本戦直前、最後の親善試合 6
オースティンはドリブルをしている。
僕は走っているだけ。
なのに――ついて行くのが精一杯。
並走した直後から、ショルダータックルをオースティンにぶつけている。幾度も、幾度も繰り返して。
にもかかわらず。
オースティンは全ての衝撃を吸収しているかの如く、体勢を崩さない。天性のバランス感覚なのか、鍛え上げられた筋肉――強固な鎧に守られた基盤のおかげか。
もうすぐペナルティエリアに差し掛かる。
日本GKの森さんが、手を広げながら飛び出すタイミングを伺っていた。
後ろからのフォローは――ない。オースティンは十中八九、このまま突っ込む。
――集中!
例え相手が狂獣と呼ばれていようと、同じ人間に変わりはない。
例え自由奔放なプレースタイルであろうと、必ず見分けるための何かがある。
例え貴重な時間を使ったとしても――見極める!
オースティンがボールを持ってからここまで、全くの無酸素運動。加えてこの危機的状況。
おそらく――状況は整っている。
最近気付いた、思考型ゾーンへの、ひとつの入り口。ふたつのキーワード。
無酸素状態と危機意識。
このふたつが揃ったほとんどの場合で、思考型ゾーンへ入っている。
僕とオースティンがペナルティエリアへ入り、森さんが飛び出してきた――
瞬間。
――入った!
脳へ送られる酸素が不足し、かつ、絶望的な状況を僕の脳が「危険」と判断し、その活動をブーストした。
森さんとの接触までは、おそらくあとボールタッチ1回分ほどしかない。圧倒的に時間が足りない。でも……なんとかするしかない。泣き言を言っている暇なんてない。
加えて……オースティンのクセに関するデータはほとんど揃ってない。
だったら。
――この場でデータを取るまで!
凶暴な笑みを浮かべながら疾走するオースティンと並走しながら、全神経を彼の一挙手一投足に集中させた。
左足で着地するときの、強さ。
右足でボール触るときの、場所。
左手で僕を牽制するときの、高さ。
体勢を保とうとするときの、右手の位置。
目線の位置と、身体の各パーツの、連動性。
……!
観察を続けた僕の目が、ある違和感を捉えた。
――1歩前に比べて、左足での踏み込みが強い! それに……右足をやや内側に引いている。
これは――間違いない!
瞬間的に脳の活動状態が変化し、あらん限りの力を振り絞って森さんへノドを絞る。
「森さん!」
十分な言葉を紡ぐ時間はとれず、わずかに首を右へ振るだけにとどまった。
オースティンが右足のアウトサイドでボールを右に転がし、森さんを躱そうとした――同じ方向へ、森さんもスライディングをする。
「……!」
オースティンの驚きがここまで伝わってくる。
森さんは……僕の不十分な情報を最大限に汲み取ってくれた。
なんとかなりそうだ、と心の中で一瞬の緩みが出たところで――
オースティンが驚異的なスピードでボールへ追いつき、右足インフロントでボールをふわっ、と浮かせた。この試合で多く見せた野獣的な動きでなく、繊細なボールタッチ。
ループシュート。
森さんのスライディングを、ジャンプしてオースティンが躱す。
「「……!」」
――まだ!
森さんが直前までスライディングで迫っていたから、オースティンはボールを高く上げざるを得なかった。まだ間に合う!
ループシュートが放たれた、と感じたそのときには、僕は既にボールへ向かって走っていた。
ボールが高さ1m、ゴールまでの距離1mまで迫ったところで――ボールへ飛び込んだ。ダイビングヘッド。
僕の頭がボールを捉え――なんとか、ボールをゴールライン外へと弾き出した。
『……オオオオオ!』
イギリスサポーターのどよめきが僕の頭に響く。
全力疾走からの思考型ゾーン。最後のダイビングヘッドは……おそらく行動型ゾーン。無茶を続けて荒ぶった呼吸を少し整えよう、とピッチにうつ伏せのまま目を閉じていた僕に、またしてもイギリス訛りの英語が飛んできた。
「You are bloody brilliant!」
未だピッチに倒れ込んだままの僕に向かって、オースティンが歓喜の声を上げている。痛む身体と頭にムチを打ち、両手で必死に芝を掴む。なんとか身体を起こした僕の前で、彼は奇声を上げながら踊っていた。
「伊藤! ビッグプレーだな!」
GKの森さんが座り込んだままの僕に手を差し伸べる。
「まだです。……まだイギリスのCKが……」
ズキンッッッ
……っつ。
「……伊藤?」
いぶかる森さんの手を勢い良く掴んで、一気に立ち上がる。
「集中しましょう。まだイギリスの攻撃は……」
「監督!」
森さんの隣にいた奥村さんがベンチに向かって大きな声をあげ、手を大きく交差していた。
……まさか。
「奥村さん!」
続けて奥村さんは右手の人差し指をクルクルと回した。
まだ……こんなところで……!
「引っ込んでろ。使えないと判断したら下がる約束だぞ」
「でも!」
「……伊藤」
奥村さんに詰め寄ろうとした僕を、森さんがすっ、と後ろから右腕で包む。「どうして?」と気持ちを込めた僕の目線を「わかるだろ?」と返された気がした。
「伊藤。俺も奥村に賛成だ。今日はもう引っ込め。たかが親善試合だ」
ゴール前に戻ってきた中島さんが腰に手をあて、少しだけ、沈痛な表情を浮かべている。
先程のイギリスが行ったカウンターは驚異的なスピードで展開したため、今になってようやく両軍の選手たちが日本ゴール前へと集まってきていた。まだ話す時間があると判断したのか、中島さんが続けて言葉を紡いだ。
「……すまん、伊藤。実はお前に異変があるかもしれないと……気付いていた。気付いていたが……言えなかった。お前の実力をみんなに……いや、すまん」
「……中島さん」
ピィィィィィ!
レフェリーのホイッスルとサイドラインを指すジェスチャーに、全員が注目する。
交代ボードに書かれた番号は――僕の背番号、18。
本来、サッカーの交代は4審のチェック等があるため、すぐにはできない。この素早いタイミングで交代を指示されたということは……すでに、僕の交代を行う準備ができていた、ということ。
……監督も気付いていたのか。
「伊藤。あとは任せろ。奥村もわかってくれたはずだ」
「あぁ!? 中島ぁ! 勝手に……」
中島さんの一言に、奥村さんが激昂する。この程度で奥村さんが納得してくれるとは……到底思えない。
「Hey! Why do you leave the field!?」
交代ボードを見てから興奮度合いを高めているオースティン。僕の真ん前まで迫ってきたところで、森さんが手を伸ばし、オースティンを妨げた。
「Well, I'm not sure」
交代させられる原因はわかりきっているけれど、バカ正直に相手選手へ言う僕じゃない。「さぁ、なんでだろうね」と、適当に返しておいた。
「早く行け。イエローもらっちまうぞ」
森さんに促され、身体をベンチ側に向けたところで、気付く。
日本選手のほとんどが僕の方を向いていた。
立木さんと沢田さんが、並んで右手でサムズアップ。
植田さんと桑原さんが、並んで笑顔をこちらに向ける。
三宅さんが僕の目を見て静かに頷き、福井さんが両手を挙げて拍手していた。
中島さんが僕の肩を軽く叩き、森さんが僕の背中をポンッと叩く。
奥村さんと倉田さんは……無言で僕を凝視していた。
シティ・スカイスタジアムの、少し固めな芝の感触を残すように、一度だけ右足を踏み込む。感触が右足を通じて僕の脳へ伝達されたのを確認して、ベンチ側サイドラインへと走る。
今からだったのに……こんな中途半端な形で……。
交代する理由を理解はしても、納得はできない。心中に複雑な気持ちを携えたまま、ピッチ外へ出ようとする僕に、交代選手の佐野さんが声をかけてきた。
「よくやった。お前の気持ちは、もれなく全員に伝わったぞ」
「……あとは、よろしくお願いします」
佐野さんに頭をポンポンッと撫でられ、僕はラインを跨ぎ……ピッチをあとにした。
――終わった。
僕の……初の国際試合。
小学生のころから世界と戦っている大峰君と違い、日の丸を背負ってピッチに立ったのは、これが初めて。
まさか……初の国際試合が、こんな形で終わってしまうなんて。
自身のあまりの不甲斐なさに、僕の心は……荒れた。
荒れた……けれど。
意外にも、荒んだ僕の心を洗い流してくれたのは……敵地にも関わらず、交代した僕に暖かい拍手を送ってくれた、シティ・スカイスタジアムを埋め尽くすイギリスサポーターの人たちだった。




