シフエ東京戦そのあと 2
「ヒロー! 背泳ぎなんてメニューに書いてないよー」
「はーい」
激戦だったシフエ東京戦の翌日、少し曇天の午前。
アスレチックトレーナーの吉田さんに組んでもらった練習プログラムは、試合翌日いつもやっている水泳と軽い基礎練習のみ。最初は1人でプールに行こうと思っていたが、「これならあたしでも手伝えるよ! 監視役の任務もあるからねっ!」と言われれば、断る理由も特にない。結衣と2人、ばあさんの家からほど近い市民プールに来ていた。
一通りメニューをこなした俺は、平泳ぎで端まで泳ぎ、プールサイドに上がる。
「こうしてこのプールで泳いでるヒロを見てると……何か昔を思い出すよ」
「そうだな」
小学生の頃からサッカーが生活の中心だった俺だが、泳ぐ事は比較的好きなほうで、よく結衣とこのプールへ来ていた。
「ヒロ……ほっといたらずーっと潜ってたよね。本気で心配した事もあるんだから」
「はは。何回か飛び込んできたよな」
試合で上手くプレーができなかったり、プライベートで嫌な事があったりすると、足が着かない大人用のプールに飛び込んでは限界まで潜水していた。水の中は世界が違う。音が聞こえない別空間に身を委ねることで、荒れた心を落ち着かせていた。……そういえばゾーンに入っている時も似たような感覚だな。
「昔から人の気も知らないで……」
「ん? なに?」
「……しらない!」
なんだよ。
「取材は何時から?」
「んーっと……大手町で3時からだったような……」
「何時まで?」
「2、3時間って言ってたぞ」
パーカーのチャックを閉め、体を小刻みに震わせながら結衣が考え込む。
今日は太陽が隠れて日中でも肌寒い。この市民プールは室内型でしかも温水を使用しているが、建物内に暖房が効いている訳ではない。水に浸かっていない結衣のほうが体感温度は寒いだろう。
結衣は泳いでいる訳ではないので、私服のままプールサイドにいる。一般客は水着以外での入場を禁止されているようだが、事情を説明して特別に許可をもらった。
「じゃあ、あたしはその間に友達に会ってくるから……ヒロの取材が終わったあと待ち合わせしない?」
「ん? あー、どっか行きたいって言ってたな」
プールサイドからシャワールームへと歩いていく。隣を歩く結衣の足取りは軽い。
「ちょっとね。……よし。じゃあ早くレディアに行こ! みんな待ってるよ!」
「待て待て引っ張るな。……っつーかそっち出口! 俺シャワー浴びないと」
まったく。
機嫌が良い時はせっかちになるクセ……小さい頃から変わんないな。
プールを出た俺たち2人は、目的地までの道のりを並んで歩く。結衣がお友達にあげるためのお菓子を、それぞれの両手に持って。
この道は小学生の頃毎日通っていた通学路。まだ3年しか経っていない、あるいはここが変化の少ない田舎な事もあり、基本的に何にも変わっていなかった。
少し古びたタバコの自販機。
坂上さん家のよく吠える犬。
崩れたままのブロック塀で囲われた空き地。
みんな昔のまま。
どうやらノスタルジックな気分になっていたのは俺だけではなかったらしく、2人同時に空き地の前で立ち止まった。
俺と結衣の視線の先に……空き地の隅に縦置きされた、ドラム缶。
「あっ! このドラム缶まだあったんだ。懐かしいな」
長年の風雨に晒され、所々塗装が剥がれ、サビでぼろぼろになった、ドラム缶。
「……お前、ばあさんに怒られたらよくここに来てたよな」
小学生時代、泣き虫だった結衣。
嫌な事があると1人で家を飛び出し、このドラム缶の陰に隠れて……よく泣いていた。
「そうそう。そんで……ヒロが迎えに来てくれるの」
「何回迎えにいったことやら」
「ん……。だってヒロが来るまで待ってたんだもん」
「……だろうな、とは思ってたよ」
春夏秋冬。それこそ年中。暑くても、寒くても。いつもじーっと座って待っていた。……小学生の高学年くらいから俺が来るのを待ってたって……ちゃんと気づいてたよ。
だってお前……俺が行くとすぐに泣き止むんだもん。木原さんにも言われたよ。「お嬢様は私が行ってもぐずってしまうんです」ってな。
迎えに行くと俺の姿を見て、笑って、立ち上がって、俺の背中を押して……いつも決まって同じセリフ。
『帰るよ! 急げ! ご飯が冷めちゃう!』
今でもこの頃の結衣は……鮮明に俺の心の中に残っている。
「このドラム缶……このまま置いておいてくれないかなぁ。やっぱり、いつかは無くなっちゃうよね……」
「さぁ、どうだろな」
田舎だからといっても、いつまでも変わらない訳じゃない。結衣が大きくなって、泣き虫じゃなくなったように。……俺は大きくなって……何か変わったのかな。
「……じゃあ俺がもっともっと出世したら、この土地買い取ってやるよ。特別にドラム缶もそのまま残しといてやろう」
「……本気で期待するよ?」
「期待はすんな。……だいたい土地っていくらするんだよ」
「……ふふ。しらなーい! ほら、行くよ!」
「はいはい」
市民プールから歩いて5分。いろいろ懐かしい景色を眺めていると、いつの間にか目的地に着いていた。
目の前にはサッカーコートが4面。
東京にありながら、田舎立地を存分に生かし、贅沢に土地を利用した少年達の遊び場。コートの中では将来のスター候補達が汗を流していた。おおよそ200人近くがコートにいるところを見れば、このクラブが普通のクラブじゃない事は誰にでも想像できるだろう。
……懐かしいな。
結衣と2人で外から練習風景を眺めていると……。
「あー! 大峰だ!」
「おい……呼び捨てかよ……」
「「「わーっっっっ!」」」
将来のスター候補達が大事な練習を投げ出し、一斉に群がってきた。
「昨日の試合見たぜ! まぁまぁだったな!」
「大峰のルーレットなんか、俺でも余裕でできるし!」
……そしてありがたいお言葉の数々を頂戴する。
「こら! 大峰『さん』でしょ! 行儀がなってないぞ!」
「「「はーいっ!」」」
すかさず、横から結衣が釘を刺す。なぜか結衣の言葉には素直に従う少年達。……そうか。君たちはプロのサッカー選手よりも奇麗なお姉さんのほうがいいんだね。
「よー! 大峰! また背伸びたか?」
快活に笑い、少しまんまるとしたお腹を揺らしながら、1人の男性が近づいてきた。
「ご無沙汰してます。安達監督」
「はっはっは。俺はもうお前の監督じゃないよ」
レディアFCの安達監督。
おおよそ3年前まで俺がお世話になったサッカーチームの総大将。おれがサッカーを始めるキッカケを作ってくれた恩人。
「また人数増えました? なんか大所帯になりましたね」
「それはもう……5年くらい前から入会希望が殺到してるよ。誰かさんがベルギーで大暴れしたせいでな」
「ははは。懐かしいですね」
このレディアFCはJリーグクラブのジュニアユースではない、いわゆる街クラブとしては尋常じゃない実績を残し続けている。
5年前、俺が小学5年生の時には、ベルギーで開催された世界大会で準優勝する快挙を成し遂げていた。おそらくこれが俺の人生をサッカー漬けにするキッカケになったんだろう。
パスヴィアにその籍を移したあとも、風の噂でレディアの快進撃は耳にしていた。
「安達監督。お久しぶりです」
「……おー!? 結衣ちゃん? 大人になったなー」
「中身は何にも変わってないですけどねー」
「結衣ちゃんは変わらなくていいよ。昔からいい子だったからね」
「もう……褒めてもなにもでませんよ?」
「はっはっは」
結衣と安達監督が話している間、俺は少年達に揉みくちゃにされていた。
やれ、「お前試合中勝手に動き過ぎだよなー」とか、「三上がいるからパスヴィアは成り立ってるんだよ」とか。なまじサッカー知識を持っている少年達の言葉は、案外無視できない深さで俺の心に刺さる。可愛くねぇな、おい。
背中や足にしがみつく少年達を引きずりながら、安達監督のもとへ歩く。
「監督、忘れないうちに。これお土産」
「おー! 『博多通れんもん』! やっぱりこれが一番おいしいよな!」
「「「お菓子ー!?」」」
監督が手に持ったお菓子の箱が、一瞬にして包装紙だけに変わる。30個入り、一口サイズのお菓子など、少年達の手にかかればおやつにもならんだろう。「もうないのー?」とか「お前プロだろ? 1箱だけなんてけちくさいんだよ」とまで言われれば、もっと買ってくるべきだったと後悔くらいはする。ムカつくけど。
「だったらこっちもあげるよ。あたしいっぱい買って来ちゃったから」
「いいのか? 全部友達に配るヤツだろ?」
「いいよいいよ。これよりおいしい物をヒロにおごってもらうから」
「はいはい……わかったよ」
「「「食べていいのー?」」」
「はい。どうぞ」
「「「わぁーいっ」」」
なぜか去年水族館で見たサメの餌やりタイムを思い出してしまった。
なんとか1つだけ『博多通れんもん』を確保した安達監督とグラウンド横のベンチに腰掛ける。
「西川は元気か? 相変わらず無愛想かな」
「元気ですよ。基本無愛想なんですけど……昨日のハーフタイムの時間に初めて笑っているとこ見ました」
「はっはっは。苦戦していたのが楽しかったんだろう」
「よくわかりますね。中田コーチも同じ事言ってました」
「そりゃわかるよ。高校からずっとつき合ってるんだから」
安達監督は、パスヴィアの西川監督と学生時代からの付き合いらしい。このような縁もあって、俺は中学入学と同時にパスヴィアのセレクションを受ける事になった。そして……。
「お前の父ちゃんの事もな」
「…………」
「ヒロー! そろそろ出ないと遅れるよー!」
少年達に囲まれた結衣がブンブンと手を振っていた。
「……安達監督、また今度寄らせてもらいます」
「いつでもおいで。今度はゆっくり、ね?」
「……はい」
少年達の見送りを背に、俺はグラウンドをあとにした。




