始まりはカーディフから 4
「伊藤君は……どうすればいいの?」
片平さんがすがるような目つきで斉藤さんへ問いかける。もはや他人事ではない。さも自分の身に降り掛かる災害のように考えていた。俺も、おそらく片平さんも。
これに対する斉藤さんの返答は、沈んでしまった俺たちを引っ張り上げてくれるものではなかった。
「はっきり言います。対処法はありません」
こうきっぱりと言い切った斉藤さんは、テーブルの上で眩しくディスプレイを光らせていたノートパソコンを、バッグの中に片付けていた。さもこれ以上説明することはない、と言わんばかりに。
「思考型ゾーンへ入らずプレーをする。現状これに勝る手段はありません」
「入らずって……自動的に入るもんやん! それは伊藤君にサッカー選手辞めろって言いようと!?」
語気を強めて片平さんが食い下がる。多分今博多弁を使っていることを、本人は全く自覚してないだろうな。
「落ち着いて下さい。片平さんへ返事をする前に、伊藤君。ひとつ聞かせて下さい」
「……どうぞ」
「もう思考型ゾーンへ至る『入口』を……見つけていませんか?」
緊迫した空気。
店員さんが再び空いた片平さんのティーカップへ紅茶を注ごうとした手を止め、奥へ引っ込んで行く。本能的に邪魔しちゃいけないことを話していると感じたんだろうか。例え聞き慣れない言語だったとしても。
伊藤さんが言い淀む。
今日は話すことをためらうことが多い伊藤さんだけど、今が一番の迷いを見せているかもしれない。
「……ひとつだけですが、見つけました」
伊藤さんがゆっくりと話し始めた。
「危機意識と無酸素状態。おそらくこのふたつが揃った場合のほとんどで思考型ゾーンへと入っています」
危機意識。
これは前回も伊藤さんが話していた。敵が自陣奥まで攻めてきたときなどに思考型ゾーンへ入ることがある、と。
もうひとつは、無酸素状態。
俺が無酸素運動をしているときと言えば……スプリントをしているときなんかそうだな。短距離を走る場合は誰もが無意識的に呼吸をしていないと思うけど……あれ? 待てよ……。
「無酸素状態……。あっ!」
気付かない内にひとりでぶつぶつ言っていたらしい俺は、心の奥で引っかかっていたものがとれた反動で思わず声を上げてしまった。当然のように全員の注目が俺へ向く。
「あっ……すいません」
「大峰君。なにか気付いたことがあればおっしゃって下さい」
「話の腰を折っちゃってすいません。もしかしたら、なんすけど……俺も無酸素運動してるときにゾーンへ入ってることがあるかもしれません。斉藤さんに相談しようと思ってたんすけど……最近ゾーンの入口が変わってきてて」
そうだ。
最近気になっていた、俺のゾーンの「入口」。
もともとは行動型ゾーンと同じように、明確なシュートイメージを定めたあとにボールを持つ、あるいはFKのような場面でゾーンへ入っていた。
それが最近はパスが俺に来るとわかった瞬間にゾーンへ入ることがあった。
シフエ戦では、後半最後のプレー。
池内さんが伊藤さんのシュートを防いだ直後、全力疾走でシフエ陣内を目指している最中。突如来た倉田さんからのパスへ走り込んだとき。
沖縄合宿で伊藤さん、立木さん、倉田さんと3対1の練習をしていたとき。
立木さんからパスが来る、とわかった瞬間にゾーンへ入っていた。
思えばどちらのケースも……シュートイメージを持たず、スプリントをしていた。多分、どちらも無酸素運動中。
沖縄合宿で伊藤さんに話した内容をそのまま斉藤さんと片平さんへ伝えた。なるべく俺の想像が混じらないよう、できるだけ率直に。
「なるほど。今までと違う入口……。入り方が伊藤君の場合と非常に似ていますね。大峰君も無酸素状態に思うところがあるなら……これが入口のひとつになっている可能性は高いですね」
斉藤さんがこめかみに手を当て、しばらくの間黙考する。俺たちは斉藤さんが結論を出すまで黙って待つだけ。
「おふたりは脳をうまく錯覚させているように感じます」
「錯覚……?」
店員さんから紅茶のおかわりを貰い、落ち着きを取り戻した片平さん。シンプルに疑問に思った単語だけを斉藤さんへ返した。
「これは事故のスローモーションがいい例になるでしょう。自身に降り掛かる――命に関わるような危険を察知して、自身のポテンシャルを最大限に引き出す。言い方が難しいですが……これをあなたたちはサッカーにすり替えている。サッカーの戦況をあたかも自分の危機のように感じさせている」
確かに、言われてみればそうだ。
俺はオフェンス。伊藤さんはディフェンス。
自身の生命線で結果を残すことを……もしかしたら、冗談抜きで「生きるか死ぬか」に捉えているかもしれない。
「脳を錯覚させているトリガーが『無酸素』なんでしょう。意識的に呼吸をすればゾーンへ入る数を抑えられるかもしれませんが、これは……難しいですね」
「そうかな? 走っているときも呼吸するだけでしょ?」
「実際に試してみないとわかりませんが、呼吸というものは本来無意識に行うものです。それをわざわざ意識してプレーするということは、余計な邪魔者がひとつ増えてしまう。これは私や片平さんが想像するより遥かに厄介な可能性があります」
呼吸を意識してプレーする……。
うーん。確かに面倒な気がする。おそらく10m、20mくらいのスプリントで呼吸をすることなんて、ほとんどない。呼吸を意識してしまうと……プレーが崩れてしまいそうだ。
「難しいですが……伊藤君。実施して下さい。対処法が見つかるまでは、極力思考型ゾーンへ入ることを抑えるべきです。ちなみに、何回くらい思考型ゾーンへ入ると頭痛がしますか?」
「ここ最近の平均は1試合に4.8回思考型ゾーンへ入ると頭痛が始まっています」
あれだけ几帳面にノートを取っている伊藤さんだ。このあたりのことも当然ノートにまとめているんだろう。すんなりと詳しい数字を斉藤さんへ返していた。
「では1試合4回以内に抑えて下さい。おそらく無酸素がトリガーにならない場合もあるでしょうから、コントロールするにも限界があります。5回目の思考型ゾーンへ入る前、あるいは頭痛がした瞬間に……自己申告して交代してください」
「…………」
あえて、なのか。いつもはひょうひょうとした態度をとることが多い斉藤さん。ところが今日の伊藤さんに対する態度は一貫して高圧的な側面をちらつかせている。それほど状況は切迫している、ということなんだろうか。
「伊藤君。約束して下さい。伊藤君の将来を思えばこその……」
「斉藤さん。僕は将来のことなんかどうでもいい。今が……僕の……夢にまで見た頂点へ続く道なんです」
強い態度を貫く斉藤さんに、伊藤さんが今日、おそらく初めて反抗的な態度を取った。俺と片平さんは黙って見守る。あまりに強い決意を見せつけられて、口を挟む気になれない。
「伊藤君がどれだけ強い思いでこのオリンピックに望んでいるかは、私にはわかりません。それでも……それでも、言わせて頂きます。今は抑えて下さい。あなたのサッカー選手としての魅力はゾーンだけではないはずです」
「斉藤さん。戦場で銃口を向けられて、丸腰で戦うんですか? 例え暴発する危険があったとしても……僕は自身の持つ最大の武器を使って戦うことをヤメない。僕にとってこのオリンピックのピッチは……そういう場所です」
突然斉藤さんが立ち上がり、バンッとテーブルを叩く。
「……例えこの場は白旗をあげることになっても……いいじゃないですか! 2年後のワールドカップ……4年後のオリンピック! あなたがこれから活躍できる場はたくさんあるんです! 一度ダメになってしまえば……私のように、取り返しがつかなくなるかもしれないんですよ!?」
「私のように」?
こんなに感情的になった斉藤さんにも驚いたけど、それよりさっきの言葉が気になる。
俺と同様、困惑する伊藤さん。未だに立ち上がり、テーブルに着いたままの斉藤さんの手を……そっと片平さんが両手で包む。
「……斉藤君」
「……すいません。私としたことが……取り乱してしまいました」
「ありがとうございます」と片平さんに一言入れてから、ゆっくりと席に着く斉藤さん。全く手を付けていなかった紅茶に手を伸ばし、これまたゆっくりと口に紅茶を含む。ひとつひとつの動作から荒ぶった心を落ち着かせようとする意思が見える。
「斉藤君。話してあげたら? きっと若いふたりのためになると思うよ」
「……片平さん」
話の流れが見えず、俺と伊藤さんはただじっと斉藤さんを見つめる。
「……ふたりのためになるかはわかりませんが……なるべく簡単にお話します。私が大学生のときの経験談です」
さらさら、と風が片平さんの奇麗な髪を揺らす。静かに目を閉じ、斉藤さんの言葉を待つ、片平さん。
ふたりは同じ大学、同じ野球部に所属していた、と言っていた。おそらくそのときの話なんだろう。
「私は小さいころから野球を――ピッチャーをしていました。小中高と続けましたがなかなか芽は出ず、大学になってようやくそれなりの成績を残せるようになりました。大学ではほとんど講義も受けず毎日野球漬け。片平さんにはよく代返して頂いていました」
片平さんは閉じた目を開けず、静かに斉藤さんの言葉を聞いていた。
「大学3年生のとき、ある球団のスカウトに声をかけて頂けました。この次の大会で結果を残すことができれば、ドラフト候補として首脳陣に全力で推す、と。この話を聞いた私は……それこそ目の色を変え、それまで以上に練習の虫になりました」
「あのころの斉藤君、もう人間じゃなくてロボットみたいな感じだったよ」
片平さんが目をつぶったまま、一言だけ感想を述べる。わずかに口元へ笑みを浮かべて。
「……確かにそうですね。同級生はみな就職活動を始め、将来について真剣に考えを巡らせていた時期です。そんな大事な時期に、なれるかどうか怪しいプロの道だけを視野に入れて練習をしていました。あのころの私は野球をすることで現実逃避をしていたような気がします」
「…………」
なにか思うところがあるんだろうか、伊藤さんも目をつぶって斉藤さんの言葉を待つ。
「あせりと将来への不安を紛らわせるように練習をする。当然オーバーワークです。綻びはすぐに表面化しました。ピッチャーの生命線、肩に違和感が出ました」
野球のことはよくわからないけど、肩やヒジをを手術する野球選手の話はよく耳にする。おそらくピッチャーにとって大事な部分なんだろう。
「医者には当然止められました。次の大会には出るなと。しかし私は……当然のように無視しました。自分の身体は自分がよくわかっている。もしかしたら壊れてしまうかもしれない。それでも……プロへの道を諦めることはできませんでした」
斉藤さんの表情が歪む。ここまで聞けば俺でも事の顛末を想像できる。斉藤さんが一番思い出したくない過去を。
「私は試合に先発で出場し、9回を投げ抜き、無失点――つまり完封しました。が、結局、それが私の……最後の晴れ舞台になりました。肩を壊した今は、利き腕の右手でキャッチボールすら満足にできません」
斉藤さんの苦しみを、俺は想像できない。したくない。
サッカーを完全に取り上げられたときのことを考えると、自然と身体が震えそうだ。安易な言葉は挟めない。
「文字通り将来に絶望した私を救ってくれたのが……片平さんです。今でもあのとき片平さんがかけて下さった言葉は……一言一句間違えず、正確に記憶しています」
「恥ずかしいから、それは言わなくていいよ」
片平さんが耐えきれない、とでも言うように苦笑を漏らす。
「では簡潔に。片平さんは『斉藤君は第二の斉藤君を救うべきだ』と言って下さいました。それから私は一生懸命考えました。私が肩を壊した原因はなんだったんだろうかと。オーバーワークをしなければ、医者の言うことを聞いていれば。いろいろ考えた私の結論は『肩を壊す前に心を壊していた』です」
オーバーワークをしたのは自分の意思。
医者の言うことを聞かなかったのも自分の意志。
ならば止めることができなかった自分の心が肩を壊した原因だった、ってことかな。
「それから心理学に興味を持った私は大学院へ進学し、この道に進んだわけです。今でこそデスクワークされている方を主な対象にしていますが、基本は一緒です。仕事上の重大なミスにも、スポーツ選手の怪我にも……もれなく人間の感情が付きまといます。伊藤君がオリンピックへかける気持ちは私には想像すらできません。ですが、伊藤君。どうか心を……誰の目にも届かない、暗い場所に置かないで下さい」
経験者が語るからこそ、重く、芯に響くアドバイス。目をつぶったまま聞いている伊藤さんにも、おそらく斉藤さんの気持ちは届いたに違いない。届いたと思いたい。




