29歳、崖っぷちJリーガーの場合 3
前島がコーチに呼ばれ、ベンチ前でウォームアップを始めた。
真剣な表情でランニングをする姿は、いつもJリーグで対戦相手に脅威を見せつける、前島そのもの。
……よし。頼んだぞ、前島。
「佐野、お前も前島と一緒にいくぞ! アップを始めてくれ」
「はい!」
小野田コーチの一言を受けて立ち上がり、ひとつ深呼吸。
私にできる事は、なにか。
心の中で確認をとる。
ジャージのポケットから、1枚のラミネートされた写真を取り出す。
3人の笑顔が写った、私の宝物。
愛しい2人の顔を親指でそっと撫で、気持ちを落ち着かせる。いつものルーティンワーク。
3秒の制止後、ジャージを脱ぐ。
奇麗に畳んだあと、その上に写真を置く。
茜。
真理。
パパ頑張ってくるぞ。応援してくれよ。
依然ウォームアップを続ける前島と並んでランニングを始め、気持ちと身体の温度を徐々に上げていく。
「前島、佐野! 行くぞ! 準備しろ!」
「「はいっ!」」
ついに小野田コーチが私たちにゴーサインを出した。それを受け、前島がユニフォームに着替える。
青いユニフォームのどっしり構える#21が……とても頼もしく見える。
私も……負けてられないな。
小野田コーチが4審(第4の審判)に歩み寄り、交代用紙を渡す。受け取った4審が記入内容をチェックし、交代ボードの準備を始めた。
「佐野さん。俺……やりますよ!」
「その意気だ。期待しているぞ」
両手を高らかと上げ、勢いよくハイタッチ。
それを見ていた、まだ出番がない他の選手たちが私たち2人のもとへ寄ってくる。
「前島! まずは流れを作ってくれよ!」
「セレクションなんかクソくらえだ! 試合は勝ってなんぼだろ!」
「佐野さん! どうせならスカッと一発決めて下さい!」
それぞれの選手と言葉を交わし、バチンッ、バチンッと次々にハイタッチをする私と前島。
一通り選手達とコミュニケーションを取ったあと、前島は空に向かって気合いを放出した。今までの鬱憤を吐き出すように。
「……っしゃあああああ! かかってこいやぁぁオーストラリアァァァ!」
日本ベンチ近くの席に座っていたお客さん達から、拍手と歓声が巻き起こる。
スパイク、レガースを4審が確認し、私と前島はセンターライン付近、サイドラインのすぐ外にスタンバイする。
ピッチ上に目を向けると、ボールがサイドラインを割り、オーストラリアボールのスローインになっていた。
あの形は……。
「前島。チャンスだ。初っぱなから行くぞ」
私の一言に、ピッチを一瞥した前島がニヤッ、と口角を上げた。
「はいっ!」
主審が高らかとホイッスルを吹き、私達2人の交代を認める。オーロラビジョンに大きく映し出された前島と私。その姿を見たサポーター達が一斉に声を張り、たちまち埼玉スタジアムが大歓声に包まれる。
前島。私達を待ってくれていたお客さんが、こんなにいるんだぞ。しっかり結果残さないとな。
4審が高らかと交代ボードを掲げる。
これを確認した日本の選手がふたり、ピッチの中からサイドライン付近へと駆け寄った。すれ違い様にポンポンと私達の頭をたたき、ピッチの外へ出た。続けて主審がジェスチャーで2人のピッチ内への入場を許可する。
勢い良く前島がピッチへ走り出し、一目散に右SBのポジションへと向かった。
私は前島と逆サイドのSB。
ピッチに入ると、まずCB2人の様子を伺う。
表情を見るに、監督にマイナスの印象を与えてしまった、という落胆の色が見てとれる。失点した動揺が残ってしまっているようだ。
「十分良いバランスを保ってる。自信持って行こう!」
手を叩きながら鼓舞する。
実力は五分。あとは……気持ちの問題だ。
「今海! ブラウンとウィルソンのホットラインに意識を傾け過ぎるな! 相手の思うつぼだぞ! お前の持ち味は臨機応変な対応力だろう!」
早口で今海に声をかける。続けて、もう一人のCBに向かって声を張る。
「岳野! 右の前島を有効に使おう! あれだけ監督の不評を買ったんだ。1回くらい見せ場を作ってあげてもいいと思わないか?」
私の言葉に岳野が苦笑を漏らした。
……よし。固さは取れたな。
CB2人に声をかけ終わると同時に、オーストラリアがスローインでボールをピッチ内に入れた。
現在ボールは私がいるサイド、つまり左サイドにある。
前半からの流れをオーストラリアが継続してくるとすれば……
「SBがオーバーラップして来たぞ! チェック!」
ベンチメンバーがピッチに向かって精一杯、大きな声を張る。
左サイド、オーストラリアのSBの選手がライン際を駆け上がり、日本ゴールへと突き進んでいた。
まだしばらくはこの展開を使って攻めてきそうだな……。
ライン際を走るオーストラリアの選手とボールホルダーを注意深く観察する。
オーストラリアは、前半から大きく2つのパターンのみを使用して攻撃していた。
ひとつは、中央から左サイドにボールを振り、オーバーラップしてきたSBがクロスを上げるパターン。今の攻撃もこれに該当する。
もう一つは、ドリブルと細かいパスを多用して中央から強引に突破するパターン。サイドから攻めあぐねた場合に、こちらのパターンへ移行するケースが何度かあった。
2つのケースには共通することがあることに、私は気付いていた。
攻撃はほとんどが中央で待つサミュエル・ブラウンからスタートする事。
そして……。
オーバーラップしてきたオーストラリアSBに縦パスが入ろうとした――その瞬間を狙い、私はパスコースに侵入。
ボールをインターセプトする事に成功する。
すぐさまボランチにボールを預け、周りの状況を確認すると――
これは……願ったりな展開じゃないか!
ノドが張り裂けんばかりの勢いで、声を絞り出す。
「上がれぇぇぇぇ! 左が薄いぞぉぉぉ!」
私の声を受け、日本は素早く全員が攻め上がる構えを見せていた。
……逆サイドの前島もオーバラップをしているようだな。
「チャンスだぞ! プレス躱せ! 前につなげ!」
ベンチから選手、コーチ陣が大声を張っている。
ボールを取られたオーストラリアは、まだボールが日本陣内にある内から、執拗にプレッシャーをかけてきた。
この試合でもよく目立つ、オーストラリアのハイプレス。センターサークル付近から始まるオーストラリアの圧倒的なプレッシャーに、ここまで日本は苦しめられていた。
練度の高いオーストラリアのプレッシングは見事の一言。
ただし、これは裏を返せば……。
私の思考を一刀両断し、ひと際大きな歓声が耳に入る。
日本がオーストラリアのプレスを抜け出した。
中盤でなんとかプレスをかいくぐっていた日本は、裏を取ったFW、清水バトゥーエスの吉川への絶妙なスルーパスを成功させていた。
比較的高い位置でのオーストラリアのプレスは、ボールを奪ったあとにすぐさま攻撃転換できるメリットがあるが、DFの裏に膨大なスペースができてしまう。このため、一歩抜け出せば大チャンスになることが多い。
「おー! 抜けた!」
ベンチから歓声が上がる。日本ベンチ側にポジショニングしている私には、ベンチの感情の機微が逐一伝わってくる心境だ。
――いけるぞ!
ボールを受け取った日本のFW吉川は、そのままドリブルでオーストラリア陣内に切り込んで行く。やや左サイド寄り。
オーストラリアのDFはきっちり中央を固めているが……
オーバーラップしたSBの戻りが遅い!
これだ!
予想通り!
前半開始当初から、オーストラリアは攻撃の際、英雄ブラウンとこのSBを多用してきた。
非常に高い攻撃力を持つ2人だが……。
攻撃参加した後の戻りが非常に遅い!
言い換えれば……この2人が攻めて来た時こそ、カウンターのチャンス!
ここで私が加勢に行ければ3対3。
チャンスだ!
決して短距離にアドバンテージがある私ではないが、全力でFW吉川の後を追う。
吉川が一旦、ドリブルのスピードを緩めた。このまま突っ込む事もできるが、オーストラリアのDFは3人。無理に突っ込むよりも味方の援護を待ったのだろう。
よし。ならば……。
スピードを緩めた吉川の左を、私は全力で駆け抜ける。オーストラリアの選手がどちらにウェイトを置こうかと判断に迷ったところを、吉川は見逃さない。
絶妙の縦パスを私によこした。
慌ててオーストラリアDFが私のマークに付いてくる。
ドリブルをしながら、横目でゴール前の状況を確認すると……。
吉川がファーサイドに流れていて……FWがひとり、吉川とクロスするようにニアサイドに走って来ている。それぞれにマークが付いているが……。
ここは……勝負すべきだ!
ゴールライン約10m手前で、一旦ドリブルのスピードを緩めた。
身体をゴールに向けた私とオーストラリアDFの視線が交錯する。
彫りの深い顔……青い目。
彼の鋭い眼光から闘志のような、あるいは決意のようなものを感じる。
そうか。
あなたにも……譲れないものが、あるんだな。
私にも……もちろん、ある。
約束してしまったんだよ。
パパ、頑張ってくる、ってな。
愛する娘と心底惚れた女に……格好良い所を見せたい。
私の信念は――ただ、それだけなんだよ!
無声の気合いとともに、大きく左足を一歩踏み出す。フェイント。オーストラリアDFは動かない。
それには構わず、強引にゴールライン際へドリブルを開始。オーストラリアDFを振り切ろうとする――が、相手も粘り強く付いてくる。
泥臭くていい。
もともと華麗なテクニック等持ち合わせていない。クロスさえ上げれば……必ず決めてくれる。
「頼んだぞぉぉぉ!」
差し出す相手の足をかいくぐり、なんとかゴール前にクロスを上げた。クロスを上げる際、味方の最終的な位置を確認する事ができなかった。ひとつの期待を込めてボールをファーサイドへと送ったが……。
吉川は、ゴール正面に位置していた。ボールには届きそうもない。
もうひとりのFWは……ニアサイド。こちらも厳しいか。
緩やかにファーサイドへ飛ぶボール。誰も触れず、誰もが諦めかけたそのボールに――前島が飛び込んで来た!
それだ、前島!
それこそお前の持ち味だ!
猛烈なスピードでボールへ走り込む、前島。
おそらく、驚異的な身体能力を持つ大峰裕貴のスピードに、日本代表で唯一勝利する事ができるのが、この前島だろう。
オーストラリアは4バックのシステムを採用していた。今回、SBが一人オーバーラップしていたため、その穴を埋めるべく、ひとつづつズラしてポジショニングしていた。
結果、尋常じゃないスピードで突っ込んできた逆サイドの前島への対応が遅れた。
私の放ったクロスボールに、ダイビングヘッドで飛び込む前島。
果たして――前島のヘッドしたボールは、オーストラリアGKの右脇をすり抜け、ゴールへと吸い込まれた。
『ワァァァァァァー!』
『ニッポン!』
ダダダンッ
『ニッポン!』
ダダダンッ
埼玉ミレニアムスタジアムが大歓声に包まれた。
「佐野さん! 佐野さん! 佐野さん!」
ゴールを決めた前島が、私のもとへ一目散に走ってきた。
正面からジャンプして飛び込んでくる前島をしっかりと抱きとめる。
「やりました! やりましたよ、俺!」
「よくやった! お前なら、必ずスペースを見つけて飛び込んでくれると信じてたぞ!」
「前島! 佐野さん! でかした! 値千金ですよ!」
「ナイス前島!」
すぐさま他のメンバー達が私達をぐしゃぐしゃに、もみくちゃにする。
ちらっとベンチに目を向けると、コーチ陣やまだ出番のない控えメンバーも喜んでくれているようだ。
ふと黒田監督のほうへ目を向けると……気のせいだろうか、監督が笑っているように見えた。
* * *
中部国際空港。
お見送りは2人。
クラブハウスや、地元名古屋の市長さんから「ぜひ盛大にお見送りをさせてくれ」と頼まれていたが、丁重にお断りをしていた。
私を見送ってくれるのは……2人いれば十分。
きれいな人がひとり。
可愛い人がひとり。
2人いれば……十分。
「マリね! おじいちゃんとか、おばあちゃんといっしょにろんどん行くの!」
「気を付けてくるんだよ」
妻と一度目線を合わせ、頷き合う。
「じゃあ、あなた。気を付けて」
「ああ。頑張ってくるよ」
「パパー! かんばれー!」
愛する娘と目線を合わせ、しっかりと手を握る。
「なに……あなた。また泣きそうなの?」
「や……やめてくれよ。そういう訳じゃ……」
「あー! パパがないてる!」
「ま、真理。頼むから大きな声ださないで……」
真理の大きな声に反応した老夫婦が、穏やかな笑顔をこちらに向けていた。
「頑張ってね。あなたにしか出来ない事が……必ずあると思うから」
「ああ。私は、私の仕事を……全力でしてくるよ」
「……あらやだ。胸キュンしちゃったわ」
「ママむねきゅん!」
真理の眩しい笑顔が私と妻を照らす。
「じゃあ、今度はロンドンで会おう」
「はい」
「パパー! いってらっ!」
私には、2人の高校生のような化け物じみた力など……ない。
立木のようなカリスマ性など……あろうはずもない。
前島のように、秀でた一芸も……持ち合わせていない。
それでも。
私には……私にしか出来ない仕事がある。
それを、見つけることができた。
今度の旅立ちに涙はいらない。
今の私は。
惚れた女の笑顔を見てやる気を出し、
愛する子供の笑顔を見て、将来に希望を持っているのだから。




