三章 船着場で二日酔い(2)
リーファがなみなみとエールの注がれたマグを受け取ると同時に、警備隊員も壁際を離れて隣にやってきた。
「試験監督、お疲れさん。本当に失格にしないだろうね?」
リーファが念を押すと、彼は苦笑しながら紙切れを差し出した。
「疑り深いな。先に渡しておくから、安心してゆっくり飲めよ」
「そりゃどうも」
合格証を受け取ってからやっと、リーファはマグに口をつける。エールは地下の倉庫から出したばかりらしく、少し冷たくて、生き返る心地がした。
リーファが無言で飲んでいると、隣で青年が勝手にしゃべりだした。
「この『金の葡萄亭』は、船着き場周辺じゃ一番の店でね。女将さんの曾祖父さんの代から続いてるんだ。いい感じだろ?」
言われて初めて、リーファはじっくり店内を観察した。
何もかも古いが、よく手入れされている店だ。テーブルもカウンターも椅子も、長年大事に磨かれてきた結果、飴色になって木目が浮き出ている。
テーブル席はほどよい間隔を置いて並べられ、客は誰もがくつろいで楽しげに見えた。足を踏んだとか背中にぶつかったとかいう、些細なことで喧嘩騒ぎにならないよう、配慮してあるのだろう。
暖炉には炭火の燠がちらちらと瞬き、香草がいぶされている。食欲の邪魔をしない程度の香りだ。壁際の小さな棚には笛や弦楽器が置いてある。常連客の中には、にわか楽士が何人かいるに違いない。
天井からぶら下がったランプの覆いには、少し煤がついているものの、埃はきれいに払ってある。カウンター奥の厨房からは、ベーコンや腸詰めを炒めるいい匂いと一緒に女将の鼻歌が流れてくる。
「うん。確かに、いい店だね」
リーファがそう同意すると同時に、先ほど喧嘩していた二人組が申し訳なさそうな顔でやって来た。
「あれ、あんたたち、仲直りしたのかい」
にやにやと意地悪く問うたリーファに、二人は苦笑いで答えた。
「本当に喧嘩する予定じゃなかったんだ。けどこいつが……」
「俺のせいにすんじゃねえよ」
途端にまた、肘で小突き合いを始める。警備隊員が咳払いをすると、二人は慌てて姿勢を正した。
「とまあ、そんなわけだから、詫びに一曲と思ってな」
「一曲?」
怪訝な顔をしたリーファの前で、喧嘩していたはずの二人は声を揃え、いきなり歌い出した。明るい旋律の陽気な歌だ。歌詞をよく聞くと、酔っ払いが酒を称える内容だった。
二人の声に誘われて、他の客たちもそれに加わった。歌声や手拍子、足拍子。興に乗って皿やマグで即興の伴奏をつける者もいる。やがて誰かが棚の楽器を取り、いよいよ本格的な宴会の様相になってきた。
最初は呆気に取られたリーファも次第にその楽しげな空気に染まり、気が付くと笑いながら手を打っていた。歌はどれもリーファの知らないものばかりだったが、そんなことはこの際、関係なかった。
一杯目のエールが空になり、誰かが奢りだと二杯目を差し出す。しまいには飲みながら踊りだす連中まで現れて、先刻とは別の意味で店内は大騒ぎになった。
ごく自然に宴がお開きになるまで、何時間かかったか。
リーファが店を出た時には、空に一番星が瞬いていた。もう春だとは言っても、日が落ちると空気は水のようにひんやりする。リーファは天を仰いでぶるっと身震いした。
「大丈夫か?」
警備隊員が後から出て来て、苦笑まじりに訊いた。リーファはのぼせた顔を片手でぱたぱた扇ぎ、おどけて肩を竦める。
「酔い醒ましには、このぐらいがちょうどいいよ。あんたこそ、一緒になって騒いじまって良かったのかい?」
「今日は非番だからいいんだよ。でなきゃ試験官なんて引き受けるもんか。リーファってったよな。無事に合格したら、また店に来いよ。皆でお祝いしてやるから」
青年は気前よく言って、リーファの頭をくしゃくしゃにかき回した。やめろよ、とリーファは頭をかばい、それからふと好奇心にかられて尋ねる。
「あんたは嫌じゃないのか? 女が警備隊に入るってのが、さ」
「おまえを女扱いしろって方が難しそうだなぁ」
ははは、と失敬な笑い声を立て、それから彼は真顔になって続けた。
「仲間内でも意見は半々ぐらいだな。俺は楽しみにしてる方だよ。国王陛下のお気に入りにどんなことが出来るのか、って」
「オレの能力にシンハは関係ねえだろ」
ムッとなってリーファは言い返す。青年はにやにやした。
「カリカリしなさんな。おまえが本当に無能で警備隊の役に立たない奴なら、陛下が便宜を図ることもないってことさ。あの人は贔屓だけで物事を動かしゃしない」
「……へえ」
思わずリーファは感心した声を洩らす。何だ、と眉を上げた青年に、リーファはしみじみと言った。
「あんなに好き勝手やってる王様でも、一応は信頼されてんだなぁ」
途端に青年が爆笑し、通りをうろついていた野良犬が驚いたように振り返って吠えた。
彼はくすくす笑いながら、結局広場までリーファを送ってくれた。そして、城の方に足を向けた彼女に、水を飲んでから寝ろよ、と忠告してくれたのだった。
「何をやっとるんだおまえは」
「二日酔いの奴を見舞って、開口一番それはないだろ……」
ベッドに突っ伏したままリーファは呻いた。おかしい、そんなに飲んだはずがないのに、何なんだこの頭痛は。誰か毒でも盛ったんじゃないのか。
昨夜の記憶を反芻してはうーうー唸っているリーファの枕元で、シンハは呆れ顔をしていた。
「警備隊の方から報告を受けた。今日は休みにしてやるから、おとなしく寝てろ」
「あー……」
言われなくてもそうする以外なさそうだ。後で城内の礼拝所にいる神官から、二日酔いに効く薬でも貰って来よう。
そう考えた矢先に、ギッとドアの開閉する音がして、ぷんと苦そうな臭いが鼻をついた。顔をしかめ、重い体を起こしてベッドの上に座る。案の定、ロトが薬湯のマグカップを持って来たところだった。
リーファは礼を言って受け取り、シンハに向かって顔をしかめる。
「王様がこんな所にいるから、秘書官も余計な仕事をしなきゃならないんだぞ」
「身内の見舞いぐらい、さぼってることにはならんだろう」
シンハは言い返したものの、不安そうにロトの顔色を窺った。またぞろ雷を落とされるようなら、すぐにも逃げようとばかりに。
「リーが気にすることはないよ。どうせ僕の薬を貰いに行くついでだったしね」
ロトは穏やかに微笑み、いつもの奴さ、と心持ち強調して付け足す。つまり彼の胃痛を和らげる薬だ。リーファが失笑し、シンハは何とも情けない顔になった。
「分かった、分かった。おとなしく仕事に戻るさ。じゃあな、リー」
軽くぽんとリーファの頭を撫でて、シンハは珍しく素直に立ち上がる。彼が出て行くと、ロトはそれまで主君の座っていた椅子に遠慮なく腰掛けた。リーファは苦い薬湯をちびちびと往生際悪く片付けていく。
「今のところ、試験は順調みたいだね」
黙って見ているのにも飽きたのか、ロトが切り出した。リーファはしかめっ面のまま、お陰さまでね、と応じる。
「あんたにも迷惑かけてるんだろ? あいつが何か余計な事をやりだすと、しわ寄せは全部あんたのとこに行くんだもんな」
ロトは「その通り」とうなずきながらも、愉快げに笑った。
「でも君が警備隊に入ってくれたら、少しは陛下の脱走癖もおさまるんじゃないかな。そのための投資なら、厭わないよ」
お菓子作りのみならず、隙あらば城を抜け出して街を徘徊する困った国王は、即位後まもなく脱走王の異名を取ったほどである。
「オレがどうしようと、あいつの脱走癖は直らないと思うけどな」
リーファは苦笑して首を振った。
「前にそのことで話をした時に、あいつ、民の暮らしを自分の目で確かめて現実に即したまつりごとをする為だ、とか何とかもっともらしい理由を言ってたよ。それも嘘じゃないだろうけど、要するに王様業が性に合わないんじゃないのかな」
城にこもって書類の上だけで誰かの人生を左右したり、内外の貴賓相手に陰険な駆け引きをしたり、贅沢な宴を催したり。そんな生活は、行動的で質実を好む彼にとっては苦痛に違いない。
「うん、まあね。陛下のお気持ちも分からなくはないんだ。僕らが毎日この城であれこれ話し合っている間に、足元にある町で誰かが苦しんでいるかもしれない。自分の手でそれを救うことが出来るのなら、僕だってすぐにもそうしたいよ。その場で結果が出るし、人の喜ぶ顔を見られるんだからね」
「……ああ、なるほど」
リーファは納得してうなずいた。マグの底に残った最後の薬湯を飲み干し、うえ、と顔を歪める。
「その『じかに誰かを助ける仕事』ってのをオレが引き受けて、毎日成果を報告してやりゃ、あいつも少しは欲求不満が解消するってことかい」
「それだけじゃない。ディナル隊長も言っていたように、最近は警備隊の威信も揺らいでいるんだ。悪人は常に新しい手法を考え出すのに、今まで通りのやり方を続けていたんじゃ対抗出来ない。ディナル隊長だってそれなりに有能だけど、なにしろ保守的だからね。君が現状をなんとか打開してくれるんじゃないかと、期待してる」
「そりゃどうも……買いかぶられたもんだね」
リーファは曖昧な表情になった。期待されることは嫌ではないが、それに応じる能力があるかどうかは別だ。
そんな内心を見透かしたように、ロトはにこりとして力強く断言した。
「大丈夫。君なら出来る」
「簡単に言うなよ」
リーファは思わずぼやいた。が、根拠のない励ましでも勇気づけられはする。気を取り直して笑みを返した。
「まあ、やるだけはやってみるさ。とりあえず、合格したら、の話だけど」
「その前に、二日酔いから立ち直るのが先だろうね」
ロトは悪戯っぽくそう言って、リーファの手からマグを受け取る。途端に忘れていた頭痛が襲ってきて、リーファは呻きながら頭を抱えたのだった。