれば……もう間に合わない。
後は……中島さんと森さんを信じるしかない。
ペナルティエリアまで、あと5mほど。
中島さんがウィルソンに追いついた。必死に体を入れ、ウィルソンからボールを奪おうとしている。対するウィルソンも手を張り出して中島さんを妨害し、そのままの状態を維持しようとしていた。
ペナルティエリアまで、あと3mくらい。
もうピッチ上の選手たちは彼らの後ろ姿を、ただただ見ていることしかできない。すでに走ることをヤメた選手たちもチラホラいる。
かくいう俺もこれ以上戻ったところで、何の役にも立てない。その場に立ち止まり、祈るように遠くの光景を見つめる。
ペナルティエリアまで、もうあと少し、というところで――
中島さんとウィルソンが、芝の上に倒れた。
ボールはてんてんと転がり、GKの森さんが緊張した表情でボールを拾う。
次いで、レフェリーの甲高い笛の音。
ということは――ファール。
俺の位置からはどういう状況か判断が出来なかった。ウィルソンの足と中島さんの足が交錯したようにも見えたし、ウィルソンが中島さんに体重をかけようとしたところで一緒に潰れていったようにも見えた。少なくとも、中島さんが危険なプレーをした結果でないことは、誰の目にも明らかだろう。
レフェリーがふたりに駆け寄る。
仮に、これがファールだとしても仕方ない。危険な位置でのFKになるが、このままウィルソンが突っ込んでいれば、かなりの確率でゴールを決められていた。あまり好きな言葉ではないが、ナイスファールと言えるだろう。
中島さんがゆっくりと立ち上がり、審判を見つめる。
ウィルソンはヒザを抱えたまま、倒れ込んでいた。
審判が中島さんへ向き直り、胸元を探る。
――カード!? 今の状況で?
抜ければゴールという状況での意図的な、悪質なファール。こう取られたのだろうか。いや……状況は確かにそうだ。ファールと判定されたなら……これも仕方ないといえば仕方ない。
審判が胸元からカードを取り出した。
瞬間、背筋を冷たい戦慄がはしる。
俺の、いや、おそらくスタジアム中の人間、全員が度肝を抜かれた。問題は――「色」。
赤。レッドカード。一発退場。




