お迎えは死の間際に
時は冬。
夕日もすっかり地平線の彼方へと沈み、建ち並ぶビルの隙間をヒュウと通り抜ける風と共に静かに雪が降り積もっていく。
そんな身を切るような寒さにも負けず、幾色にも輝くイルミネーションの下を幸せそうに笑う人々が行き交っていた。
「こんばんは、お姉さん。1人?」
駅の傍らに鎮座している芸術的なモニュメント。そのすぐ横にあるベンチにドカリと腰を下ろした茶髪の男は、隣りに座る20代半ばと思わしき女性へ無遠慮に話しかけた。
女性は男の方を見る事無く、毅然とした態度で言う。
「いいえ、人を待っていますから」
「またまたそんな事言っちゃって、もう何時間もここにいるじゃん。
このままじゃ凍死しちゃうよ?
俺と一緒にどっかで温かいお茶でも飲まない?」
男の提案に、女性は薄く眉間に皺を寄せ苛立ちを露わにした。
それから、睨むように視線をやってスッパリと言い放つ。
「お断りします。私の事は放っておいて下さい」
女性よりあからさまな拒否を受けた男は、どうしてか悩ましげに眉尻を下げて小さく息を吐いた。
「それが、そうもいかないんだよねぇ」
「なん…………っ!?」
瞬間、世界が灰色に染まった。
女性は驚愕に目を見開き、辺りを見回して額からひとすじの汗を垂らす。
「なっ……に……これ……っ」
常識を大幅に超える範疇の出来事を前にして、上手く舌が回らない。
2人を除く誰もかれも……いや、何もかもがその一切の動きを止めていた。
先程までの雑多な喧騒が嘘のように、今は静寂が町を包んでいる。
「俺は、この界隈担当の死神310341号。
さっきも言ったけど……君、もうすぐ凍死するよ」
「死……神……?」
男の言葉がにわかには信じられず、女性は怪訝な表情を見せた。
だが、周囲の異常な現象を思い出し、今度は信じたくない思いで眉間に皺を寄せる。
「……私、まだ生きているんですよね?」
「あぁ、まだ死んでないよ。まだね。
とりあえず今、現実世界の君は意識を失っている状態だ。
で、このまま後1時間も経たない内に死ぬ予定になってる」
男の口から淡々と告げられる言葉に、女性は動揺を隠せない。
若い身空で唐突に超常の存在から死を予言され、それを怖れないという者はあまりいないだろう。
彼女は泣きそうに顔を歪め、ブルブルと全身を震わせながら男に向かい声を荒げた。
「わ、たしっ……まだ死にたくないっ。
なんとか、何とかならないんですか!?」
詰め寄る女性に何の感情も浮かばぬ虚無の視線を返して、男は勿体ぶるようにゆっくりと足を組みながら片腕をベンチの背もたれに乗せた。
そして、ほんの数秒だけ瞳を閉じ呆れた様にため息を吐いて、半目に彼女を映しこう告げる。
「でも、君はさっき俺の誘いを断ったじゃないか。
アレが1番、何の問題も無く死を回避する方法だったのに。
ま、もう遅いわけだけど」
「そんな……ッ! そんなの!」
理不尽だ、と続けようとして言葉に詰まる。
いつの間にか男がその役職に相応しい漆黒のローブと巨大な鎌を身に着けており、いかにも人ならざる者といった白い瘴気を纏っていたのだ。その姿を目の当たりにして、女性は急速に理解する。
彼が文字通りの死神だと言うのなら、そもそも最初にチャンスを与えられた事自体すでに奇跡にも等しかったのだ、と。
けれど、彼女はそれを知ってなお諦めずにはいられなかった。
「じゃあ、せめて最後に一目で良いから恋人に会……いいえ、見るだけでいい。
今、彼がどこで何をしているのか、一目だけでも見ることは叶わないでしょうか。
お願いします」
彼女がそう言って勢いよく頭を下げると、男はきょんと首を傾げつつ問いかけてくる。
「その恋人って、君の死ぬ原因になった待ち合わせの相手?」
「…………はい」
女性はしばしの沈黙の後、痛みを堪える様な表情で手を強く握り込み、小さく頷いて肯定する。
そのまま数秒間俯いていた彼女は、今度はキッと力強い眼差しを男に向け口を開いた。
「私は知りたいんです。
彼がなぜ約束の時間に現れなかったのか。
呆れるほど律儀な性格の彼が、どうして今回に限って連絡ひとつくれなかったのか」
「ふうん……。
まぁ、見るだけというのなら、俺はその願いを叶えてやるにやぶさかではないよ」
「本当ですか!?」
「うん。だから、とりあえず座って」
驚きと喜びに思わずガタンとベンチから立ち上がった女性を再び座らせ、男はどこからか取り出した直径4センチほどの赤いコンパスを彼女の手中に落とした。
同時にわざとらしい日本語英語でこう告げる。
「ぷれぜんと・ふぉー・ゆー」
「……これは?」
「持ち主に対し、一定以上の恋情を抱く者が居る方角を指し示す特殊なコンパス。
君の言う恋人とやらが本当に君の事を愛しているのなら、そのコンパスは間違いなく君を彼の元へと導いてくれるだろう。
だけど、彼が君を本当には愛していなかったのなら、針の指し示す方角は出鱈目だ。
君は幽鬼となって永遠に現世と常世の狭間を彷徨い続ける事になる」
話の内容を理解した彼女は、ごくりと喉を鳴らし手の平の中のコンパスを恐ろしげに見つめた。
沈黙を続ける女性へと、少々愉快そうに口の端を歪めながら男は問う。
「さて……。
それでも、君はそのコンパスを使うかい?」
彼女はどうしようもなく迷っていた。
一目だけでもという想いに嘘は無いが、彼女には恋人に愛されている自信が無かった。
大学時代に知り合った彼とは、もう5年の付き合いになる。
彼女の愛はけして醒めてはいないが、当の相手とは半年ほど前から疎遠になっていた。
距離を取り始めたのは、もちろん彼の方からだ。
それまでは毎週末彼の家に宿泊し順調に逢瀬を重ねていたのに、段々と仕事を理由に断られる様になった。
彼女も始めはその言葉を素直に信じ、忙しい彼の身を案じていた。
だが、今から2ヶ月前のとある日。彼女はついに見てしまう。
いつものように仕事だからと自分と会う事を断ったはずの彼が、とてもそうとは思えぬ私服姿で見知らぬ女と笑顔で腕を組み町を歩いているところを……。
家族などという可能性は無い。彼女は彼のそれを完全に把握している。
思わず携帯を取り出しその場で電話を掛けるも、ディスプレイを確認した彼は顔を顰めてその着信を無視した。
その後、彼は女性と一緒にジュエリーショップへと消える。
それは、彼女にとって卒倒したくなるほどの大きなショックだった。
たまに会う際の彼の態度が以前と全く変わっていなかったので、油断していたのだ。
……浮気なのだろうか。それとも、心変わりなのだろうか。
逢瀬の回数から推測すれば、後者のように思えた。
それでも追及する事も別れを切り出す事も出来なかったのは、彼女が彼を愛し過ぎていたせいだろう。
だからこそ、彼女は今日という日にデートの約束をしてくれた事をとても嬉しく思っていたのだ。
それこそ、待ち合わせの午前11時前から完全に日の暮れた現在の時刻まで、しんしんと雪降る中をただひたすら待ち続けるほどに……。
「私、このコンパスを使います」
ようやく意を決して発された言葉に、男は少しばかり目を大きくさせる。
「へーぇ、使うんだ。随分と自信が無さそうなのに。
大人しくここで死んでおけば、来世とはいかなくとも遠いいつかにまた彼と一緒になれるかもしれないよ?
本当にいいの?
生きる事も死ぬ事もできずに永遠という時の中をたったひとり存在する辛さは、ちゃんと想像できてる?」
「っゆ、らぐような事を、言わないで下さい」
無意識に拳を強く握り、中の赤いコンパスがギシリと悲鳴を上げた。
それに気がついて、彼女は慌てて手を開く。
もう決めたのだ。
死んでしまうのなら、なおさら彼の姿をこの目に焼き付けておきたいと。
負けて後悔する確率の方がとんでもなく高い、明らかに分の悪い賭けであることを承知の上で。
それでも、どうしても彼に会いたい一心で彼女は己の魂をベットした。
愛しているのだ。浮気をされていたとしても、嘘を吐かれていたとしても、裏切られていたとしても、なお一片も嫌いになれないくらい、どうしようもなく彼を愛してしまっているのだ。
すると、今までうんともすんとも言わなかったコンパスの緑色の針が急にギュルギュルと激しく回転し出した。
「えっ! なっ!?」
突然の事に驚き反射的に腕を引いたせいで、コンパスが彼女の手から離れてしまう。
ポスリと雪積もる地面に落ちたソレを、男がゆっくりと腰を屈め拾い上げた。
そして、後方に引かれていた彼女の腕を掴み強制的に前へと持って来ると、開かせた手の平にコンパスを置きしっかりと握り直させる。
「もう後戻りは出来ないってことだよ」
困惑する女性の両腕を持ちベンチから立たせると、男は彼女の背をポンと叩いて言った。
「さぁ、行くんだ。
こいつはすでに君が進むべき方角を示している。
サービスで結果が決まるまでは身体の時を止めておいてあげるから、じっくり探すといいさ」
その後、男は霞のように空気に溶けて消えた。
しばらく呆然としていたのち、ようやくコンパスに目を落とした女性は灰色に染まった世界の中を1人歩き出す。
心の奥底で渦巻く不安を誤魔化すように、彼女は『私は彼に愛されている』と胸の内で幾度も幾度も反芻していた。
自分以外に動くモノの無い孤独な世界の中を、コンパスの針の傾くまま右へ左へと彷徨う女性。
5分と経たぬ内に焦燥感に煽られるまま駆け足になってしまう彼女だったが、不思議とどれだけ走り続けても身体が疲労を訴える事は無かった。
それから女性の体感で2時間ほども経った頃、ある事に気が付きピタリと足を止める。
この針の示す先は、おそらく彼の自宅だ。
普段の移動手段が車や電車であるために、彼女はここまでそれを知る事が出来ずにいたのだった。
だが、目指すべき場所を認識した途端に周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
そして、次の瞬間にはただ灰色が広がるだけの何もない空間が世界を支配していた。
その事実に彼女は愕然とした思いでこう呟く。
「…………ウ……ソ」
ここは死神の言っていた現世と常世の狭間なのだろうか?
今までの道のりはすべてまやかしであったのだろうか?
私はやはり彼に愛されてなどいなかったのだろうか?
連鎖的に心の中に浮かんだ半ば確信に近い疑問を、無理やりにでも吹き飛ばそうと彼女は頭を振った。
「ウソっ、ウソだ!
私は信じない! 私は彼に愛されてる!
だって、コンパスはまだ動いてる!
この針の先にきっと彼がいる!」
狂気じみた慟哭と共に再び走り出した女性は、しかし自分がどのような顔をしているのか知らなかった。
彼女の通り過ぎた空間が小さな雫に濡れて滲む。
長い長い苦しみの時が始まった。
もう何日経ったのか分からないくらい延々とそうして走っていると、次第に彼女も冷静さを取り戻してくる。
徐々に駆けるスピードを落とし、数日ぶりに女性は足を動かすことを止めた。
俯いて足元を意味無く眺めながら、彼女は背に影を背負う。
「……やっぱり、もう私は死んでしまったの?」
呟いて、ずり落ちる様にゆるゆると地面に座り込んだ。
これまで脳内で必死に否定していた考えを口に出した事で、身体から何かが抜け落ちて行くような感覚に襲われる。
そのまましばらくボーっとしていた女性は、今度は膝を抱えそこに顔を埋めて静かに口を開いた。
「……何……やってるんだろう、私」
ふっと自嘲するような笑みを見せたかと思えば、すぐに眉を顰めて辛そうな表情に変わる。
彼女の脳裏に優しかった両親の姿が浮かんでいた。
「お父さん、お母さん……。
あなた達より先に逝く様な、親不孝な娘でごめん、ごめんなさい。
私、なんでもっと親孝行しておかなかったのかなぁ、なんで……。
なん……で…………順……也」
どうにもやるせない気持ちと共に愛しい彼の名を口に乗せた、まさにその時である。
灰色以外何ひとつ存在しないこの場所に、それこそ気のせいかと思うほど小さな声が響いた。
「…………か…………り」
「っ順也!?」
ガバリと勢いよく顔を上げて、信じられない思いで辺りを見回す。
多少かすれて変質していようが、彼女がその声の主を間違えるはずもない。
「順也っ!
順也、順也、順也ぁっ!」
いっそ幻覚でもいい、彼に会いたい。そんな切ないほどの願いを胸に彼女は再び灰色の地面を蹴った。
針に導かれるまま3時間ほど進んだ先で、女性はようやく……本当にようやく焦がれ続けた彼を見つけた。
「順也!」
けれど、彼女はその姿をはっきりと自らの瞳に映した途端、ピタリと動きを止める。
そして、眼球を小刻みに揺らしながら呆然と口を広げた。
「ウ、ソ、でしょ? 順也……っ!」
そこには、まるで死体のように蒼白い顔をして空中に浮遊する希薄な存在の恋人がいた。
緊張にふるえる手を少しずつ少しずつ彼に近づけて、彼女の指先が掠れるように頬に触れた瞬間、場面は一変する。
白い。
白い病室だ。
すぐ傍の窓から外を眺めれば、ここが彼の自宅近くの大学病院である事が分かる。
ごくりと唾を飲み込んで恐る恐る部屋の中央へ視線をやると……思った通り、ベッドの中に頬のこけた生気の無い恋人がいた。
もしかして、最初から針は彼の家では無く病院を指していたのだろうか、と頭の隅で考える。
ベッドの周囲には医師と看護師の他に彼の家族が揃っているようだ。
母親は涙でボロボロになった顔を拭いもせずに息子の名を連呼していた。
父親も兄も妹も酷く暗い表情でじっと彼の様子を眺めている。
誰に教えられずとも、これがどのような場面であるのかすぐに想像がついた。
彼の家族の声が何かの層を隔てたようにボンヤリと彼女の耳に届く。
『どうして、こんな雪の日に外になんかっ』
『……兄ちゃんが倒れていた場所のすぐ傍にこの指輪が落ちていたよ。
多分、香織お姉ちゃんに渡しに行こうとしたんじゃないかな』
『っバカかよ、順。お前の弱り切った身体で外に出たりなんかしたら、どうなるか分かってただろう。
香織ちゃんの事、どうすんだよ……チクショウッ』
『あぁ、香織さんといえば。
彼女に連絡を取りに行った義姉さんがまだ帰って来ないな。
出来ればまだ息子の息のある内に会わせてやれればいいんだが……』
そこまで聞いて、再び女性は灰色の世界へと引き戻される。
戻った場所に今にも消え入りそうな半透明の姿の恋人が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
上下左右も分からない空間に2人の男女が向かい合って立っている。
しばらくお互い黙りこんでいたが、フゥとひとつため息を吐いて彼女が抑揚の無い声で問うた。
「どうして黙っていたの……」
『ごめん』
「っ謝って欲しいんじゃない」
『分かってる。ごめん。
治らない病気だって知って、香織が離れて行くのが怖かった』
自らを情けなく思い、彼は彼女から視線を逸らして俯いた。
その言動にキッと眉を吊り上げた女性は、低く唸るようにこう告げる。
「……何それっ、見くびらないでよ」
それを聞いて、彼は顔を上げ小さく苦笑した。
『分かってる。
それでも、怖かったんだ。ごめん』
「バカ」
罵られたはずなのに、どうしてか彼はひとつ頷いてからはにかんでみせた。
『うん。バカなんだ、俺。香織の事に関してはいつもそう。
だから病気だっつーのに、調子の良い時だけ一時的に帰宅させてもらって香織の前でいつも通りの俺を演じたり、いよいよ弱ってどうしようもなくなった時は結婚で縛れないかと指輪を買いにいかせてもらったりしてさ。
無理言ってついて来てもらった療法士さんには悪い事したよ。結局、指輪も渡せないままだし』
「あっ」
『ん?』
彼女が見た女性は彼の担当の療法士で、腕を組んでいたのは介助のためだったのだ。
今さらながら自分の勘違いに気がついた彼女は恥ずかしさからほんの少し頬を染めて、それを悟られないよう慌てて首を横に振った。
「う、ううんっ、何でも無い。
それで、順也はもうすぐ死んじゃうんだよ……ね?」
『……身も蓋も無い聞き方するなぁ。
まぁ、そうなんだけど』
「あのね。実は私も死にかけてるの。
だから、どうせなら一緒に逝かない?
こうやって順也に会えたから、多分、私普通に死ねると思うの」
彼女の提案に怪訝な表情へと変わった彼が、皺の寄った眉間に指を当てつつ言う。
『ちょっと待て、色々と意味が分からない。
そもそも何で香織が死にかけてるんだよ』
「っあー、えっと、ちょっと言いにくいんだけど……その……」
それから、女性がここに至るまでの経緯を簡単に説明すると、彼は深くため息を吐いたあと心底呆れたように一言こう告げた。
『バカ』
「ごめん」
しょんぼりと項垂れる彼女に自嘲する様な笑みを見せて、彼が小さく首を横に振った。
『でも、俺もバカだ。
……ちょっと嬉しいとか思って、ごめん。』
「あはは、実は私も同じ事思ってた。
私達って案外似た者同士なのかもね」
恥ずかしさからか言いつつ両手で顔を覆っていた彼が、ふと真剣な顔つきを女性に向けて来る。
それを受けて、彼女も自然と背筋を伸ばし姿勢を正した。
『香織』
「なに?」
しばし真顔で見つめ合う2人。
互いの瞳の奥には同じだけの熱を湛えている。
彼は何かを断ち切るように1度だけ瞼を閉じると、再び熱い視線で彼女を捕え、そっと口を開いた。
『愛してる。……俺と一緒に死んでくれるか?』
「うん。どこまでだって、ついて行くよ。
……愛してる、順也」
そうして、2人は微笑み、涙し、同時にきつく抱き合った。
直後。
彼女の足元に落ちていた赤いコンパスが激しく光を発する。
そのあまりの眩しさに反射的に目を瞑った2人の身体を、清廉な光がすっぽりと包み込んだ。
さらに光は灰色の世界を浸食し、瞬く間に白へと染め上げていく。
全てが収まった時、そこにはただ無が広がっていた。
沈む夕日に照らされてオレンジ色に染まる病室の中。
簡素なパイプ椅子に腰かけた女性の左手薬指に収まるリングが、キラリとそれを反射した。
室内にはシャリシャリと果物の皮を剥く音だけが響いている。
ナイフを器用に動かしながら、女性は聖母のように穏やかな微笑みを浮かべていた。
切り終わったリンゴをベッドの上の彼に差し出しながら、他愛無い会話に興じるべく彼女は口を開く。
「明日も検査なんだって?」
「あぁ。もう完全に治ってるって言うのに、みんなが受けろって聞かないんだ」
ポイとリンゴを口に投げ入れたあと、器用に咀嚼しつつ拗ねたように唇を尖らせる彼。
そんな婚約者の姿に彼女はクスクスと忍び笑いを漏らす。
「仕方ないよ。
いきなり不治の病が完治しました、なぁんて言っても普通は信じられないって」
「まぁなぁ。
それは分かってるんだけど、こうベッドに拘束されちまうとなぁ」
言って、彼は首を左右に傾げながら憂鬱そうに息を吐き出した。
再びリンゴに手をのばす彼を微笑ましそうに眺めながら、彼女はふととある疑問を口にする。
「……結局、あの男って何だったのかな。
死ぬはずだった人間を2人も助けるなんて、仕事としては正反対だよね」
「香織が会ったって言う死神310341号ってヤツか。
うーん、310……3……4…………あっ?」
「どうしたの?」
腕を組みモグモグと頬を動かしつつ考えていた彼は、口内にあったものを嚥下してから何かに気がついたように声を上げた。
そして、小首を傾げ問いかけて来た彼女に対し、真剣な眼差しを向けて言う。
「なぁ。もしかして、その男の正体は本当は死神なんかじゃなくて……」
しゃんしゃんと雪の隙間から優しい鈴の音が降って来る。
星の輝く夜空の中を軽やかに歩きながら、一寸前まで茶髪の男であった恰幅の良い老人は朗らかな笑みを浮かべ歌うように言葉を紡いだ。
Merry Christmas
心より愛し合う恋人たちへ
聖夜の奇跡を……
おしまい。