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本戦直前、最後の親善試合 3

 およそ数年ぶりに自我の内から放たれた感情――その余波に、後半開始を告げる笛の音を聞いたあとにも関わらず、どうしようもなく巻き込まれてしまっていた。

 

 ……こんなに感情を表に出して、あまつさえ他人と正面から睨み合ったのは……いつぶりだろう。

 

 僕はまわりから間違いなく「冷静沈着」な人間と思われている。同級生たちからは「クール」としか評されたことがない。そんな僕の一面しか知らない同級生が今の僕を見たら……どう思うんだろうか。

  

 物心ついたときから、おじいちゃん、お母さんの言うことにさしたる疑問を持つこともなく、我ながら愚直に従っていた。

 

 勉強は、将来の自分を形作る礎になる。

 

 おじいちゃんが口を酸っぱくして僕にいつも聞かせていた言葉。

 今思えば、当時小学生の僕にこの言葉を突きつけたおじいちゃんは、やはり相当な変わり者だったんだろう。あるいは息子にできなかったことを孫にさせたい、という願望を直接的に表現していたのか。

 おじいちゃんの言いつけで、小学校入学当初から4人の家庭教師をつけられ、毎日勉強しかしていなかった。

 唯一の楽しみは、自宅を取り囲む巨大な壁に向かって、ひとりでボールを蹴ること。サッカーのDVDを見てスーパースターのプレーを網膜に張り付けては、誰にも見つからないように、こっそり家を抜け出していた。毎日毎日飽きもせず。

 

 そのおかげか……ある日から、僕は「繰り返す」という動作に苦痛を感じなくなっていた。

 漢字ドリルに同じ漢字を何回書いても。

 歴史年表を何度も見直し、何に役立つかもわからない年号を覚えることも。

 下手くそだったサッカーの基礎練習を……幾度一人で繰り返しても。

 

 小学生時代から身体の線が細く、当時背も低かった僕は、おおよそサッカーの才能は自分には無い、と心中では諦めていた。

 それでも。

 現シフエ東京ジュニアユース、その前身である少年サッカークラブのセレクションに合格したことは、一つの確固たる自信となった。だが、これも今思えば――

 

「おい。ぼーっとしてんじゃねーよ。もうベンチに引っ込みたくなったのか?」

「……そんなわけないでしょう」


 険のある、尖った一言が、僕を過去への小旅行から現実に引き戻した。

 ディフェンスの中央に陣取っている僕へ右から声をかけてきたのは……奥村凛太郎さん。僕と数分前まで睨み合っていた張本人。

 

「もう一度確認しとくぞ。お前は『守備』のときだけ指示するんだな? 『攻撃』は好き勝手させてもらうぞ」

「ええ。それで構いません」

「……ちっ」


 嫌悪感を微塵も隠そうとしない奥村さん。

 ……それでいい。

 

 正直、沖縄合宿のときの馴れ合いぶりに嫌気がさしていたところだったんだ。練習が終わったあとに仲良くするのはどうでもいい。心と身体を整える方法は人それぞれ。

 ただ……大学生相手の練習試合。大事な場面でミスをした選手が「ごめんごめん」と笑って済ませていたのを見たときは……落胆する気持ちを抑えきれなかった。

 

 これが、僕の憧れた日本を代表するサッカー選手なのか、と。

 

 そういう意味で黒田監督の荒っぽいやり方には賛成できる。僕が求めていたのは……これだ。

 だからこそ僕は……ひたすらストイックに、上を見続ける大峰裕貴に……興味を持ったんだ。

 

「伊藤。俺は攻撃には参加せず、エーブリーに集中していたほうがいいと思うが……どうだ?」


 左側から、190cmはあろうかという、長身CBの中島さんが僕に同意を求めてきた。

 

「いえ。中島さんもチャンスがあれば攻め上がってください。特にCKコーナーキックと沢田さんのクロス。FWの南さんが下がりましたから、中の高さを稼ぎましょう」

「だがそうすると……」

「カバーは全て僕がします。遠慮なくどうぞ」


 中島さんはなおも心配そうな表情を僕に向ける。

 

 フルのメンバーを揃えているとはいえ、イギリスもまだ調整段階。

 沢田さんと同じチーム、ヴィンシェスター・ユナイテッドでプレーするFWのジェイコブ・エーブリーが前半から活躍していたけど、イギリスの狂獣、イーサン・オースティンはベンチのまま。

 見たことない選手を多く使っているとこを見ても、今はまだエーブリーを中心にした戦術を組んでくるだろう。

 

 相手の動向を予想できている内は、僕ひとりでも問題ない。

 

 怖いのは、エーブリーの脅威に怯えて、攻撃の枚数が減ってしまうこと。「攻撃は最大の防御」とよく言うけれど、まさにその通り。

 

「……わかった。俺はお前の指示を全面的に信頼する」

「……お願いします」


 中島さんがひとつ頷き、現在中盤でパスを回している日本のほうへと少しポジションを寄せた。

 

 ……なぜこんなに僕を信用できるんだろう。

 

 自分から指示を出させろ、と言っておきながらこう考えてしまう僕は、中島さんに対してかなり不誠実だと思う。けど……。

 

 幼少期に家庭内のゴタゴタに巻き込まれた僕は、人をなかなか信用できない。

 同級生も。先生も。おじいちゃんも。お母さんも。お手伝いさんも。U―23代表だけでなく、シフエ東京のチームメイトさえも……。

 

 僕が自ら進んで交流を求めたのは……大峰君、ただひとり。

 

「伊藤!」


 ……っと、いけない。今日は集中力が足りないな。

 

 前方へ目を向けると、中盤でボールを奪ったイギリスが素早くパスを回し、まさに今、日本へカウンターを仕掛けているところだった。

 奥村さんはやや前線へ飛び出してしまっているし、右SBサイドバックの三宅さんも敵陣奥までオーバーラップしている。ということは……すぐに守備へ入れるのは……悪く見積もれば、僕と中島さん、それに左SBの福井さん。3人。

 対するイギリスは……3、4。勢いよく上がる3人に加えて、福井さん側のサイドからもひとり動いている。

 

 なるほど。これは骨が折れそうだ。

 

 すーっと、息を吐く。

 続けて空気は吸い込まず、一度呼吸を止める。

 

 敵陣から迫る選手たちを認識すると同時に、視界がパッと広がりクリアになった。観客と選手たちの声は、もはや僕の耳には届かず、キーンっと耳鳴りのような音だけが脳内にこだまする。

 

 ――ゾーン。

 

 脳内の血管が一気に拡大してその活動を活発化させ、人が元来備える安全弁を解除する。もはや俊足を生かして日本ゴールへ突き進むイギリス選手さえ、スローモーションに感じた。

 

 まるで――普段は道路を時速40キロで走る車が高速道路へ入り、アクセル全開で駆け抜けるように。

 まるで――普段は省エネ性を重視して稼働しているPCのCPUが、オーバークロックにより発熱と耐久性を犠牲にして、その性能を高めるように。


 僕の脳は――瞬間的に、別物へと変化した。

 

 まずは情報収集。

 

 現在ボールを持っているのは、右サイドにいるイギリス#8の選手。その隣には、イギリス#8に追いついた奥村さんがすでに張り付いている。大口叩くだけあって、無防備に攻め上がりはしない、か。

 

 中央から2枚。

 一人はイギリス#19の選手。この選手は前半からスペースを見つけて飛び出すことが多かった。警戒するとすれば……最後のフィニッシュか。

 そしてもう一人が……イギリス#9、ジェイコブ・エーブリー。彼は現在のイングランドリーグで得点王争いも演じている、紛れもないイギリスのエース。全ての技術が高いレベルにあるが、特に気を付けたいのはドリブル。1対1の場面になってしまえば……おそらく五分五分も勝率はない。

 

 あとは福井さんのサイドにいる、イギリス#7の選手。福井さんも懸命に戻っているけど……おそらくマークには間に合わない。この選手は日本の植田さんと同様、中央へ鋭く切り込んでくることが多かった。警戒はしておこう。

 

 状況は飲み込んだ。

 

 この状況から考えられるパターンは――

 

 8D、8RP、9D、9S。

 8RP、9LP、8RP、19S。

 8RP、9D、9S。

 …………

 8D、8FRP、9BP、19RP、7S。

 

 ――合計24パターン。

 

 そのうち、最初の分岐点は――3つ。

 

 オースティンとの1対1を避け、かつ、イギリスの攻撃をディレイするには……最初が肝心。

 

 奥村さんと競り合いながら、日本ゴールへドリブルしてくるイギリス#8の動きにフォーカスを当てる。

 前半からこの選手のプレーは何度も見ている。僕の脳内には十分な情報ストックが溜まっているはず。

 

 目線。

 重心。

 足の上げ方。

 身体の入れ方。

 

 ……ん? 何かおかしい。

 …………!

 このフェイントは……。

 

 すぐにフォーカスを引き、今度はピッチ全体を視野に入れた。

 

 ……なるほど。

 そうだった。今は本番じゃなく、親善試合。なら……あり得る。

 

 結論を得たことを受け、僕の脳が通常運転へと切り替わった。間髪入れずに、僕の左側にいる中島さんへ指示を飛ばす。

 

「中島さん! エーブリーは空けて、左! #7!」


 直前まで迫っていたエーブリーを凝視していた中島さんが、僕の声に驚きの表情を返す。中島さんが逆サイドにいる#7へマークに行けば、中ががら空きになる。当然のリアクションだけど――

 

 ここは――僕を信用して下さい!

 

 ありったけの眼力を込めて中島さんへアイコンタクト。

 

 中島さんは頷くのももどかしい、とばかりに一目散に#7へ駆け寄ろうとしている。

 

 視線をホルダーの#8へ戻すと、まさにボールを蹴る瞬間だった。

 

 ここまで予想通り。

 

 さぁ、どう来る!

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