始まりはカーディフから 3
伊藤さんは斉藤さんから目を逸らさない。これだけ脅されているにも関わらず。やっぱり……ある種の覚悟した気持ちを感じる。
「あの……俺から聞いてもいいっすか? そもそも片頭痛ってなんですか? 普通の頭痛となにか違うんすか?」
片頭痛という言葉はよく耳にするが、頭痛に悩まされたことがない俺としては、そもそもの性質がよくわからない。こんな基本的なことを聞いてもいいのか少しだけ迷ったけど、もともとこの人たちの前で見栄を張る意味はない。
「片頭痛自体は誰にでも起こりうる、一般的な頭痛です。寝不足や疲労、ストレスから解放されたときなどに起こります。他に一般的な頭痛といえば緊張型頭痛などがありますね」
「なるほど。伊藤さん、聞いてもいいっすか?」
「うん」
「なんで片頭痛ってわかったんすか?」
少し、ほんの少しだけ表情を緩め、伊藤さんが俺に向き直る。
「頭痛がしたときに頭を振ると……痛みがヒドくなるんだ」
「片頭痛の典型的な特徴ですね」
斉藤さんが首を縦に振る。
「痛くなってから頭を氷で冷やすと、頭痛は治まる。……あと、この紅茶なんかにも入っているカフェイン。これを摂取しても……痛みが和らぐ」
「あたしもたまに片頭痛になるけど、確かにこれも片頭痛の対処法だね」
やっぱり伊藤さんは……全部わかっているんだな。俺が知らないことも。知った上で……覚悟を決めている。
「斉藤君はなんで伊藤君が頭痛を持っているってわかったの?」
「これは話すと少し長くなりますし、結論は出ていません。多分に私の推測が混じりますが……」
斉藤さんが前置きをしたうえで、ふーっと長い息を吐いた。
「『一時的に脳の計算能力を高める』。一般的にこんなことが可能なのか、知り合いの医学者をあたって調べてみました」
斉藤さんが革製のバッグからノートパソコンを取り出し、テーブルの上に置いた。
「結論から言えば……できるそうです」
「できるの!?」
全く予想外の返答に片平さんと俺は口をあんぐり開け、しばらくの間見つめ合ってしまった。
「すでに十分な数の実証実験が行われたそうです。そう遠くない未来に脳を活性化するための装置が発売される可能性すらあるとか」
「まじっすか……。人類ってスゴいっすね」
「ニューロン(神経細胞、または神経単位)というのは聞いたことありますか? かなり専門的な話になってしまいますが……」
やばい。この話……ついていける気がしない。
「大峰君。あたしも結構やばいけど……頑張ろう。斉藤君にドヤ顔させないためにも!」
「……了解っす!」
「……よくわからない団結力ですね」
斉藤さんのあきれ顔も見慣れたもんだな。
「なるべく簡単にお話します。ニューロンは脳全体で数千億個存在します。このニューロンが身体からのセンサー情報や脳の各部位で情報を交換することによって、人間は『考えている』わけです」
「ふむふむ」
「ニューロンは互いをシナプスという接続部分を通じ、電気信号や伝達物質をやり取りして情報を交換します。ニューロンひとつに対し、シナプスは多いもので数十万個あります」
「えーっとつまり……ニューロン同士を繋ぐ橋が、数十万個あるってこと?」
「その理解で問題ありません」
斉藤さんの話に食らいつくため、俺と片平さんはテーブルに身を乗り出して「うんうん」と頷く。伊藤さんは静かに紅茶をすするだけ。
「先の装置はこのニューロンに適切な電気的刺激を与えることによって、ニューロンの活動を活発化させるわけです」
これはつまり、脳に電気を流すってことか。
例えお医者さんのお墨付きがあったとしても……俺は試したくない。
「ひとつのニューロンにつき数十万のシナプスがあると言いましたが、通常はこのシナプス全てを使っているわけではありません。ニューロンを刺激することで渡れる『橋』の数を増やす、あるいは『橋』を渡る速度を上げる。そうすると結果的に計算能力が増加するわけです」
「……大峰君、大丈夫?」
「まだ……なんとか」
んーっと、一時的に脳の計算能力を上げることは、できる。上げるための装置を使う場合は、脳に電気を流してニューロンを活性化させて……シナなんとかを通る情報量を増やす。結果、計算能力があがる。……でいいのかな。
「今のは外部から刺激を与えて脳を活性化させる方法でしたが、伊藤君の場合はこれを自ら行っているわけです」
「そんなこと……可能なの?」
片平さんの疑問ももっともだ。こんなこと、もし誰でもできるなら……頑張って勉強する意味がよくわからなくなってしまう。
「ここからは私の友人と私の推測です。おそらく……伊藤君は自ら脳の血流量を増やして、計算能力を高めているのではないか……と考えています」
「「脳の血流量を……増やす?」」
脳を流れる血の巡りを自分で、しかも瞬間的に上げている……ってことか?
「血管を拡張し、血流量を増やす。こうして細胞に行き渡る『栄養』を一時的に増やしてニューロンを活性化させる。この方法が有効かどうかは現時点ではっきりしません。ただ……こう考えると、いろいろな辻褄が合います」
「例えば?」
斉藤さんがバッグから取り出したノートパソコンを指差す。
「みなさんパソコンには精通していらっしゃいますか? オーバークロックというのはご存知で?」
「知らない」
「知りません」
「僕は……わかります」
伊藤さんだけが肯定の意を示した。伊藤さんはホントになんでも知っているんだな。
「脳と、パソコンの脳――CPUはよく対比されます。CPUは通常、決められた一定速度で情報をやり取りしていますが、高い電圧をかけることによってその情報交換の速度を高めることができます」
「ふーん。だったらいっつもそうしてりゃいいじゃん」
「この状態は高いパフォーマンスを得ることができますが、同時に高い消費電力と耐久性の問題が出てきます。いわば諸刃の剣ですね」
斉藤さんが意味もなくこんなたとえ話をするわけない。つまりこれは……伊藤さんの場合も……。
「伊藤君の場合もこれに近いのではないか、と推測しています。思考を司る部分――前頭前野の血流量を上げ、ニューロンの活動を活発化させ、シナプスを通る電気信号や伝達物質の伝達効率を上げ、情報交換速度を高める。代償に……ダメージを受けている可能性がある、ということです」
「……ダメージ」
パソコンなら……最悪壊れたら買い直せばいい。
人間の脳は……そうはいかない。
「ダメージって……具体的には?」
「前にも話しましたが……人間に備えられたリミッターは『自分で自分を壊さないための制御装置』です。普段脳がその活動をセーブしているのも、あまり活発的に活動をしてしまうと危険だから、です。つまり、頻繁にリミッターを外した状態を続けてしまうと……」
「自分の脳を壊してしまう可能性がある、ってことですね」
「……伊藤君」
今まで沈黙を保っていた伊藤さんがはっきりと口を開く。よりにもよって……自身の身に起こるかもしれない、最悪の結末について。
「最悪の場合は、です。もし血流を増加させて脳をブーストしているとすれば、片頭痛を起こしていることも説明できます」
「どういうこと?」
「片頭痛はなんらかの原因で脳の太い血管が拡張することによって引き起こされます。血管が拡張し、近くにある三叉神経が刺激を受けると、痛みの原因物質が放出され……人はそれを『頭痛』として感知するわけです」
「伊藤君の場合は……」
「自ら血管を拡張させた結果、計算能力を高める代償として頭痛が発生した、というわけです」
片平さんが口を閉ざす。
知り合いの身に襲っているかもしれない、重大な事柄を目の当たりにして。気付けば俺は、脳のダメージの話になってから口を開くこと自体を躊躇してしまっている。
「でも頭痛でしょ? こういう言い方はアレだけど……対処法はたくさんあるじゃん。あたしも頭痛はたまにしてるし。そんなに重く考えなくても……」
「いえ。ここは……はっきりさせておきます。危険です。そもそも頭痛を軽視する方が多いですが、頭痛は『重大な病気』の前兆――危険シグナルの可能性があります。特に伊藤君の場合は、脳を無理矢理働かせている恐れがある。危険シグナルの可能性は高いです」
確かに軽視すべきではない。ただ……。
「斉藤さん。だったら俺も頭痛がきてないとおかしくないっすか? 俺もゾーン中は脳をブーストしている可能性が高いんですし」
「いい質問ですね。大峰君の疑問はもっともだと思います。ただこれは、先程までの話でほとんど説明できます。大峰君のケースは特殊なので、より一般的な行動型ゾーンの場合から説明します」
行動型ゾーン。
周りの雑音が聞こえないほどプレーに集中し、普段よりよいパフォーマンスが出せる状態。
スポーツでゾーンを語る場合は、およそこの行動型ゾーンのことを指す。……思い返せば、集団スポーツより……例えば、テニス、野球のように一対一のスポーツでよく体験談を聞くな。あとはゴルフのような個人スポーツか。なにか関連性があるんだろうか。
斉藤さんがノートパソコンの画面をこちらの方へ向けた。画面には人間の脳を輪切りにしたイラストが表示されていて、脳がいくつかのブロックに分けられていた。
「脳は役割によっていくつかのパーツ……例えば『思考』を司る部分、『感覚』を司る部分などに分かれます。行動型ゾーンに入った場合、思考と感覚の一部……例えば聴覚などの部分ですね。これらの活動を低下させて、余力を体の活動の方へ回しているわけです」
「活動を低下させて、ってどうやって?」
「先程お話したシナプスは覚えていますか? 行動型ゾーンへ入った場合、無意識に不必要な脳部位との情報交換を減らすために、シナプスの接続を変化させている可能性があります」
「……斉藤君。あたしの限界はもうそこまできてるよ。もっとわかりやすくお願い」
いつの間にか片平さんはテーブルの上に突っ伏していた。かくいう俺もそろそろ限界がきそうだ。
「わかりました。では誰にでも経験がある例を出しましょう。みなさん、もちろん勉強は好きですよね?」
「なわけないじゃん」
「……大嫌いです」
「僕は好きというより……得意なほうかな」
もう伊藤さんすごいっすね、という感想しか出てこない。
「……冗談抜きで、このあたりのことも調べる必要がありそうですね……。まぁこれは今度にしましょう。ではみなさん、学校で試験を受けているときを想像してください」
当然のように俺と片平さんの表情が歪む。
「試験中は普段の授業より時間が進むのが早く感じませんか?」
「そうだね」
「これは『時間を気にする』ことに頭が回っていないからです。つまり、『問題を解くために必要な部分』と『試験問題に関係ない部分』とを繋ぐシナプスの数を減らす。こうして人は『集中』しているわけです」
「……なるほど」
「行動型ゾーンの場合も一緒です。プレーに関係ない脳部位と繋がっているシナプスの数を調整して、『集中』している可能性が高い、というわけです」
人間ってすごいな。こうやって自動的に脳の機能を調整して最適な状態を作っているのか。
「大峰君の場合もこれに似ていますが……大峰君の場合はどういうわけか『思考』の部分のシナプス接続はそのままで体のリミッターを外している、と推測しています。つまり……脳機能そのものを活性化しているわけではない」
「活性化……されていない?」
斉藤さんの言葉に思わずオウム返しをしてしまう。
「大峰君、ゾーン中にリアルタイムで戦況を判断していると言っていましたが、具体的にはどのような感じですか?」
「えーっと……相手の動きとかからいくつかのパターンを……」
「何パターンくらい?」
「……2つとか3つ、多くても4つくらいっすかね」
「伊藤君はどうですか?」
「……多いときで50パターンくらいですね」
「「50!?」」
ほんの一瞬で――いくら体感時間が数倍あるとはいえ――50パターンというのは俺の10倍以上。確かに脳の使い方が俺とは全然違う。伊藤さんのサッカーノートに記されていたゾーン中の情報量を考えれば……納得はできる。
「このように、大峰君のケースでは脳の接続状態を変化させることはあっても、脳の活動そのものを活発化させていない可能性があります。だから大峰君には頭痛が起きていない。まだ科学的な考察ができていない状態なので、どれも私の推測の域を出ませんが……こう考えるといろいろな辻褄が合います」
改めて、伊藤さんの超人さ――言い換えれば異常さを目の当たりにした俺と片平さんは、しばし閉口してしまった。
気付けばカーディフの街は日が傾き始め、まさに俺の心の中を暗示しているようだった。




