福岡の高校生サッカー選手 3
りんりんぴーぴーと虫の大合唱がうるさい地元のバス停。
少しだけしっとりした夜風がひんやりと肌を撫でてくれるのが、練習後の火照った身体には心地よい。
付近はしん、と静まり返り、バス停前のコンビニだけが24時間頑張っていることを主張してくる。
先程、練習場からバスで30分かけて地元に戻ってきたところ。
ちょうど練習場、学校、家が正三角形になっている感じで、どこに行くにもバスで30分。
福岡の大都会、天神へ行くのに車で40分。
見晴らしの良い、ピクニックに最適な小山まで車で20分。
夕日がきれいな海岸線まで、車で10分。
俺の地元はそんな場所。
周りは田んぼと畑と家だけ。
おとうさん達は都心部まで電車で通勤をして、
お母さん達は玄関先で井戸端会議に花を咲かせる。
おじいちゃん達はバイクの荷台にミカンを載せて走り、
おばあちゃん達は決して家の玄関に鍵をかけない。
そんな場所。
小学生時代のほとんどを地元で過ごしていなかったせいか、特に郷土愛が強いわけではない。
親がここに家を建てたから住んでいる。そんな感じ。
小学生の大半を過ごした場所もこんな感じの片田舎だったから、ことさら田舎に抵抗感はない。というか田舎しか知らない。
同じ中学校に通っていた俺の数少ない友人の一人は、「早く都会に住みたかー」と、ことあるごとにもらしているが、俺は田舎に対しての不満は少ない。
静かなのがいい。
あっ。
不満、1つだけあったな。
街灯が少ない。
しょうがないことなんだろう、と心の中では諦めている。
そもそも人がほとんど歩かないから、街灯が必要とされることもない。大人達はみんな車だし。
そこで活躍するのが携帯のライト。
最近のスマホLEDライトは驚くほどに明るい。これ無しでは家に帰り着くことができない、と思うほどに。
携帯片手にあと100歩で家にたどり着くといったころで、道すがらの公園の中から声をかけられた。
「おかえり!」
「うぉ! びびった。何してんの? お前」
隣の家から漏れる僅かなオレンジの光が、女の子のシルエットだけを浮かび上がらせる。かろうじてTシャツとショートパンツに身を包んでいることだけがわかる明るさだが、誰かはすぐにわかった。16年聞き続けた声。
俺の幼馴染、高崎結衣。
「そろそろ帰ってくる頃かなぁっと思って」
「おい何時だと思ってんだよ。1人でこんなとこに」
「何? 心配してくれてるの? ……ヒロも紳士になったねぇ」
右手に持った携帯ライトが、かろうじて結衣の輪郭を浮かび上がらせる。気づかないうちに「女」の体つきに成長した幼馴染を意識してしまい、一瞬ドキッとしてしまった。
いつの間にか視界はスキップで近づいて来た結衣でいっぱいになり、俺は無意識のうちに顔を背けてしまう。先程の動揺を気取られないように。
「……腹減った」
「今日はカレー! 自信作!」
八重歯が覗く人懐っこい笑顔で笑いかけてくる結衣。
「……3日前もカレーだった気がするけど」
「ほい! 急げ! カレーが冷めちゃう!」
「はーい」
結衣に背中を押されて走り、暗闇の100歩をさっさと踏破する。
築20年の時が経ち、若干乳白色の外壁が色あせ始めた我が家の門を開けると、
「ワンワンッ!」
お出迎えが1匹。
「ただいま。おっ、抜け毛が増えてきたな。飯食い終わったらブラッシングしてやるからな」
長年連れ添っている愛犬――ヤッキーとじゃれあう。
シェルティーという犬種で、コリーの小型犬のような感じ。長い鼻と奇麗な毛並み、短い足がなんとも可愛い、俺の癒し系。
「ちょっと! その格好でヤッキーと遊ばないで! 毛ですごいことになってるから!」
8年前から同じ理由で結衣に怒られている気がする。
……そうか。ヤッキーと出会ってもう8年も経つのか。
年甲斐もなく時間の流れに哀愁を感じつつ、家の中へと入って行った。服についた、ヤッキーの毛を振り落としながら。
* * *
夕食を終えて人心地ついた俺は、自室のベッドの上で横になっていた。
明日は9時から1部練。
そのあと、新幹線で広島入り。
明後日の土曜日にスリアロ広島と……第9節。
攻撃面での不安は特にない。
俺の「最大の武器」は、もともと1日に何回も使えるようなものじゃない。むしろボランチのように後ろから戦況をじっくり観察したほうが、FWの時よりもうまくいっている気がする。
開幕から8試合連続ゴール。
ボランチにコンバートしてからも、毎試合得点は継続している。
守備面での不安は残ったまま。
ボランチとして試合に出場して、まだ4戦。
しかし、この4戦でパスヴィアの失点率は大きく跳ね上がってしまった。これは間違いなく俺の責任。
今日の練習ではDF陣とそれなりの連携をとることができたが、あくまで練習。本番でうまくいく保証は当たり前だが、ない。
やっぱり一番の問題は……
コンコンッ
「はーい。開いてるよー」
「開けるよ」
建て付けが悪くなって「キィ」と変な音がするようになったドアを少し開けて、結衣がひょいっと顔だけを隙間から覗かせた。
「まだ起きてた?」
「おう」
そう言うと結衣は部屋の中に入って来た。右手に教科書とノートを持って。
「今日あった授業のノート。今やる?」
「あー。ありがと。今やっとこうかな。広島でノートだけ眺めてもチンプンカンプンだろうし」
ほとんど学校へ行っていない俺は、当然授業で何をやっているのかわかっていない。結衣が奇跡的に同じクラスになったので、毎日の授業内容や宿題の有無を伝えてくれている。
ホントに同じクラスでよかった……。
「まだ授業も始まったばかりだから、そんなに難しい内容はないけど……大丈夫? これから先ついて行くのキツくなってくると思うよ」
「んー。何とかなるでしょ」
三上さんにも似たようなことを言われたが、正直……学校に重心を傾けるメリットが良くわからない。
俺はこれからもサッカーで生きていこうと思っているし、その自信もある。
学校に通うこと自体が、そもそもデメリットの塊なんじゃないか、とまで最近は思うようになってきた。
もちろんサッカーができなくなった時のことを考えると、高校を出ておくことに意味がある、というのは分かっているんだけど……うーん。
「まぁ……あたしがいるからね。できるだけサポートするよ」
「……ありがとな」
結衣にはここ最近、プライベートをいろんな面でサポートしてもらっている。感謝の気持ちは溢れんばかりに俺の心に溜まってきているが、恥ずかしいのでちょっとずつしかお礼は言えない。
小さなテーブルに古文の教科書とノートを広げ、結衣は毛足の長い、焦げ茶のラグマットの上に座る。俺はベッドを背もたれにして腰かける。いつもの定位置。
「ヒロさ、学校では幽霊扱いされ始めてるよ。あっそこは連体形」
「幽霊?」
「テレビでは見たことある、1年3組に席もある。けど本物を見たことがない、みたいな。あっ最後の一個は連用形」
「なにそれ。……え? ここ連用形?」
地味にショックだな。ますます学校に行きづらくなってきた。
もっとショックなのは中学校で習った文法さえ怪しくなってること。……勉強はホント苦手だ。
「幽霊とは違うのかな。なんて言うんだろう……伝説の人、って感じかな」
「ランクアップしたな」
何も偉業達成してませんけど。
「ヒロにとってサッカーが一番だってのは、あたしも良く分かってるんだけど……学校って結構いいところだよ?」
「ん……そっか」
「勉強ももちろん大事だし……それ以上に人間関係の構築ってすごく大事だと思う」
どういう意味? と俺が首を傾げていると、持っていたシャーペンを口元に当てて、結衣が思案顔をつくる。
「うーん、うまく言えるかな。いろんな人と知り合って、友達になって。簡単にはいかないから、あれこれ悩んで。仲良くなれたら、うれしくて。友達を通して、客観的に自分を見つめ直して。結局、それが自分に返ってくる、というか……」
「自分に返ってくる……か」
自分に返ってくる。
……なるほど。俺に足りないのはこれなのかな。
「ごめん、偉そうなこと言って」
「いや……確かに人間関係って大事だよな」
俺が人生で一番手を抜いて来たのは、間違いなくこの人間関係。
そのツケがまわって来ているのだとしたら……このアドバイスは真摯に受け止めるべきだろう。
「でもね、ヒロがどんな選択をしても、あたしは……味方だから」
「……ん、ありがとう」
右下を向いた結衣が、最後の一言をぼそっとつぶやく。
表情は奇麗な栗色の前髪に隠れて窺えない。
かろうじて聞き取れたその言葉に返事をすべきか迷ったが、素直に感謝の気持ちを伝えた。
「じゃっ、じゃーあたしはそろそろ戻るね! 土曜日頑張って! テレビで応援してるから」
そそくさと教科書を閉じて帰り支度をする結衣。
「……ああ。頑張ってくる」
なんだろ? 今日は結衣の態度がいつもと違うような気がする。家に帰ってきたときに意識してしまったのは俺のほうなんだけど……。うーん……。
頭の中であれこれ考えていると、結衣はすでにドアノブへ手をかけていた。部屋を出る直前、結衣がこちらを振り向いた――
瞬間。
そこから3秒だけ、この部屋の全てが停止する。
視線をお互いの目の奥に固定したまま。
まるで神様が「面白い場面見つけた」とばかりに、いたずら心で時計の針を止めるように。
「……おやすみ、ヒロ」
結衣の優しく響く言葉でハッとして意識を戻す。再び活動を開始した俺は、もはや結衣の顔をただ見ることしかできない。きれいな栗色の前髪は左右にかき分けられ、彼女の穏やかな笑顔が俺の網膜に張り付く。俺の心をかき乱す。
「……おや……す、み」
バタンッ
少しだけ大きな音を立ててドアが閉まる。
どうにか寝る前の挨拶を返した俺は、しばしホケーっとドアを見つめたまま固まってしまった。
部屋の中には結衣から放たれたシャンプーの香りが余韻として残り、空気と一緒に俺の肺の中へ吸い込まれ、胸の奥で小さな、柔らかな疑問符を形作った。