本戦直前、最後の親善試合 1
空気の質が変わった。
イギリスは寒いものとばかり思っていたが、日中の気温は日本のそれとほとんど変わらない。だが、湿度が低いからか、さらっとした空気は今が真夏であることを忘れさせる。
感じとる雰囲気も変わった。
スタジアムの作り自体は日本のそれと大差ない。グラウンドの中から見る景色はどこかで見たようなもの。ただ、言葉では言い表せない深みを感じる。先入観からくる、俺の主観的な心情かもしれないが。
ほとんど日本と同じなのに、なにかが違う。
サッカーにおいても同様。
俺はこれまでに小学生の世界大会、U―15日本代表と、それなりに世界を相手に戦った経験を詰んでいる。もちろんU―23やA代表での出場経験はないが、そう大きく変わらないだろう、とたかをくくっていた……が。
結果的に見れば、全然違った。
人生初の未体験エリアに足を踏み入れた俺は、まるで転校初日に知らないクラスへ放り込まれたような気分になっていた。
ただ……悪い気分ではない。ワクワクが止まらない。
『オオオォォォ!』
ひとしきり大きな感慨に浸っていた俺を現実に引き戻したのは、シティ・スカイスタジアムに詰めかけた観客の大歓声。
右サイドを切れ味鋭いドリブルで突破した日本MFの沢田さんが、ゴール前へ向けてクロスを上げていた。
ゴール前で長身の日本FW、南さんが跳ぶ。
がっちりした体格のイギリスDFが、グイグイと南さんのユニフォームを引っ張る――が、南さんは空中にも関わらず体勢を崩さない。微動だにしない。
絶妙のタイミングで宙を舞った南さんが、首を振ってヘディング。
ゴールとは逆方向へ。
ペナルティエリアの中は、両軍の選手で入り乱れていた。左右のゴールポスト付近にはそれぞれ、イギリスの選手がひとりづつガードもしている。このまま強引にヘディングしても確率が低いと判断したんだろう。
南さんがヘディングしたボールの先に――立木さん。
顔面に喜色の表情を張り付け、走る。
立木さんの前方で、ボールが地面に着いたのと――ほぼ同時。
立木さんが猛烈なスピードでボールを蹴り抜いた。
ボールはただただ殺人的な威力と速さだけを備え、回転することなく、ひたすらイギリスゴールに向かって飛翔する。
ただ……現在イギリスゴールの前には全選手のほぼ8割が集合していた。もし俺がキーパーなら、さながらパイロンのように配置された選手達に……当然当たると考える。当たって、ボールの軌道が変わることをもっともおそれるだろう。おそらくイギリスのキーパーも同じことを考えたに違いない――
だが。
結果的に立木さんのシュートは――なににも当たらずゴールマウスに歓迎され、荒々しくゴールネット左上に突き刺さった。
イギリスDFの足にも当たらず。日本選手の身体にも当たらず。コースを予測してジャンプしていたキーパーの手にさえ当たらず。
まさに、幾重にも張り巡らされた網目を――軽やかにすり抜けて行った。
まるでそこが、あらかじめ「誰か」に決められたコースだったかのように。
ピィィィィィィィィ! ピッッピィィィィィ!
『オオオオォォォォォ……』
レフェリーのホイッスルが乾いたイギリスの空に響く。得点と共に、前半終了。
主審からの合図をかわきりに、スタンドをいっぱいに埋めた観客――おそらくイギリスのサポーター達――から一斉にため息が漏れる。
立木さんが放ったシュートの豪快さに魅了されてしまったのか。
それとも、勝ち越しては追いつかれ、勝ち越しては追いつかれ、を繰り返したあげく、スコアが前半で3―3まで伸びたことに辟易してしまったのか。
はたまた、激しく、ときに華麗な展開が続いたことで、息継ぎするのを忘れてしまっていたのか。
この試合がオリンピック本戦前の親善試合であるという事実を……もしかしたらみんな忘れてるかもしれない。まさに本番さながら。
少なくとも、濃密な45分だったことに異論を唱える人間はいないだろう。
「立木さん、相変わらず気持ちよかシュートば打つね」
「おうよー」
立木さんとFWの南さんがベンチに戻りながら、互いの握りこぶしを合わせる。
「立木さん、さすがっす」
「お前らみたいなガキ共ばかり目立たせたらつまんねーからなー」
ふたりと並走して歩き、俺もこぶしを合わせた。
「大峰……やったっけ? お前もやるやないや。高校生がふたりもおるって聞いたときは日本も落ちたなぁとか思いよったけど」
「ありがとうございます」
南さんが立木さんと合わせていたこぶしを、俺の方にも向けてくれた。迷わず手を合わせる。
「お前、うちのチームに来んや? お前みたいな生きのいいヤツがおらんくて困っとうっちゃん」
南蒼、20歳。
高校3年生のときに福岡の強豪校で全国制覇を成し遂げ、様々なJリーグチームから誘いを受ける――が、全て蹴って単身イギリスへ渡った変わり者。
現在はイングランド1部リーグのチーム、グラムFCでプレーしている。
「いやぁ……。俺はパスヴィアがあるんで」
「お前パスヴィア? なら同郷やないや! 誘われたら断らんのが福岡の県民性やろうが」
茶色の髪を赤い、細いヘアバンドでまとめた南さんが左から俺と肩を組み、博多弁でまくしたてる。
……すいません。そんな県民性初めて聞きました。
「おいおい南。抜け駆けは感心できんな。大峰はヴィンシェスターに来るんだよ。なっ? なっ?」
「あ……いや、だからパスヴィアが……」
いつの間にか右からも肩を組まれていた。
沢田大樹、21歳。
南さんと同じく、イングランドの1部リーグでプレーする海外組。
沢田さんが所属するヴィンシェスター・ユナイテッドは、イングランドリーグで最多優勝回数を誇る、まぎれもない強豪チーム。その強豪チームで、さらに激戦であるMFのポジションを勝ち取っている沢田さん。
今や日本人が海外リーグに所属していることは珍しくもなくなってきたが、南さんと沢田さんは別格。日本でも毎日のようにニュースでその動向が伝えられていた。この事実だけでもふたりの実力と注目度がわかる。
「お前が試合中に何を考えていたか……当ててやろうか?」
「え? いや……ちょっと怖いんですけど……」
沢田さんのツンツンに逆立てた髪が太陽光線で眩しく光る。
「楽しくてしょうがない……だろ?」
「うっ……その通りっす」
みんな俺の考えてることをズバズバ当ててくるよな。そんなにわかりやすく態度に出てしまってるのかな。
「このまま一生をパスヴィアに捧げるわけじゃないだろ? 将来の選択肢の一つに考えといてくれよ」
「……わかりました」
「早くロッカールームに戻れ! ミーティングするぞ!」
小野田コーチの一言に促され、てくてく歩いていた俺達4人は、少し足早にスタジアム内のミーティングルームへと引き返した。
* * *
「オフェンス陣はなかなか良い連携取れてたな。昨日初顔合わせしたチームとは思えなかったぞ」
オリンピック本戦前の最終調整。
ホスト国、イギリスとの親善試合。
前半を3―3のハイスコアで折り返したことに、小野田コーチはまずまずの手応えを感じていたようだ。
「そりゃそうやろ。こんだけのメンバー揃えて点取れませんでした、とか言ったら責任もんやろ」
「俺も南にさんせー」
自信満々に言い切る南さんと立木さん。
「俺は正直不安でしたけどね。立木さんの無茶振りも久しぶりでしたし。ただ大峰の動きが予想以上に良かったですから。わりかしスムーズにいきましたね」
俺はとにかくがむしゃらにプレーしていただけに、沢田さんの一言で救われた気持ちになった。
「僕は大峰や立木さんとは一緒に合宿してますからね。特に不安もなかったですよ。南君や沢田君とも何度か一緒にプレーしてたし」
ほんわかした笑顔で笑う鹿島コルノーズの植田さん。沖縄合宿でもドリブルの切れ味が印象的だったが、この試合でもその存在感を十分にアピールしていた。右サイドから崩す沢田さんに対し、左サイドから中央へ切り込んで行く植田さんのプレーが絶妙なバランスを取っていた。
「攻撃に関しては今のままでいい。立木、沢田を中心にゲームを組み立てろ。FWをうまく引き立てる役目はお前らの得意分野だろ?」
最終調整を兼ねたイギリスとの親善試合。
海外組7人の全員がイギリスで現地集合したため、U―23日本代表は昨日になってようやくフルのメンバーを揃えることができた。
そんな慌ただしいスケジュールで監督やコーチが一番心配したのは……間違いなく、日本組と海外組の連携。
攻撃に関しては。
FWで先発した、俺と南さん。
MFで主に攻撃的なポジションにいた立木さん、沢田さん、植田さん。
基本的には沢田さん、植田さんらサイドMFが両翼から崩しにかかり、クロスを上げれば南さん、裏を狙えば俺、と役割分担がきっちり出来ていた。
中央で立木さんがボールを持てば、そこから立木劇場の開始。
各々は自分が最高のパフォーマンスが発揮出来るように準備しておくだけ。あとは立木さんが誰に向かってタクトを振るかの問題。
このメンバーの一番スゴいところは、各自決定力が高いこと。フィニッシュパターンを数多く持っている、というのは大きな強みだろう。
この5人の連携は特に問題なかった。
問題は……。
「だーかーら! お前が指示出しちゃったら全員が迷うだろうが!」
「奥村! 落ち着け!」
「僕は正論を言ったまでです」
「伊藤! お前も抑えろ!」
間違いなくディフェンス陣のほうだろう。