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29歳、崖っぷちJリーガーの場合 1

 惚れた女の笑顔を見てやる気を出し、

 愛する子供の寝顔を見て、将来に不安を覚える。

 

 私と同じ境遇のサッカー選手には、よくある事だそうだ。

 

 プロになって早10年。

 

 高校を卒業してすぐにこの業界へ入った私は、狭い、狭い、このボールを蹴るだけの世界しか知らない。知らなくていいと思っていた。自惚れていた。

 

 一昨年の事だったか。Jリーガーの平均引退年齢を聞いて、私は愕然とした。

 

 26歳。

 

 過酷なスポーツゆえ、選手生命が短命になるのは、ある意味致し方が無い事だ。怪我や体力の低下に泣かされ、やむなく引退をするという事を、スポーツ選手はある程度覚悟しなければならない。

 だが……この26歳という現実は、あまりに酷ではなかろうか。

 毎日厳しいトレーニングに励み、多くの選手達が将来をサッカーだけに捧げた結果が、これだ。プロ契約からわずか3年たらずで、戦力外通告からの引退を余儀なくされる者もいる。

 

 私は今年で29歳。

 

 この統計に基づけば、私はとうに引退をしていてもおかしくない選手のひとり。運良く、と言ってもよいものか。高校卒業して初めて所属した名古屋オルカユイットに私は今でも所属をさせてもらっている。だが、ここ数年はレギュラーとベンチを行ったり来たりする日々。今年レギュラーに定着できなければ、再就職先をピッチの上以外で探さなければならない、と本気で思っていた。

 

 そんな折り。私のもとへ、サッカー協会からひとつの不可思議な誘いがあったのだが……。

 

「あなた、これ、この間の練習試合じゃない?」


 洗い物を終えた妻が、リビングのソファーに座っていた私の隣に腰掛け、テレビのボリュームを1目盛りだけ上げた。恐らく、隣の部屋で寝ている4歳の娘に配慮したのだろう。

 妻に促され、薄型とも言えない、年期の入った我が家のテレビ画面に視線を移すと、約1ヶ月前の私の姿が映し出されていた。

 

『今井さん、先月行われた名瀬田なせだ大学との練習試合では、SBサイドバック佐野さの選手が特に光ってましたよねー』


 夜22時から始まる、私もよく見るスポーツ番組。キャスターを務める有名お笑い芸人の隣で、若い女性アナウンサーが液晶越しに私の名前を呼んでいた。

 

「ふふ。あなた、褒められてるわよ」


 妻の、学生時代から見蕩れた美しい横顔。柔らかい言葉。

 同僚達にとって、画面の向こうにいる女性アナウンサーは憧れの存在だそうだ。つい先日も「俺この間インタビュー受けたぜ! チョー可愛かった!」のような話を耳にした。

 異性には消極的で、恋愛事に疎い私にとっての憧れの存在は、隣に座る女性、ただ一人。

 学生時代から……今でも。

 

『ええ。良い動きでした。今週末のオーストラリアとの親善試合も佐野選手に期待したいですね』


 サッカー解説でおなじみの今井さんが、私に対してコメントしているところを初めて見た。感激の余り涙腺が緩くなってしまう。

 

「評価してくれる方は……ちゃんと見てくれているのよ」


 耐えきれず右目から涙が溢れる。妻の優しい、心をくすぐる一言によって。

 

 J1とはいえ、キャップ数(A代表戦出場数)もたったの1回、正味1軍半の私に舞い込んだ、現役生活で間違いなく最大のチャンス。

 

 OAオーバーエイジ枠でのU―23、オリンピック代表候補招集。

 

 4月末に行われた黒田監督の会見を妻とふたりで何気なく見ていた私は、あまりの衝撃に腰を抜かしかけた。何かの間違いだったのではないかと、インターネットを使って私の名前を何度も、何度も調べた。

 どうやら現実に起きた出来事のようだと認識したのは、クラブハウスからの一報が入ってからだった。

 クラブ側も青天の霹靂だったようで、「お前黒田監督に賄賂でも送ったのか」と問いつめられたりもした。もちろん面識など一度もない。

 

 それからクラブでのトレーニング、試合。その合間を縫ってU―23代表の合宿、練習試合。めまぐるしい日々を過ごした。

 もともと遠征の多いスポーツ選手という職業柄、今回の代表招集で妻に育児や家庭の負担がさらに増えてしまう事を危惧していたが、妻は笑顔で最大限のサポートをしてくれた。私もこれを現役最後に訪れたアピールの場と考え、全力で合宿、練習試合に取り組んだ。

 

『今井さん。今回のオーストラリア戦は立木選手をはじめ、大峰選手や海外リーグ所属の選手達が全く出場しませんが、これについてはいかがですか?』

『そうですね。黒田監督の心中は私にはわかりませんが……おそらく、セレクションのような意味合いがあるのかも知れません』


「あなた、セレクションってどういう意味?」


 妻がこちらに身体ごと向き直る。


「ああ。それはな……」

 

 第2回、U―23代表、沖縄合宿。

 この合宿の最終日前日、約1ヶ月後に開催されるオーストラリアとの親善試合のメンバーを突如発表し始めた黒田監督。このとき監督が私たちを前に宣言した言葉が、私の脳裏をよぎる。

 

『お前らは負け残りの戦いに選ばれた、という事だ』


 今思い出しても、心の表層にほの暗いものが浮かぶ事を止められない。

 

 合宿に参加した人数は海外組を除く、28人。

 この中でオーストラリア戦のベンチメンバーに選ばれたのは、20人。

 

 選ばれなかったのは……

 

 横浜セイラの立木、鹿島コルノーズの植田、レボーレ甲府の鈴木。

 リバルディ東京の森、青谷学院大学の中島。

 シフエ東京の伊藤、パスヴィア福岡の倉田……そして、大峰。

 

 いずれも代表合宿および練習試合で結果を残した選手達。

 

 つまり……「選ばれた20人」は現在落選濃厚。黒田監督の言葉を額面通り受け取るなら……そういう事なんだろう。

 

「その……20人の中から何人くらい残れそうなの?」

 

 沖縄合宿以前に行われた1回の合宿および3回の練習試合。

 これで44人いた代表候補は35人まで絞られた。この選手達が6月の頭にそのまま予備登録メンバーとなったが、実際にロンドンへ行けるのは、22人。この中でベンチに入れるのは、18人。

 

 おそらく海外組の7人と今回選ばれなかった8人は当確と見てよいだろう。という事は……

 

「あと……7人。実際ベンチに入る事が出来るのは、あと……3人だな」


 負け残りしたとはいえ、いずれも各チームのエース達。

 29歳の私に比べれば、フィジカルも体力も脂がのった選手達ばかり。しかも半数近くは、キャップの付いた実績十分の選手達。

 非常に熾烈な争いになる事は……間違いないだろう。

 

「あなた、自信持って。黒田監督がわざわざOA枠であなたを選んだ事には、ちゃんとした理由があると思うわ」

あかね……」

「あたしも真理まりも……パパの事応援してるわよ」

 

 リビングの隣にある和室の襖をそっと開ける。すやすやと眠る我が家の姫を見て、またしても将来への不安が頭をよぎってしまった。

 真理が蹴り飛ばしてしまったタオルケットを、妻が微笑みながらそっとかけ直す。

 ヒザ立ちのまま固まってしまった私の横に妻が寄り添う。立てば身長180cmある私と並べば、160cmもない妻の身体は容易に包む事ができてしまう。もたれかかった妻の肩をしっかりと抱き寄せる。

 

 私の大事なものを、右腕でしっかりと……抱きとめる。

 

 これが私の……紛れもない決意表明だ、と自分の心に言い聞かせながら。

 

 

* * *



 中部国際空港。

 天井が高い、広々としたエントランスを抜け、手荷物検査場の前にたどり着いたところで私たちは一旦足を止めた。

 

「パパー! いってらっ!」

「はは。行って来ます」

「あなた、テレビで応援してるわね」

 

 大型のキャリーケースを小脇にどけ、腰を屈めて娘の目線に合わせたあと、愛しい2人の家族の……手を握る。

 

 ひとつは細くて長い、奇麗な手。

 ひとつは小さくて柔らかい、暖かな……手。

 

 バックンッ。

 

 ……まただ。

 私の欲求を満たしてくれる幸せを実感するたび、私の心、その奥深くにドス黒いアイツが現れる。

 

 手を握ったまま、身じろぎしない私の表情を見て、娘の真理が首を傾げる。妻は私がどんな心境か悟ったのだろう。私の手を握ったまま、余った左手で正面から私を包み込む。

 

「……覚えてる? あたしこう見えても学生時代、バイトばかりしてたのよ。働くの大得意」

「あ……か、ね」


 自分の額と私の額をくっつけ、自信たっぷりに一言。

 あたしもあたしも! と真理が私と妻の間に割って入る。


「何が言いたいか……わかるわよね? あたしも真理もね……精一杯サッカーしているあなたが……大好きなの」

「大好きなのっ!」


 涙で滲む。

 愛しい妻と娘の笑顔が。

 

 ……いつからこんなに涙腺が緩くなってしまったんだろう。

 

 ひとしきり2人を抱きしめたあと、手荷物検査場へと足を進める。

 名残惜しく後ろを振り返ると、いつまでも手を振っている2人の姿が目に入った。

 

 私が帰る場所は……あそこなんだ。

 

 もう私に迷いはない。

 

 私が悔いを残さない事。

 それがすなわち、2人の笑顔に報いる事だと……再認識できたのだから。

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