それぞれの専門家 1
福岡のクラブハウスへ帰ってきた俺は、そのままパスヴィアの寮に泊めてもらうことにした。というのも明日、つまり日曜日は1部練があるので、朝早くにクラブハウスへ行く必要がある。現在時刻はいつもの2部練が終わる時間と大差ないのだが、試合でハッスルしたからもうクタクタ。
とにかく早く飯食って寝たい。
こういう時はクラブのご厚意に甘えさせてもらおう、と勝手に決めてクラブ寮のほうへテクテク歩いて行く。ちなみにクラブからは「いつ使ってもいい」と言われているので、別に悪いことをしているわけではない。念のため自分の心に言い聞かせる。
「大峰ちゃん、おめでと! テレビで応援しよったよ!」
「田中さん、ありがと。もうヘロヘロっすよ」
クラブ寮のエントランス前でお出迎えを受ける。
両手をブンブン振って握手してくるおばちゃん、パスヴィア寮の寮母さん。パスヴィア生え抜きの選手たちはほとんど彼女のご飯で育ったと言っても過言ではないだろう。まさにパスヴィアの母ちゃん。
「あんなにこまかった(小さかった)大峰ちゃんが、こげん大きくなってしまって……おばちゃん感無量よ」
「はは……言ってもまだ3年くらいの付き合いじゃないっすか。そんなに変わってないっすよ」
相変わらず握った手をブンブン振っている田中さん。
「ひもじかろ(お腹空いたでしょ)? ご飯出来とうけん」
「お腹空いたっす」
「大峰ちゃんの大好きなトマトいっぱい使ったけんね」
「えー! 大嫌いっすよー」
田中さんは何が面白いのか、ケラケラ笑いながらエントランスを進んでいった。
あっ。
忘れてた。
家に電話してないや。
田中さんに続いて進めていた足を一旦止める。
エレベーターに乗ってハテナ顔を作っている田中さんへ「先に行って下さい」と伝えてから、携帯をカバンの中から取り出す。
アドレス帳を開き、自宅の電話番号に手を滑らせ、発信マークを押そうとしたところで……少し考える。
もしかしたら誰もいない可能性があるか……。
画面を一つ戻して今度は結衣の携帯番号を探す。
プルルルル、プルルルル……ガチャッ
『はーい』
「おー。夜遅くにごめんな」
『っていうかおめでと! 試合テレビで見てたよ!』
結衣の明るい声が俺の鼓膜をくすぐる。携帯越しで相手に顔が見えるわけじゃないのに、自然と笑みが溢れた。
「ありがと。もうクタクタ」
『ふふ……。おつかれ。今日はクラブ寮に泊まるの?』
「あーそうそう。それが言いたくて電話したんだよ」
『わかった。春菜おばさんにも伝えとくね』
「おう。よろしく。じゃあまた明日な」
『あっ! 待って!』
電話を耳から話そうとしたその瞬間、電話口からひと際大きな声が届く。
「どした?」
『……明日、夜空けててね。……話が、あるから』
「ん? ……あぁ。……わかった」
ツーッッッ、ツーッッッ、ツーッッッ……
……え? なに?
突然のことに思考がついていかない俺は、携帯片手にエントランスで棒立ちしてしまう。なんかデジャヴ。俺の横をいぶかしげな表情をした倉田さんが通ったことに気づいたのは、随分時間が経ってからだった。
* * *
翌日、日曜日の朝。
試合の翌日は休みになると思われがちだが、サッカーに限らずスポーツ選手は軽い運動を行うことが多い。
疲労を早く抜くため、という意味合いがあると以前教えてもらっていた。
メニューはジョギングや軽い練習、プールで体を動かす、などなど。パスヴィアの場合はウォームアップの場合と同じく、トレーナーと相談して練習内容を決める。俺の場合はプールでのストレッチと軽い水泳を選択している。
最近はもっぱら水面にプカプカ浮かび、試合で溜まった疲労を抜くことが何よりの楽しみになっている。ちなみに競泳施設を完備した市民プールへ歩いて行けることも、プールトレーニングを選択した理由の1つ。さすが福岡のスポーツ特区。
「大峰ぇー! 浮かんでばっかいないでちょっと泳げ」
「はーい」
プールサイドにいる、アスレチックトレーナーの吉田さんから野太い声が掛かる。本来俺に専属というわけではなく、クラブハウスにいる選手全員のプログラムを管理する超多忙な人なんだけど……。
「ったく。目ぇ離したらすぐサボりやがる」
……どうやら俺の監視に来たらしい。
「さぼってないですよー」
「こら。背泳ぎじゃなくてクロールしろ。少しは体動かさないと意味ないだろうが」
このあと、吉田さんとやーやー言いながら、小1時間ほどプールでのんびり体を動かした。
* * *
「大峰、最近フィジカルチェック受けたっけ?」
ぽかぽかした日差しが気持ちよい、春の昼下がり。
薄手のジャージ1枚羽織るだけでちょうどいい気温。
海から流れてくる若干湿った空気がうっとうしいが、全体としてお昼寝にちょうど良い気候。
プールから歩いて帰っている途中、吉田さんからの質問。
「えーっと、前回は確か2月ぐらいだったような……」
フィジカルチェックというのは言わば身体測定のようなもので、身長体重の他にも柔軟性や持久力などをチェックする。
パスヴィアお抱えのドクターが懇意にする研究室に出向き、学生さん達に測定をしてもらう。
「まだ2ヶ月ちょいか……。いやな、ちょっとお前のプログラムを組むのに悩んでいるんだよ」
「……というと?」
「お前まだまだ身長伸びてるだろ? パワー系のフィジカルトレーニングをどうするかな、と」
なるほど。
先日の試合でもパワーの無さをまざまざと痛感させられた。
パワーがあるにこしたことはないんだけど、その分スピードが落ちてしまうとすれば……難しい。
「ただなぁ……。お前の体格、難しいんだよ。パスヴィアでも随一で意味不明だよ」
「……あれ? なんか傷ついたんすけど」
意味不明って。もう少しオブラートに包んでほしい。
「今度その道の有名人がやる講演会に行ってくるから、その時に相談してくるわ」
「吉田さんでもわからないことあるんですか?」
この言葉には少しびっくりした。
吉田さんにトレーニングとか疲労の抜き方とか体に関する質問をすると、いつも間髪入れずに回答が返ってくる。「びっくりした」というのは心からの率直な感想。
「あるある。専門分野以外はチンプンカンプンなものばっかだよ。専門分野に関しても日進月歩だから、タイムリーに話題を追いかけてないと時代遅れになりかねないしな」
「へぇー。そんなもんなんすね」
「例えばな……俺は学生のころ「静的ストレッチと怪我の因果関係について」を主に研究していたんだが」
「……はぁ」
……大丈夫かな? この話、俺ついていける?
おそらく不安な気持ちが顔に出てしまっていたんだろう。吉田さんが俺の顔を見て苦笑する。
「そんなに難しい話じゃない。お前も昔から体験していることだ」
「高……いや、中学生でもわかるようにお願いします」
あえて「高校生」と言わなかった理由は吉田さんも察してくれたはずだ。
「お前は小学生のころからサッカークラブで練習やってたんだろ?」
「はい。小2からですね」
「そのクラブで練習する前には、やっぱりウォームアップやっただろ?」
「当然やってましたよ」
小学生の頃は東京の老舗クラブチームに所属していた。結構な大所帯でコーチの人数も多く、組織はかなりしっかりしていたと思う。
確かに、怪我をしないようにと念入りにストレッチなんかをさせられたな。
「今お前がパスヴィアでやってるウォームアップと大きく何が違う?」
「違い? えーっと……。なんだろ」
肩にぶら下げたスポーツバッグを背負い直しながら、必死に記憶を辿る。……と言っても、今やっているメニューとほとんど違いはないと思うけど……。
「今はどんなメニューをやらしてるっけ?」
「日によって変わりますけど……ジョギングとかブラジル体操とかストレッチとか……」
今やサッカーだけでなく、様々なスポーツに取り入れられているブラジル体操。ランニングやステップを踏みながら太ももを上げたり、手を上げたり、足を上げてつま先をタッチしたり。
日本代表も試合前のウォームアップに取り入れているぐらいのメジャーな体操。
そう言えば……昔々、小学生のころ。
結衣がブラジル体操をしている団体さんを見て「あの人達集団で踊ってる!」と口走ったのを思い出してしまった。
「そうだな。じゃあそれぞれの時間配分は?」
「時間はジョグとブラジル体操がほとんどですよね」
「うん。じゃあ小学生のころは?」
「……あっ。ストレッチの時間長かったですね」
あんまり詳しくは思い出せないけど、おそらく30分近くやってたような気がする
「そう。ストレッチを短く、ブラジル体操のように体を動かす体操を長く。これが現代ウォームアップのトレンド。じっと動かず体の腱を伸ばすことを静的ストレッチって言うんだが、これを長い時間やっても怪我や筋肉痛の防止に繋がらない、という論文がここ10年くらいでいっぱい出ててな。俺が研究してた時も、やっぱりそんな感じの実験結果が出たんだよ。いろいろな見方があるから、これが正しいとも一概には言えないんだが」
「へぇー。そうなんですか」
「わかったか? 専門分野でもこんな感じ。専門外なんて日々勉強だよ」
トレーナーさん達も大変なんだな。
なにも考えずにメニューをこなしていた自分が恥ずかしい。
次からはちゃんとクロールもします。
「という訳で、お前のメニュー更新はちょっと待っててくれ。専門家とじっくり相談してくるから」
「はい。よろしくお願いします」
話し込んでいて気づかなかったが、もうクラブハウスのゲートまで歩いて来ていた。
……おや? なんか見覚えのある方がクラブハウス前にいるような……。
「そういや話は変わるが、今日はメンタルの専門家さんがパスヴィアに来るらしいぞ」
「メンタル?」
「心理学とかそんなとこじゃないのか? じゃあ俺はグラウンドに寄って行くから。お疲れ」
「お疲れ様です」
クラブハウスのゲートをくぐったところで吉田さんと別れた。
一方、クラブハウス前にいた人は手をブンブン振りながらこっちに走って来た。
「あぁ! ラッキー! 大峰君じゃん!」
……あぁ。なぜだろう。俺の直感が黄色信号を脊髄に向けて発している。