三章 船着場で二日酔い(1)
三章
東方辺境伯の領地や歴史については図書館でざっと調べられたものの、現在の情報を仕入れるなら、やはり人に聞くのが一番良い。そういう意味では、今日の試験会場は好都合だった。
というのも、二番隊の担当はシャーディン河の船着き場に接する商業区だからだ。各地の商人が、船荷と共にさまざまな情報を携えてやって来る。
リーファは広場に面した大店はとりあえず素通りして、船着き場へ向かった。
湿気を含んだ微風が、船に使われる木材や塗料の匂いを運んでくる。それに伴って人夫たちの荒っぽい声も耳に届いた。
桟橋に出ると、誰も彼もが忙しく働いていた。船から荷を下ろす者、積み込む者、荷を数えて点検する者。ぼやぼやしていると突き飛ばされそうだ。
さて、どの船が東から来たものか。
リーファが適当に歩き出した途端、頭上からうろたえた声が降って来た。
「積み荷の検査かい?」
顔を上げると、近くの船の甲板から若者が一人、こちらを見下ろしていた。リーファの制服を見て、抜き打ち検査だと思ったらしい。彼女は慌てて、違う違う、と手を振った。
「あー、いや。オレはただの見習いでね、今……研修中ってとこかな」
研修ってのは試験に受かってからするもんだったっけ? 自問しつつも、まあいいや、と適当な答えを返す。すると若者は露骨にホッとした。おや、とリーファは意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんだい、見られちゃ困る物でも積んでるのかい」
「そんなわけないだろ。検査になったら面倒だからだよ。早いとこ積み下ろしをすませて、次の町に行かなくちゃいけないのに……」
「どこから回って来たんだい?」
何気ない好奇心を装って、リーファはそう問いかけた。若者は上の空で「イルシュ」とぞんざいに答える。リーファは内心で幸運に感謝した。
「東の方だね。あっちはどんな様子なのかな」
「どんな、って……別に、変わりはないよ。草原の連中も最近は大人しいし、天候もいつも通りで作柄も順調。平穏無事ってところだね。おかげで商売も安定さ。納期が守れたら、だけど」
そう説明して、彼は首を伸ばして街の方を見やった。店の方に行った者の帰りを待っているのだろう。リーファもちょっと背後を振り返り、まだ少し時間があるかと踏んで話を続けた。
「あんたのところは、何を運んでるんだい? 別に腐っちまう物じゃないんだろ」
「そりゃ、そうだけどさ。うちは……まぁ、色々さ。草原の連中から買った羊毛が主だけど。塩を運んだら儲けになるのに、うちの旦那は手を出さないらしくて」
「塩? 国の専売だろ、たしか」
レズリアは海のない内陸国なので、塩は貴重品だ。売買は国が一切を管理している。
(そういえば、東の辺境に岩塩の産地があったっけ)
ゆえに昔から、東方辺境伯は王家と微妙な関係を続けて来たのだ。時には敵対し、時には取引をして。
「運ぶのは認可を受けた業者が請けられるのさ。毎月決まった収入が入るから、いいと思うんだけどなぁ……あ、やっと帰って来た。やれやれ」
若者は言って、通りの方に手を振った。あとはもう見向きもせず、自分の仕事に戻って行く。忙しそうだと察し、リーファも諦めて踵を返した。
そして。
(……ん?)
見覚えのある人影を視界の端に捉え、また向き直る。隣に停泊している商船のそばに一人の男が立っていた。一瞬、目が合ったかどうか。ぱっと顔を背けられたような気がして、リーファは眉を寄せた。
(誰だっけ)
記憶をさらいながらそちらへ歩いて行ったが、既に男はどこかへ姿を消していた。船の中か、それとも街へ戻ったのか。
男が立っていた桟橋の船を見上げた時、リーファの脳裏に昨日の光景が閃いた。
(そうだ、確かあいつ、薔薇屋敷のところにいた……)
花泥棒かどうかは不明だが、庭園を見ていたあの男だったはず。小柄で痩せた、猫背の男。
(もしかして、あいつも試験の関係者なのかな)
一度目は偶然、二度目は必然。いや待て、三度目の正直まで確かめなければ断定はできないか。しかし偶然と言うには……。
釈然としないまま商船を観察する。ありふれた型の、やや小さな貨物船だ。年季の入った船であることは素人のリーファにも分かった。
あちこちに補修や改装の跡が見て取れる。船名を変えるのは縁起が悪いと言われているのに、それさえ何度も書き換えたようだ。
今の船名は『ミサゴ』。リーファは少し考えてから、それが海鳥の名前だと思い出し、つい失笑した。飛ぶどころか水に浮くのもやっとに思える老朽船に、鳥の名とは。
(何か験を担いでいるのかね。絶えずどこかいじくってないと沈む、とか?)
しばらく彼女はそのまま何となしに船を眺めていたが、結局は首を傾げながらも桟橋を後にした。もしあの男が試験の関係者だとしたら、すべて終わった後に種明かしされるだろう。
次にリーファが足を向けたのは、船着き場の近くにある酒場だった。人夫たちがたむろしている大衆的な店だ。そこならもう少し東方の情報を仕入れられそうだし、人が大勢集まる場所だから試験官がいる可能性も高い。
そう思ったのだが、まさか向こうから飛び出して来るとは予想していなかった。
「ああ、来た来た! 早く早く!」
店から出てきて通りの左右を見渡していた中年の女が、リーファの姿を認めて手招きしたのだ。リーファは思わず後ろを振り返ったが、女の声に反応している人物は見られない。ということは、やはり自分が呼ばれたのだ。
慌てて走って行くと、女は興奮した様子でまくしたてた。
「あんたも一応警備隊だろ、何とかしとくれ。喧嘩になっちまって、あたしの店が……」
ガシャーン、と派手な音が語尾に重なる。女将は首を竦め、ああもう、とぼやきながら背後を振り返った。リーファは女の横を擦り抜けて戸口をくぐり、思わず「うへぇ」と呻いた。
「大体てめえはこないだも、俺の分までちょろまかしやがって」
「うるせえ! そっちこそやる事がせこいんだよ!」
大の男が二人、顔を真っ赤にして口汚く罵り合いながら、取っ組み合いの喧嘩を繰り広げている。他の客はそれを取り巻いて、てんでにはやしたてるばかり。
リーファは壁際に立っていた青年に、こそっと訊いた。
「そもそもの発端は何だい?」
さあね、と冷めた答えが寄越される。どうやら彼は素面らしい。
「相手の分の酒まで飲んだとか飲まないとか、そんな事だったみたいだけどな」
馬鹿馬鹿しい。リーファはげんなりと当事者たちを見やった。普通なら警備隊の巡回は二人一組なので、こんな状況でもなんとかなる。だが今はリーファ一人。
(どうすっかな)
ざっと店内を見回して、リーファは口をへの字に曲げた。
援護を頼むか? しかし頼りになりそうな客は、今し方言葉を交わした青年ひとりぐらいで、あとは下手をすれば一緒になって乱闘に加わりかねない勢いだ。
(使えそうな道具……)
武器としては剣を佩いているものの、まさか抜くわけにはいかない。喧嘩を止めようとして刃傷沙汰になったら本末転倒だ。加えて問題なのは興奮した野次馬の方だろう。
少し考えてから、リーファはふと窓に目を留めた。鉄の黒い枠に、貴重なガラスが嵌められている。店を建てる際に奮発したらしい。
(あー……ガラスは高いから駄目だな。窓枠の方でやるか。呼び子を持ってりゃ良かったな)
頭の中の携帯品一覧に笛を付け加えつつ、おもむろに剣を抜く。刃のきらめきに、壁際の青年がぎょっとして身構えた。リーファはそれを無視して一番近い窓に歩み寄ると、刃の切っ先を窓枠にあてがい、
「せえの、」
歯を食いしばって、引き下ろした。
キキィィ……ッ、と、歯の浮く甲高い音が響き、喧噪が途絶える。
その隙を逃さず、リーファは出来る限り威厳をもたせた声で「警備隊だ!」と告げた。
はっ、と息を飲むように店内の視線が集まる。小娘と思って侮られることのないよう、リーファはこれ見よがしに抜き身の剣を構え、じろりと一同をねめつけた。小馬鹿にした笑いを口元にのぼせかけた酔漢たちが、一人また一人と、鼻白んでいく。
どうやらうまくいった。店内の空気が一変したのを感じ取り、リーファは剣を鞘に収めて、騒ぎの元凶に歩み寄った。幸い二人とも、本格的に酔っ払っていたわけではないらしい。リーファが片手を腰に当ててじろじろ眺め回すと、二人は居心地悪そうに縮こまってしまった。
「で、大の男が二人してガキみたいに暴れてたのには、それなりの理由があってのことなんだろうな?」
皮肉っぽく、しかし傲慢にならないよう冷ややかさを保って問う。男二人は複雑な表情で目配せを交わし、もぞもぞ身じろぎした。リーファは片眉を吊り上げ、呆れ顔をする。
「やれやれ。説明できないってんなら、それでもいいさ。そのかわり、もうこんな馬鹿げた事すんじゃねーぞ」
そこで戸口に首を振り向け、様子を窺っていた女将を呼んだ。
「女将さん! こいつらに後片付けさせりゃいいかな?」
「ああ、ありがとさん。はい、ちょっとごめんよ」
付近にいた客を押し分け、女将は自分の城に戻ると、惨状を見回して心底情けないとばかりにため息をついた。
「まったく、何だかねえ、男ってのは……。さ、手伝っとくれ!」
こんな事態には慣れているのか、女将はすぐに気を取り直し、しゅんとしている酔漢二人にてきぱきと指示を出し、奥に避難していた店員を呼んで、ひっくり返った店内を修復にかかった。
リーファも行きがかり上、散乱したマグや皿を拾い集めて協力する。ほどなく店内は元の秩序を取り戻し、客たちは銘々、飲み直しに入った。その様子を眺め、リーファは女将に謝った。
「ごめんな、女将さん。オレ本当はまだ警備隊員じゃないんだ。だから巡回の相棒もいなくて……さっきの騒ぎで何人か、どさくさ紛れに食い逃げしたかも知れない」
もう一人いれば、外で見張っていて貰えたのだが。しかし女将は気にした風もなく、からからと笑った。
「本職の警備隊員だって、二人がかりで喧嘩を止めに入って、食い逃げなんか見張ってやしないよ。気にしなくても客の顔は覚えてるから大丈夫さ」
それにね、と女将は悪戯っぽく続けた。
「今日ここにいるのは常連ばかりなんだよ。つまり、あんたの試験のためにね」
どう、驚いたかい、と得意げに胸をそらす女将。リーファは悪いとは思いつつも、気の抜けた笑いをこぼした。
「あぁ、やっぱり……」
「なんだい、知ってたのかい」
「そうじゃないけど。酔っ払って喧嘩してた割には、二人ともやけにすんなり大人しくなったしさ。客の方も誰ひとり止めに入ったりしないで、気楽に見物してたから、何か雰囲気が違うなと思ったんだ」
そして、ちらりと壁際にいた青年を見やる。その視線を予想していたように、彼はおどけた表情でマグを持ち上げ、乾杯の仕草を見せた。
「あいつはオレが入って来た時はまるきり素面だったし、剣を抜いたオレを止めかけたしね。試験官の一人かな」
「ご名答。実は彼、警備隊員だよ」
参りました、と女将は両手を上げてから、ぱっと明るい笑顔になった。
「さてと。試験は終わりってことで、合格証を渡さなくちゃね。でもその前に、何か飲んで行きなさい。奢るから」
「それ、飲んだら失格にされるんじゃないかい?」
リーファは思いきり顔をしかめた。壁際の警備隊員が失笑し、女将もふきだした。
「しない、しない。約束するよ」
大丈夫、と手を振って、リーファをカウンターに招く。本当かな、とリーファはためらったものの、周囲を見回して、結局女将のすすめに従った。