カーディフの夜 1
「斉藤さん。正直にお話します。僕はまだあなたを完全には信頼できません」
目をつぶり、沈黙を保っていた伊藤さんが口を開く。斉藤さんを直視せずにテーブルの上へ視線を落としているのは、斉藤さんへ後ろめたい気持ちがあるせいか、あるいは迷いがある証拠か。
「これは斉藤さんが悪いわけではなく、僕の……ねじ曲がった性格のせいです。人を信頼する自分が信用できない、と言ってもいいかもしれません」
伊藤さんの告白が続く。
「ここで僕が『わかりました。斉藤さんの言う通りにします』と言っても、おそらく……僕は約束を守らない。守れない。それほど僕の決意は固く……自己中心的な側面は強い。なので……お願いがあります」
「……なんでしょうか?」
「僕を……止めて下さい。心では無茶をしてはいけないとわかっていても……わかっていながら無茶をしてしまう僕を……羽交い締めにしてでも、止めて下さい。自分勝手でわがままなことを言っていると思います。でも……」
葛藤。
伊藤さんが心に抱えるものがなんなのか、俺にはわからない。相当重くて、煩わしいものなんだろう、ということくらいしか。
こういうとき、俺はどうすればいいのかわからない。
今まで他人とのコミニュケーションをサボってきた、ツケ。結衣なら……伊藤さんを救う言葉をかけてあげられるのかな。
悩む伊藤さんの手助けができない自分にいらだちを覚えた――そのとき。伊藤さんの正面に座っていた片平さんがおもむろに立ち上がった。片平さんは、テーブルの上で固く握った手を小刻みに震わせる伊藤さんのすぐ後ろまで歩いて行き……伊藤さんを優しく両腕で包んだ。まるで、親鳥が愛する我が子を外敵から守るように。自らの大きな羽で――ひたすら、優しく。身じろぎして抵抗の気持ちを示した伊藤さんもすぐに落ち着き、片平さんが生む穏やかな流れに身を任せた。
「あたしみたいな大人ってね、多分こういうときのために……子供たちを見守ってるんだよ」
「……片平さん」
少しだけ人が増えてきたオープンカフェに……片平さんの澄んだ声が響く。
左手を伊藤さんの首元にそっと回し、右手で伊藤さんの髪を撫でながら。
ただただ、優しい笑顔を携えて。
「あたしみたいに年を重ねた大人でもね、毎日迷いながら生きているの。伊藤君の年頃だったら……迷わないわけ、ない。あたしは博識でもないから、伊藤君がどうすればいいのかわからない。ホントだめな大人だね。でもね……転ばないように、手を握って……支えることはできる」
……片平さんに感じていた気持ち。
今ようやくわかった。
片平さん……結衣に似てるんだ。
「身体のことは斉藤君が支えてくれる。サッカーのことは大峰君やチームのみんなが支えてくれる。落ち込んだときはあたしが励ます。さっき斉藤君が言ってたけど……伊藤君は心を、みんなの見えるとこに置いといて。無茶をしそうになってたら……みんなで支えるよ」
「…………」
驚きに目を開いて、片平さんの言葉を飲み込んでいた伊藤さんの表情が……わずかに歪む。いつもお兄さんのように振る舞っている伊藤さんが、今までに見せたことない、子供のような――でも、どこか18歳らしい表情。心の芯まで片平さんの言葉が浸透した、なによりの証拠。
「27年生きてて……最近ようやく気付いたの。人ってね、多分こうやって知らないうちにいろんな人に支えられて……立ってるんだよ。それでいいんだと、あたしは思うよ」
後ろから包む片平さんの左腕に、伊藤さんがそっと顔を埋める。
普段は気持ちを前に出さない伊藤さんが……自分の気持ちに戸惑い、必死に抗っているようにも見えた。
「今は……斉藤君の言う通りにしてみよ? 無茶しそうになったら斉藤君が怒ってくれるよ」
「……はい」
伊藤さんが静かに顔を起こした。それを見た片平さんは、一度くしゃっと伊藤さんの髪を撫でたあと、笑顔で自分の席へ戻った。
「迷惑ついでに……もうひとつ、お願いを聞いてもらえませんか?」
「なに?」
「僕の家庭の話を……今度聞いて頂けませんか? ようやく決心できた。今まで他人に話したことはないんですが……みなさんにぜひ聞いてもらいたい」
「ん……わかった。いいよね?」
「はい」
「もちろんっす」
俺にも経験があるが……心のしこりが取れたときの爽快感は、ものすごい。伊藤さんにも笑顔が戻ってきた。片平さんの話でようやくすっきりすることができたんだろうか。
「はは。まさか僕がこんなことになるとは」
「伊藤君は今までひとりで頑張ってきたんだね。大丈夫。ちゃんと味方はいるよ。ここには守銭奴の27歳男と頭くるくるの27歳女と……サッカーバカの16歳しかいないけど」
俺と斉藤さんが「異議あり!」とツッコミたくなったのをどうにか抑え、はぁと同期してため息。3人のやりとりに伊藤さんが笑いを漏らす。
「日本のチームドクターには私からお話しておきます。伊藤君は自分の体調にだけ気を付けておいて下さい。それから、大峰君」
「はい」
「大峰君のゾーンも伊藤君のそれと似たようなものに変化していく可能性があります。頭痛などのシグナルを見落とさないようにお願いします」
「わかりました」
斉藤さんが注意事項で場を締め、全員がそろって席を立つ。誰かが合図をしたわけではない。示し合わせたわけでもない。それでも伝わった、心と――気持ち。
思考型ゾーンの危険性はまだ未知数。
結局、特効薬のような万全の対処法が見つかったわけではない。
でも。
自分の失敗した過去を明かしてくれた斉藤さん。
心を――ほんの少し開いてくれた伊藤さん。
ふたりのおかげで、緊迫した絶望的な――命にかかわるかもしれない状況にもかかわらず、悲観一色に染まることはなかった。暗い、暗い道の先に見つけた、細いけど土台がしっかりした……光明。
伊藤さんはこれから制限付きのプレーをしなければならないことは、必死。
もしかしたら、今まで通りのパフォーマンスは発揮できないかもしれない。
それでも。
片平さんのおかげで……伊藤さんは笑顔を取り戻すことができた。危機を回避できないわけじゃない。これから解決策が見つかるかもしれない。なにも出て来なくて、もし伊藤さんが無茶してしまっても……俺たちが力になれる。力になる。
小さなようで、これは大きな一歩になるかもしれない。
「僕はみなさんに出会えて……ホントによかった」
全員の目を順番に見て、伊藤さんが一言。
頷く斉藤さん。
微笑む片平さん。
目を合わせただけの俺の気持ちも、おそらく伊藤さんに届いただろう。
オープンカフェを出てから、先頭を歩く伊藤さんの足取りは軽い。
夕暮れを色濃く反映したレンガ造りの建物。節くれだった街路樹が立ち並ぶ、石畳の歩道。
異国の地、初見の土地にいて、なお迷わず突き進む伊藤さんの心中は、俺にはわからない。でも……それでもいいんじゃないだろうか。無闇やたらに心を覗きにいかなくても、次からは……伊藤さんから心を開いてくれる。そんな気がする。
時折、伊藤さんが後ろを振り返る。俺たちの存在を確かめるように。
3人で顔を見合わせ、笑って返す。
ちゃんとここにいるよ、って。
* * *
エアコンいらずの、イギリスの夜。
寒暖差が激しい気候は、まるで俺の心中を映しているかのよう。
ありていに言えば、気分が高揚し過ぎて眠れない。
いよいよ明日が初戦、と思えば思うほど、高ぶる気持ちを抑えきれなくなってしまった。今まで緊張や興奮で眠れないなんてほとんど未経験。オリンピックの舞台が俺を緊張させるのか。あるいは初戦の相手、スペインの選手とプレーできることに興奮してしまっているのか。
このままベッドに入っていても多分眠れないだろうなと感じたところで、ホテルの前に公園があったことを思い出す。
……気晴らしに外にでも出てみるかな。
ベッドから勢い良く起き上がり、ソファに投げ捨てられたジャージを掴む。
中世風の外観を持つホテルには似つかわしくない、現代的なカードキーを片手に、こじんまりしたシングルルームの部屋を出る。赤い絨毯が引かれた廊下には当然人影は見当たらず、怖いくらいの静寂に包まれていた。……それもそうか。もうすぐ夜中の2時になるわけだし。
ホテルの中央に鎮座した大きな螺旋階段をひたすら降りる。
手持ち無沙汰なときにあたりを見回してしまうのは俺特有のクセなんだろうか、無意識のうちにホテルのあちこちから「イギリス」を探してしまう。手すりには精緻な模様の装飾が施され、壁面には一定間隔で飾られた大きな絵画。日本のホテルでもこういった飾りを目にしないことはない。ただなぜだろう、不思議と違和感を感じる。いや……違う。なら、なんだろう……郷愁?
自身の内から湧き出た不思議な気持ちを胸に、ロビーへ降り立った俺の前に立ちふさがるのは、ホテル入口に立つボーイさん。渋い、低い声で俺に向かって何かを言っている。
……言葉は理解できないが、ジェスチャーから推測するにおそらく「外には出るな」と言っているのかな。
うーん。ホテル前の公園をふらふら歩きたかっただけなんだけど……。英語でなんて言えばいいんだろう。
「なにしてんの? 裕貴」
脳内の英単語を必死にかき集めていた俺は、後ろからかけられた聞き慣れた言語にノータイムで反応して後ろを振り返った。
振り返った先にいた人物は……予想通り、というかこの場面ではひとりしか思い浮かばなかった。




