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それぞれの専門家 2

 こちらに寄って来たのは、タイムリー新聞の片平さん。いつもラフなジーンズ姿が多い片平さんが、今日は珍しくかっちりしたグレーのパンツスーツに身を包んでいた。

 

「こんちは」

「んもう! いつもテンション低いね」


 この人のテンションはいつも高い。

 隣の黒髪を後ろに流したイケメンさんには……見覚えがないな。

 

「心配しなくても彼氏じゃないから! もう、可愛いわね」

「はじめまして。大峰です」


 とりあえずイケメンさんに頭を下げる。


「シカト!?」


 ようやく片平さんの扱いに慣れてきた。

 

「初めまして。斉藤さいとうと申します。フリーのメンタルトレーナーです。一度大峰君とお話ししたいと思っていたんですよ」

「メンタルトレーナーさん。あぁ、さっき吉田さんが言ってた……」


 サッカーに限らず、凄腕のトレーナーさんがフリーで活動していることは往々にして目にする。

 そういったトレーナーさんは特定のクラブに張り付かず、個々人とそれぞれ契約をしたり、セミナーを行ったりしているそうだ。

 

「専門分野は心理学です。主な研究対象は、『Flow』」

「フロー?」

「スポーツ界では『ゾーン』、とも言われますね」


 はぁ。なるほど。

 

「大峰君はゾーンによく入る選手だと聞いたもので」

「……さぁ、どうなんですかね」


 とりあえずトボケてみた。

 

「大峰。隠さなくていいぞ。ギブアンドテイクだ」


 後ろから西川監督が声をかけてくる。

 近づいて来ていたことに全然気づかなかった。さすが。

 西川監督は現役時代、倉田さんと似たようなプレースタイル――裏を取るのが得意プレーの一つ――だったらしい。日常の何気ない動作でこんな事を考えてしまうのも、職業病の一つなんだろうか。

 

「斉藤さんはメンタルトレーナーとして野球界で有名な方でな。福岡ウグイスのコーチさんから紹介してもらったんだ。セミナーも大好評の多忙な方だ」

「……なるほど。ゾーンの話をする代わりに、価値あるお話を聞かせてもらおう、と」


 俺の抵抗に西川監督が露骨に顔をしかめた。


「……可愛げの無い言い方だな。そもそも感覚的なものなんだから、体験談を聞かせても問題はないだろう」


 確かに問題は無いのかもしれない。

 ただ……直感が注意喚起を俺の脳に伝えてくる。当たり前だが、先程片平さんのときに感じた直感とは別物。なんというか……ピッチの上で相手選手に感じるものに近い。

 

「大峰君の体験談はまだ誰も聞いていない貴重なものですから、見返りに私が知っていることは全て話しますよ。普段はセミナーでしか話さないようなこともね」

「……でも」


 プロのメンタルトレーナーさんから得られる情報は、確かに魅力がある。だけど……。

 

「……大峰」


 西川監督に声を掛けられて、気付く。どうやら斉藤さんをジロッと睨んでしまっていたらしい。


「じゃあ斉藤さん、よろしくお願いします。私は事務所の方に戻ってますので」


 そう言って監督はきびすを返した。

 

「監督! あたしも聞いていいですか?」

「……記事にするなら原稿のチェックはさせていただきますよ」

「やった!」


 キラキラ輝く笑顔で片平さんがガッツポーズしている。監督が苦笑いしているところを見ると、監督もあの笑顔を見ると断りづらいのだろう。

 

「それでは大峰君。場所を変えましょうか。どこか会議室のような場所をお借りして……」

「そこのロビーでいいですよ。聞かれて問題のある話ではないんでしょ? お互い」

「……思ったとおりの方のようですね」


 せめてもの抵抗を見せてみる。

 少しだけ……斉藤さんの眼光が鋭くなった。

 

「おー。『できる男』同士の熱い火花。大好物だわ」

「「…………」」


 片平さんの一言に、少しだけ斉藤さんの眼光が鈍った。

 

 

* * *

 


 築数年しか立っていない、パスヴィアの真新しいクラブハウス。

 入り口から受付、ロビーに至るまで、全ての外壁が薄いオレンジに色づけされたガラス張りで構成されており、なんともオシャレな作りになっている。ちょうど今日のような晴れた日には、無機質な蛍光灯の光に代わり、ガラスから差し込む太陽光が柔らかい照明となってくれる。

 窓際のソファからはグラウンドを通して海を眺めることもできるため、この場所はよくお客さんを招いて商談なんかに使われているらしい。

 

 ロングソファ2つとローテーブルが1セットになった一角に足を運ぶ。

 テーブルを挟んだ向かいに斉藤さん。俺の右隣に片平さん。

 

 ……気のせいだろうか。片平さんのポジションが若干……どころか、かなり俺に近いような気が。

 ちょっと俺が足を開けばヒザがぶつかる距離。おまけに茶色のセミロングから放たれるシャンプーの香りと甘いほのかな香水の香りが俺の鼻腔を刺激する。

 なにを狙ってるんだこの人。

 

 ……いかん、いかん。考えても無駄。

 多分この人は……何も考えていない。

 

「えーっと……まず、あたしからいい?」

「どうぞ」


 片平さんが勢いよく手を挙げて斉藤さんに質問する。

 

「そもそも、ゾーンっていうのは何なの?」

「そうですね。最初に概要から説明しましょうか。ちなみに片平さんはゾーンについて知っていることはありますか?」

「あれでしょ? 野球選手が『ボールが止まって見えた』とか言ってる、あれ」


 俺もそういった体験談があるということは聞いたことがある。

 あとはテニスボールがスイカくらいの大きさに見えた、とか。

 

「ええ。それがいわゆる『ゾーンに入った状態』での体験談という解釈で間違いないです。付け加えるならスポーツしている時だけ『ゾーンに入る』わけでは無い、ということですね」

「うん? どういうこと?」


 あごに手をやり、小首を傾げる片平さん。

 ……待って。左に傾かれるとさらに距離が縮まっちゃうから。

 

「もっと色々な場面で起こり得るってことですよ。ほら、交通事故なんかで激突の瞬間がスローモーションに見えた、なんて話があるじゃないですか。あれも広義の意味でゾーンに入った状態です」

「……武士の真剣白羽取りは?」

「あれもゾーンに入ればこそ成せる技だ、と言う人はいます。私は否定派ですが。……ちょうど大峰君の場合と似てますね」

「はい?」


 ここで俺の名前が出てくるとは思わなかったので、素っ頓狂な声を出してしまった。

 

「この話は概要をあらかた説明したあとにしましょう。日常生活で言えば、ビジネスシーンでゾーンに似た概念を使って業務を効率化しよう、なんて話も一般的です」

「へぇー。あたしでもゾーンに入れるのかな?」

「訓練次第で誰にでも入れると言われていますし、実際はゾーンに入っているがそれに気づいていないだけ、という場合もあります」

「ふーん。結局ゾーンって集中している状態、ってことでいいの?」


 今度は腕を組んで上を向き、アヒル口を作る片平さん。とっても表情豊か。素敵です。そしてさっきから肩が触れてます。俺、どんどん逆側に重心が傾いてます。

 

「一言で表すなら、『目標を達成するために理想的な心理状態』が的確だと思います」

「ふむふむ……どうしたらゾーンに入れるの?」

「一つ例えを出しましょうか。大峰君」

「……はい」


 ついに片平さんは背中で俺の肩にもたれかかってきやがった。されるがままの俺。


「先程、大峰君の場合と似ている現象の話が出ましたが、何と似ていると言ったか覚えていますか?」

「え? あーっと、えー……なんだっけ?」

「えー? さっき話してたことじゃん! 真剣白羽取り!」


 「とりゃ!」と言いながら両手でパンッ! と、ものすごい音を出している片平さん。受付のお姉さんがびっくりしているのは見なかったことにしよう。

 

「ついさっきのことなのに、なぜ大峰君は覚えてなかったのでしょうか?」

「えーと……なんでっすかね」

「集中していなかったから」


 ズバッと斉藤さんに言い切られた。

 まぁ、でも……その通りだと思います。

 

「おそらく先程から片平さんのスキンシップが気になってしょうがなかったんでしょう。対する片平さんはそれを無意識にしていた」

「あたしを意識してたの!? 可愛いわね、もう!」

「…………」


 バンバン俺の背中を叩いてくる片平さん。


「この場合、あなた方の『目標』は私から『ゾーン』について聞き出すこと。一見集中していない様に振る舞っている片平さんですが、実は『目標』に大半の意識を向けることが出来ていたわけですね。ゾーンもこれと似たようなものです」


 例えはものすごくわかりやすかった。でも……なんかムカつく。

 

「今度はサッカーのFKで例えましょう。大峰君、FKで直接ゴールを狙う際の一連の流れを説明して頂けますか」 

「……風向きを確認して、壁の位置とGKの位置を確認して……それまでのデータから壁とGKがどう動くかを予測して、シュートコースと球種を決める。あとは……蹴るだけっすかね」


 感覚でやっているものを説明しろ、と言われると難しいものだな。

 

「人によって若干変わるかもしれませんが、大峰君の手法は一般的な流れだと思います。この場合、思考が必要なのは『シュートコースと球種を決める』ところまで、というのはわかりますか?」

「……はぁ。なるほど」

「え? なに? わからないんだけど」


 一人だけついて来れていない片平さんがあたふたしている。

 

 ……そういうことか。

 考えてみれば単純だな。なんで今まで気づかなかったんだろう。

 

「つまり、シュートコースと球種を決定した時点で『目標』がはっきり定まる。あとは『目標』のことだけに集中していればゾーンに入る、ってことっすか」

「その通りです。『目標』が定まればそのあと考える能力は必要ない。加えて聴覚など体のセンサーから伝わる情報にも必要ないものが出てきます。極限まで理想的な状態に持っていける選手は、こういう無駄を遮断してプレーすることができる。これが『ゾーンに入った』状態です」


 なるほど……観客の歓声が聞こえなくなるのもこういう理屈があったのか。


「じゃあつまり……イメージが重要ってこと?」

「片平さんのおっしゃる通りです。ここで言う『目標を定める』とは、つまり『イメージを固める』と同義ですから」


 振り返ってみれば、確かにその通りだと思う。

 

 俺がゾーンに入ったと感じるのはプレーイメージが固まってから。

 味方選手と相手選手の位置を確認して。

 そこから考えられる展開を予測して。

 自分がどう動けば良いかイメージを固めて、行動する。

 

 ……そうか。

 ボランチにコンバートしてからの方が攻撃がうまくいっていると思っていたのは、戦況をじっくり観察できる場所にいるからなのかな。

 俺のゾーンはボールを持ってからスタートすることが多い。FWの場合はいくら理想的な展開をイメージできていたとしても、その通りにゲームが動くとは限らない。なにせ最前線にいることが圧倒的に多い。ボールに絡めるのは最後の1プレーのみ、というシチュエーションも少なくない。最適な動きをしてもボールが来ない可能性がある。

 一方ボランチの場合は中盤で攻撃の起点になる場合が多いので、ボールに触る頻度も多い。従ってイメージさえ固まれば、あとはゾーンに入って自動的に体を動かすだけ。……理屈は通るな。

 

「じゃあゾーンに入ったとき、自動的に体が動く感覚になるのは……」

「おそらく練習で何千回、何万回と繰り返した動作を体が覚えているからでしょう。ゾーンは誰にでも入れると言いましたが、入りやすさに個人差があります。超一流の選手やある種の達人に体験談が多いのはしっかりとした土台があるから、と私は考えています」

 

 俺がゾーンの話を他人にしたのは、西川監督と中田コーチ、あと三上さんだけ。それもここ1ヶ月くらいの話。他人とゾーンについて議論した経験はほとんど無い。

 俺がここ数年あーでもない、こーでもないと悩んでいたことが、ものの数分で片付いてしまった。

 

 専門家のメンタルトレーナー、斉藤さん。なんかすげぇな。

 ……こっちをドヤ顔で見てるのが微妙にイラッと来るけど。

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