始まりはカーディフから 2
右手を見れば、緑がたくさんの公園。
左手を見れば、若者向けと思われるショッピングモール。
さらに辺りをくるっと見渡せば、レンガ造りで風情のある建物と近代的なガラス張りのビル。相容れないと思っていたふたつの建築物が、見事にマッチしていた。どことなく小学生のころに世界大会で訪れた、ベルギーのブリュッセルを思い起こさせる。
ロンドンに比べれば人も少なく、カーディフはどことなく……のんびりした雰囲気が漂う。
「女子はいいスタート切ったからね! 男子も頑張ってよ!」
片平さんが右手でフィッシュアンドチップスのチップス部分に食いつきながら、左手で俺の背中を叩く。
今日の昼に行われた女子オリンピック、グループリーグ初戦。
女子は12カ国を3グループに分け、それぞれで総当たり戦を行う。日本女子は強豪カナダと同じグループに入り、初戦でそのカナダと対戦した結果……3―1で勝利。勝ち点3をもぎ取った。
沢尻穂花さんが圧巻のプレーでゲームを支配したと思えば、田宮さんの超絶的な決定力。終止カナダを圧倒した。
「田宮ちゃんのシュートかっこ良かったよねー。あっ、田宮ちゃんと言えば……」
片平さんの一言に素早く反応したふたり。伊藤さんがティーカップを静かに置き、斉藤さんが左手に持っていたドーナツをそっと置く。
それからみんなで俺の方を向くということは……なんとなく想像できていた。片平さんがゴソゴソとバッグをあさり、一冊の週刊誌を取り出す。
「『大峰がオリンピック代表と共に掴んだものとは!?』。どうなのよー。大峰くーん?」
「……お願いだからもうほっといて下さい……」
片平さんが広げてみせるのは、ある写真が載った記事。羽田空港で田宮さんが俺に肩を組んできたときの、写真。見事に各スポーツ新聞やゴシップ誌が取り扱うという……とても悲惨な事態に発展してしまった。
「いやいや。スターにゴシップはつきものですよ。いくら実力があっても話題にならないスポーツ選手というのはパッとしないものです」
「じゃあ俺パッとしない選手でいいっすよ……斉藤さん」
この写真が出回り始めてからというもの、男子日本代表の俺に対する扱いが雑になってきた。さらに、倉田さんの態度が以前にも増して冷たくなってしまったような気がする。……全力で気のせいだと思いたいところだ。
「大峰君には可愛い彼女がいますから」
「えー!? そうなのっ?」
……最近気付いた。伊藤さんが俺をからかうときは、左の口角が微妙に上がることを。
「あーっと、彼女……なのかな? 告白とかはしてないんすけど」
「さ……斉藤君! ぶ……分析して!」
「……片平さんは何を言っているんでしょうか」
片平さんが頭を抱えて「Noooo!」と叫び出した。……このカフェ、人が少なくてホントに良かった……。
「どこの誰!? 学校のお友達……は、大峰君にはいないか。……じゃあ芸能人……と仲良くなる器量も大峰君にはないし。やっぱり田宮ちゃん!?」
「片平さん。年上の女性、という線が濃厚です」
「マジ!?」
「なんでそうなるんすか……」
どこをどうプロファイリングしたら、俺が年上好きと結論出せるんだろうか。……というか片平さんの心ない言葉が刺さって痛い。事実はときに人を傷つけることを今日学んだ。
「幼馴染……です。ずっと昔から、一緒にいる」
「…………」
斉藤さんが「なるほど」と頷き、片平さんが「勝てねー!」とわけわからないことを叫びだし……伊藤さんは無表情でティーカップを再び手に取っていた。
イギリスに旅立つ前日。
結衣と久しぶりにふたりで、海岸線を散歩していたときのこと。
今までの感謝の気持ちと共に、俺の率直な気持ちを……結衣に伝えた。
結衣は満面の笑みで俺の言葉を受け取ってくれたけど、言葉を交わしたのはそれだけ。彼女の気持ちがどうなのか、はっきりとは聞いていない。俺も「付き合おう」なんて口にしていない。
「そっか……。告白はしてないって言ってたね。なんで?」
「なぜ……ですか」
なぜ、か。
あの日から……いや、上野の公園で結衣と話したときから……考えている。
「言葉にしなくても……伝わってるかな、って。言葉にしちゃうと安っぽくなっちゃいそうだな、って」
「……大峰君が年相応に見える」
「そうですね」
片平さんと斉藤さんが、同期して頷く。
「……ガキっぽいでしょうか」
「んーん。甘酸っぱい気持ちって、あたしは素敵だと思うよ。大人になるとそういうの……忘れていっちゃうもんだから」
俺たちのテーブルにまわってきた店員さんが、空になった片平さんのカップに紅茶を注ぐ。昔のことを思い出していたのか、いきなり静かになった片平さんの表情がどこか憂いに満ちていた。
なみなみ注がれたティーカップを手にとったそのときには、片平さんはいつものキラキラ光る笑顔を見せていた。
「でもね、大峰君。女の子は……案外ダイレクトな言葉を待ってるもんだよ。いつかはその子に言ってあげてね」
「……はい」
「さてさて。そろそろ本題に入りましょうか」
斉藤さんが身を乗り出して全員の顔を見渡す。
「どうもこのメンバーが揃うと、本題に入るまでが長いですね。次回からは私が最初から仕切らせてもらいましょう」
「斉藤君もノってきてたじゃん……」
「ははは。確かに」
納得いかない、と言いたそうな片平さんに、同意の意を示す伊藤さん。確かにゴシップのくだりでは、斉藤さんもガシッと食いついてきたような気がする。
むっ、と憮然な気持ちを露骨に見せる斉藤さん。
「……まぁいいでしょう。では私からの本題は、みなさんお気づきと思いますが……ゾーンについて、です」
やっぱりそうか。
……ん? でも待てよ。
「斉藤さん、わざわざそれを俺たちへ伝えるためにイギリスまで来たんですか?」
「そうです……と言いたいところですが、半分は仕事です」
「仕事?」
斉藤さんの仕事ってなんだっけ。……詐欺?
「……大峰君、何か失礼なことを考えていますね? ……黒田監督と日本のチームドクターに呼ばれたんですよ。選手たちのメンタルケアを任されました。別件があったのでようやく今日になってイギリス入りした次第です」
「そうだったんすか。じゃあ俺たちだけでなく、他の選手たちにも?」
「ええ、そうですね。メンタルが非常に重要なファクターになりそうなチームだと伺っています」
メンタルが重要……。確かにそうかも。昨日のイングランドとの親善試合を見ても、それは明らかだろうな。
「では本題に。先に釘を刺しておきますが、伊藤君」
「……はい」
斉藤さんの呼びかけに、曇った表情で返す伊藤さん。
「今日は隠しごと無しでお願いします」
「……はい」
斉藤さんから放たれた言葉を、伊藤さんはおそらく予想していたんだと思う。意を決したように、首を縦に振った。
しかし、その次に斉藤さんが放った言葉は、先程までの和気あいあいとした雰囲気を一発で吹き飛ばすのに十分な衝撃を持っていた。
「冗談ではなく……命に関わる可能性があります」
「「……えっ?」」
「…………」
想像の斜め上を飛んだ斉藤さんの言葉。
俺と片平さんは、ただ驚くことしかできない。ティーカップに視線を落としたまま微動だにしない伊藤さんは、この言葉さえ予想していたんだろうか。
「い……命? 斉藤君、大げさに言っているんだよね?」
「確かに少し誇張して言いました。ただ……可能性はゼロではありません。特に……伊藤君の場合は」
俺ではなく、伊藤さんだけ……?
ということは、やっぱり昨日の途中交代は……。
「最初に約束しましたが、今日は駆け引き無しです。率直に聞きます。伊藤君、すでに自覚症状がありますね?」
変わらずティーカップに視線を落としている伊藤さんに全員が注目を向ける。ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた伊藤さんの表情には……どこか決意のようなものを感じた。
「はい」
短い、肯定を表す一言。
「じ……自覚症状って、なに?」
割れやすい、薄いガラスの製品を扱うように、片平さんが恐る恐る――慎重に伊藤さんへと疑問を向けた。
「……頭痛です」
「私がもう少し補足しましょう。片頭痛ですね?」
「……はい」
「ゾーンのあとだけでなく、すでに慢性化していませんか?」
「……しています」
話の流れがわからない俺は何も言えず、ふたりのやり取りを聞いていた。放っておけばサラサラと流れて行きそうなふたりの会話を、片平さんが必死にせき止める。
「ちょ、ちょっと待って! あたしと大峰君にもわかるように説明して!」
斉藤さんが無言で伊藤さんをじっ、と見つめる。
およそ5秒くらいだろうか。数倍にも感じた時間を経て、斉藤さんがゆっくりと片平さんの方へ視線を向けた。
「実は前回、タイムリー新聞の本社でお話を聞いたときから、引っかかっていることがありました」
「え……あのときは……特に何もないって」
「確証がありませんでしたから、安易に不安を煽らないように、と思ってました。ですが……やはり思い過ごしではなかったようですね」
4月の終わり。
シフエ東京との一戦の翌日、このメンバーで一度ゾーンについて話したことがあった。そのときは斉藤さんの気になる事柄がないということで、特に問題なくお開きになっていたが……。
「気になったのは……伊藤君が思考型ゾーンについて話していたときのことです。伊藤君が思考型ゾーン、その特徴のひとつに『普段より頭の回転が早くなる』と言っていたのを覚えていますか?」
「確かに……言ってた気がする。けど、それの何が引っかかるの? そういう特徴を持ったゾーンでしょ?」
沖縄合宿。
伊藤さんが思考型ゾーンについて話してくれたことがあった。そのときは、ノートの1ページにびっしり書かれた数字とアルファベットの羅列を見せてくれた。思考型ゾーンに入ったらこんな感じで戦況を予測している、と。
確かに、普通の人ならあんなことできない、と感じた。
「もう一度順を追って説明しましょう。脳にはリミッターがついています。そのリミッターが外れると、例えば事故に遭った際スローモーションに見える、そのような現象が起きます。これが伊藤君の思考型ゾーンに似ている、というお話をしました」
「うん。伊藤君の場合と似ていると思うけど」
「そう。似ています。けれど、決定的に違う部分があります」
決定的に違う部分……。
どちらも脳が活性化していることに変わりはないと思う。景色がスローモーションになるということは、目でキャッチした情報を脳が処理していて……伊藤さんの場合はこれに加えていろいろ考えていて……しかもそれが……あっ!
「計算する……力」
「そうです。計算する力、すなわち思考する力。伊藤君はこれが強化されているんです」
「……どういうこと?」
「もともと私は『ゾーン中なのに思考が止まらない』、という意味で『思考型ゾーン』と命名しました。しかし、ここまで来ると……意味が変わってしまった」
片平さんが斉藤さんの方へ身を乗り出した。伊藤さんはじっ、と斉藤さんを見つめていた。
「スローモーションに見える。これはつまり、視覚情報の処理能力が強化されているわけです。こういう現象は数多く確認されています」
「うん。このあいだ斉藤君がたくさん例を話してくれたね」
「はい。しかし、伊藤君の場合は『計算する力』までもが強化されているんです。これはよくよく考えれば……とてつもなく異常です」
片平さんが手をアゴに当て、オープンカフェのパラソルを見上げる。片平さんが考えるときによく見せる仕草。
「異常……かな?」
「異常です。ひとつ例を出しましょう。フラッシュ暗算をご存知ですか?」
「ぱっぱっぱ、ってモニターに数字が出てきて……それを暗算するやつ?」
「はい。事故のスローモーションの例では、さっさと変化していく数字をじっくり見ることができる。ただそれだけです。伊藤君の場合はじっくり見ながら……計算速度まで上がってしまっているんです」
確かに。
考えてみれば……これはとてつもなく違和感がある。
計算する能力や考える力は、小さな頃から毎日毎日繰り返して少しずつ上達していくものだ。あるとき急成長するようなものじゃない。
なまじ思考型ゾーンという『現物』を見せつけられたため、その『中身』について全く疑問を持っていなかった。
「それが……頭痛の原因なの?」
「おそらく。大事なことなので、もう一度強調の意味を込めて言います。伊藤君、このまま放っておけば……重大な障害、ひいては……命に関わる危険性もあります」




