カーディフの夜 2
「田宮さん」
日本女子サッカー界のアイドル、田宮なつき。
タンクトップにショートパンツ。髪がややしっとりして、頬が上気しているのはシャワーを浴びたあとだからだろうか。
今年のオリンピックはイギリスの各地で試合が行われるため、試合会場近くのホテルを転々と移動する。男女とも初戦がカーディフのスタジアムだったので、今日は同じホテルに宿泊していた。
「ボーイさんがスゴい目でこっち睨んでるけど。なにしたの、あんた」
「あ、いや……そこの公園散歩したかっただけなんすけど」
田宮さんに、はぁ、とわざとらしいため息をつかれる。つかつかと俺の方へ寄ってきた田宮さんは、有無を言わさず俺のジャージの襟首を掴み、後ろへ引っ張った。
「ちょちょ、苦しいっすよ」
「あんたサッカーやってるとき以外はホントぼーっとしてるわね。スタッフに注意事項で言われたでしょ」
ちゅ……注意事項? はて……なんかあったっけ? パスポート無くしたら大変だからなー、とか。イギリスのホテルもオートロックばっかだからカギ忘れずに持ち歩けよー、とか。あとは……。
必死にスタッフの言葉を思い出しながらも、依然後ろ向きに引っ張られている俺は鋭い目つきのボーイさんと目がばっちり合ってしまい、半笑いを浮かべながら目を泳がせる。
「『夜間外出禁止』。ってか言われなくても外国で夜中にひとりで出歩くなんて危ないに決まってるじゃない」
あ……そっか。ようやく日本と同じ感覚でいてしまっていたことに気付く。襟首を掴まれたままの俺はそのままロビーに設置されたソファに座らされた。いや、放り投げられた。
テーブルをひょいっと飛び越え、向かいに田宮さんが腰掛ける。
「そもそもなんでこんな時間に散歩しようなんて思ったのよ。もう2時よ?」
「なんか……寝れなくて。ちょっと身体動かせば眠気もくるかなぁ、なんて」
「にひっ」っと田宮さんが笑い、テーブルに半身を乗り出す。
「裕貴……緊張してるの?」
「緊張……してるんすかね。自分でもよくわかんないです」
「へぇー。意外ね。あんた緊張とか無縁そうなのに」
くすり、と田宮さんが微笑む。最初はからかわれているのかな、と思っていたが、表情を見るに……どうも本気で驚かれた節がある。
「ゴール決めてもガッツポーズすらしないあんたが、ね」
「らしくない、と言えば……そうっすよね」
確かにここ最近、特にサッカー以外のことで緊張したり、感情が表に顔を出すことが増えてきた。それは自覚がある。要因もある程度心当たりがある。……結衣。
おそらくいいことなんだろうとは思う。ただ……変化に戸惑う。
「田宮さんは緊張することとかないんすか?」
「ない」
「……即答っすね」
「ないもんはない」
これが田宮なつきの強さのひとつ、なんだろうか。
「だって、世界のスゴい人たちとプレーできるのよ? 緊張より興奮してしょうがないわ。あー早く試合したいー」
田宮さんが肘掛け部分に足を掛け、ソファの上にごろんと横になる。
緊張より興奮。
俺もそんな感じなんだろうか。
「あっ遅れましたけど、初戦おめでとうございます。完勝でしたね」
「んーどうなんだろ? 結構みんないっぱいいっぱいだったけどね……」
せわしなく動く田宮さん。横になったかと思えば、もう状態を起こしてソファに座り直し、ほおづえをついて明後日の方を向いている。どこか表情も曇ったものへ変えていた。どこか落ち着きがない。そわそわしている印象。
田宮さんが、よしっ! と一声上げ、ボーイさんからギロッと睨まれたあと、肩を竦め、声のトーンを下げ、俺に別方向からの話題を振る。
「そういや裕貴さ、彼女いるの?」
「え? あーいや、どうなんすかね」
本日2度目。また週刊誌とかスポーツ新聞の類いかな。
いい加減メディア関連の面倒さにうんざりしてきた。
「あんた女子の間で噂になってたよ。ちょっと待ってよ……ほら」
田宮さんがスマホの画面をこちらに向ける。眩しく光る画面に映しだされたのは予想外の1枚。
「あれ? ……これ俺っすか?」
映っていたのは制服姿の高校生。ちょっと引きのアングルのせいで顔がはっきりしないけど……身長と体型、制服を見るに……俺なのかな。
田宮さんが画面に指を滑らせ写真を変える。別のアングルから撮られた写真。そこに映っていたのは、見覚えのある建物の内装。
「この風景……空港の中? それにこいつは……」
「やっぱりこれあんたよね? ……この女の子は?」
おそらく、福岡空港。
多分、シフエ戦の前日。
最近制服で飛行機に乗ったのは、あの日くらいだし……俺の隣に見覚えある女性3人グループが映っている。間違いなく握手を求めてきた人たちだろう。それに……田宮さんが指差した女の子――制服姿の結衣も映ってる。
「んーと、幼馴染です」
俺の目をじーっと見つめて離さない田宮さん。俺は目を逸らすタイミングを逃してしまい、田宮さんの奇麗な黒い瞳に吸い込まれて動けない。
「……幼馴染。彼女……じゃ、ないの?」
「……あーっと、彼女……なのかな」
ここで即答できないあたり、俺に男らしさは微塵もないことを自覚する。
「煮え切らない返事ね。付き合ってないの?」
「付き合っては……いないのかな?」
「つまり、告白はしてないのね?」
「付き合おうとは……言ってないです」
畳み掛けてくる田宮さん。問答が続くにつれ、田宮さんの表情がどんどん豊かになっていく。
「じゃあ彼女じゃないじゃん」
「あれ? 彼女じゃ……ないかもしれないです」
丸め込まれた俺。心の中の不安がどんどんと肥大する。
「あんたに彼女はいない。そうよね?」
「なんで彼女いないようにしたいんすか……」
「実はね……今、ちょっとカケをしてて」
カケ?
「この写真の女の子が裕貴の彼女かどうか。穂花さんが『彼女派』、あたしは『彼女じゃない派』」
「人をダシにしてなんつーカケを……」
「よし。これであたしの勝ち決定ー!」
そう言うと、再びソファへ横になり、両手両足で喜びを表現する田宮さん。こんなに喜ぶってことは……何を賭けていたのか非常に気になる。それより気になるのは……。
「あの、聞いてもいいっすか? その写真誰が撮ったやつなんですか?」
「知らない。あんたの熱狂的なファンがブログに載せてたらしいよ」
げっ。マジっすか……。
てっきりプロ(という呼び方で合っているか知らないが)のマスコミ関連の方が撮った写真かと思ってた。
田宮さんが起き上がり、俺に人差し指を向ける。
「あんたね、自分が思っているより100倍くらいは世間から注目されてるよ。もっと自覚したほうがいいかも。言っておくけど……面倒よ」
女子サッカーが注目され、田宮さんが天才サッカー少女としてメディアに取り上げられて久しい。田宮さんもこういったものに長年煩わされてきたんだろうか。
一瞬見せた暗い表情をすぐに打ち消す満面の笑み。どこかキツい表情が印象的な田宮さんのこんな笑顔……初めて見た。
「じゃーあたしはすっきりしたし、寝るわ。明日頑張ってねー」
「……やたら適当になりましたね。……ん? そもそも田宮さんはなんでこんな時間にロビーへ?」
「……さぁ? 裕貴にはまだ100年早い話題だなー」
「……マジでわかんねぇっす」
「あんた今携帯持ってる?」
あー、携帯なら……と差し出した瞬間にぶんどられ、素早く画面に何か打ち込んでいる。右手に俺の携帯。左手に田宮さんの携帯。「ちょっと、人の携帯勝手に〜」とか言っても無駄のような気がするので大人しく待つことにした。
暫くの後、田宮さんの携帯が光り出し、震え出す。おそらく俺の携帯から田宮さんの携帯へ発信したんだろう。
「はいどうぞ。ちゃんと登録しといてよ。ほんで試合の結果報告してね」
「そんなのスタッフが……」
「いーから! それと……覚えてる? 空港で言ったこと」
「空港で……?」
「『男女一緒にロンドンで大暴れする』。絶対に実現させるからね。絶対に決勝まで上がって来なよ!」
田宮さんが差し出した右拳に軽く手を合わせようとしたところ、勢い良くゴンッと拳をぶつけられる。
「……痛いっすよ」
「もしまた緊張したら今の痛み、思い出しなさい。ヘマして決勝の前にコケようもんなら……今の10倍強い力でぶん殴ってやるわ」
子供のような顔で笑う田宮さん。
今まで自分が田宮さんへ感じていた、キツそうな印象はほんの一部であったことに、今更ながら気付く。やっぱり話してみないと、その人がどんな人かなんてわからないもんなんだな。……当然か。伊藤さんのときも似たようなことを考えていた気がする。
「わかりました。次はロンドンで」
「……うん。じゃあ……おやすみ」
きびすを返した田宮さんの長い黒髪がなびく。
螺旋階段を登る、田宮さんの小さな足音が館内に響く。
田宮さんが見えなくなるまで見送った俺は、手に持った携帯が振動したことで我に返った。
画面にはメール着信の文字。メールアプリを起動させて表示された名前は……結衣。メールを開く前に着信履歴から結衣の名前を探し、発信ボタンを押す。
「もしもし」
『……あー! もしもし! 起きてたの?』
声が微妙に遅れているような気もするけど、通話は余裕でできそうだな。アジアのどっかから日本にかけたときはテレビの衛生中継のようになってしまったもんだけど。
「ん。寝れなくてさ。そっちは今何時?」
『やっぱり! ヒロ寝れないんじゃないかと思って心配してたんだよ。こっちはもうすぐお昼。確か……時差8時間だったかな?』
結衣と通話しながら螺旋階段を登る。
「寝れないと思ってた? 俺、緊張して寝れないとかほとんど経験したことないような気がするんだけど」
『んーん。ヒロはね、とっても楽しみな日の前日は寝れないの。おばあちゃんにお祭りに連れて行ってもらった日の、前日。パスヴィアのトップに所属して初めての練習試合、その前日』
……言われてみれば。
そっか。じゃあやっぱり緊張じゃなくて興奮だったのか。結衣の言葉は簡単に俺の奥深くに浸透する。間違ってるなんて疑いの気持ちは微塵も涌いてこない。……不思議だ。
「確かに……そうだな。それでメールしてくれたのか?」
『……メールはもう読んだ?』
「いや、まだ。開ける前に電話かけちゃったから」
『ならいいのっ! あとで読んで! 返事もしなくていいから!』
矢継ぎ早に言葉をつなげた結衣が慌てふためく。
……何を書いたのか、逆に気になる。
自室の前にたどり着いた俺は、右手でポケットをまさぐってカードキーを取り出し、ドアノブの近くにあてる。「ピピッ」と電子音が鳴り響き、部屋の電気が自動で点灯した。
『明日……じゃない、今日かな。試合、日本から応援してるね』
「ありがと。頑張る。結衣たちが来る前にグループリーグ敗退しちゃったら、俺日本に帰れなさそうだしな。ばあさんからボコボコにされそう」
『あはは。そーだよー。あたしたちは、ヒロがロンドンのスタジアムで楽しそうにサッカーするのを……楽しみにしてるんだから』
ジャージをソファに投げ捨て、ベッドの上へ勢い良く転がる。天井を見つめる俺の目の焦点がわずかにぼやけている。眠気がきたのかな。
『ごめんね。こんな時間にメールしちゃって。でも……ヒロの声が聞けて、よかった』
「ん。こちらこそ。ありがとな。お前にはホント……助けてもらってばかりだよ」
『……あっ、あのねっ。ロンドンへ行くまで我慢するつもりだったんだけど……聞いてもらえる?』
「ん? どした?」
『ヒロ……大好きだよ。……おっ、おっ、おやすみ!』
ツーッツーッツーッ……
……ったく。唐突に俺の心をかき乱しやがって……。また寝れなくなったらどうするんだよ。
目の前に鏡がなくてよかった。
おそらくにやけているであろう自分の顔を見ることにならなくて。
天井を向いたまま携帯を操作し、先程開いていなかった結衣のメールを開く。
顔文字が少しだけ使われた、女の子らしい、いつもの結衣のメール。
…………。
「……バーカ」
穏やかな気持ちに包まれた俺は、気がつけばまどろみの中へ落ち込んでいたらしい。
翌朝スッキリした気持ちで起き上がった俺の右手には、携帯。自動消灯設定にしていない俺の携帯は、どうやら朝まで光り続るはめになったらしい。手に伝わる携帯から発せられる熱と、ギリギリ残ったバッテリーの残量がその証拠。
画面には……結衣のメール。
テーブルの上へ静かに携帯を置き、カーテンを開ける。
サンサンと降り注ぐ太陽の光を浴びた頃には、俺は昨日眠れなくて悩んでいたことなどすっかり忘れていた。




