四章(2)
五日ぶりに町に着き、まともな隊商宿に入って落ち着く頃には、リーファとロトの間にあった緊張もすっかり和らいでいた。
リーファは案内人と一緒に馬を厩舎に入れ、それからロトが荷ほどきしているのを手伝った。他人の様子を観察して素早くこまごまと手助けする元盗人のはしっこさに、ロトは目を細めて礼を言う。
「いつもありがとう、リー。助かるよ」
「別に、このぐらい」
リーファは曖昧にもぐもぐ応じて肩を竦めた。シンハに褒められたなら得意がってやれるのだが、こういうまっとうな人間からまっとうに感謝されると、むず痒くて身の置き所がない。それに、道々あれこれと親切にしてもらって礼を言うのはこちらのほうなのに、先を越されてしまったのも、ばつが悪い。
道中、東の言葉や文化について教えてくれたのは、主にロトだったのだ。人にそうして説明したり伝えたりするのが得意らしい。対するシンハは本来あまり積極的にしゃべらない性質らしく、ロトやセレムがリーファの話し相手をしている間、黙って行く手や周囲に目を配り、一行を守っていた。
「あとはやっておくから、君も足を洗っておいで。それか、全身砂まみれだから、いっそ水浴びするといいよ」
「……ん、そうする」
リーファはちょっと思案してうなずいた。水浴びのついでに、シンハを捜してエファーン語でちゃんとしたお礼の言い方を訊こう。それから改めてロトに感謝を伝えたらいい。
そう決めると、彼女は井戸のほうへ走って行った。
隊商相手の宿だけあって、広い庭に専用の井戸があり、都合のいいことにシンハが水を使っていた。桶のほかに大きな盥もいくつか置いてある。宿の下男が客の馬にやる水を汲んで、厩舎のほうにえっちらおっちら運んで行くところだった。
「おまえも来たか。ほら」
顔を洗ってさっぱりした様子のシンハが、汲み上げた水を釣瓶桶から盥にあけてくれた。国王のくせにまめな男である。リーファはやや恐縮して言った。
「ありがたいけど、桶に一杯汲んでくれたらいいんだ。頭からざばーっとかぶって、流しちまうからさ」
「そうか、おまえぐらいならここで行水できるな。よし、靴と服を脱いで盥に入れよ。水をかけてやるから」
「そこまでしなくていい!」
ぎょっとなってリーファは叫んだ。年端もいかない子供ならともかく、人前で行水などできるものか。しかも――女だというのに!
だがシンハは既に、汚れ物を景気よく丸洗いする気になっていた。
「遠慮するな、髪の中まで砂まみれだろうが。桶一杯の水を浴びたぐらいじゃ、どうにもならんぞ」
「やめろ馬鹿、ガキじゃねんだぞ、そんな盥に入れるかって!」
「ガキじゃないんなら清潔にしろ。さっき荷車にぶつかられて怪我しただろう。ついでに手当てしてやるから傷を洗え」
「大丈夫だって! なんともねーよ、いいからほっといてくれ!」
気付かれていないと思っていたのに、不覚。町に着いてすぐに、きょろきょろしていたせいで荷車を避け損なってしまったのだ。大した怪我ではないが、腰の辺りをさすっていたのを見られていたらしい。
逃げようとしたが、がっしと肩を掴まれた。振りほどこうとして暴れ、盥の縁につまずく。よろけてあえなく転び、水を張った盥に尻餅をついたところで、ちょうど宿からロトが走ってきた。
「リー、いくらなんでもタオルぐらい……」
若干呆れた声音でそう言いかけたまま、盥の手前で棒立ちになって絶句する。リーファに水をかけてやろうとしていたシンハも、己の不明を悟って愕然となった。
「いってぇ~……」
リーファはひっくり返った亀のような体勢のまま、顔をしかめてうめいた。腰から胸までずぶ濡れになり、もみ合ったはずみで肩までずり落ちた上着が、ぴったり身体に張りついている。こうなってしまえば、いかに痩せていようと、ささやかな女らしさの隠れる余地はなかった。
「――っ、何をやっているんですかあなたは!!」
ロトの怒号が炸裂した。
噴火のごときその迫力に、リーファは度肝を抜かれてぽかんとする。彼女にはわからない東の言葉で、秘書官の青年は怒濤のように国王を責め立てた。シンハが空の桶を盾にしながら合間合間に言い訳しているのは、気付かなかっただとか本人も言わなかったしとか、そんなことなのだろう。
(うわー……すげえ。こりゃ確かに、シンハも怖がるわけだ)
出会ってからこの方、ずっと温厚親切丁寧だった青年が、荒ぶる嵐もかくやの烈しさである。しかも激怒している一方で言葉はまったく淀みなく、内容が理解できなくともそれが恐らく完璧に理詰めで反論の余地もなく無慈悲であろうと察せられた。事実、シンハはもう言い訳もできなくなって大人しくうなだれているだけだ。
ロトは一通りの叱責を終えるときっぱり主君に背を向け、呆気にとられたままのリーファの前に膝をついた。
「本当にすまなかったね。立てるかい」
「あ、うん」
ぎこちなく立ち上がる少女に、ロトは手を貸して支える。それから持ってきたタオルを細い肩にかけ、上体を隠すようにくるみながら、深々とため息をひとつ。
「まったく、あの人は……女の子になんてことをするんだか」
こぼされた慨嘆はシンハに対するものだったが、聞いたリーファは驚きに目をみはった。
――女の子に、なんてことをするのか。
なんだそれは。意味がわからない。だって、女だったら突き転ばされてもずぶ濡れにされても、それは……普通のこと、じゃないのか。
困惑してしきりに瞬きし、リーファはロトとシンハを見比べる。すっかり面目の潰れた国王陛下が、決まり悪そうに頭を掻いて言った。
「リー、おまえな……いや、警戒していたんだろう、それはわかる。だが一緒に行くと決めた時点で教えてくれてもいいんじゃないか? そうすればこっちも、それなりの配慮をしたのに」
「教えられなくても気付いて下さいよ、陛下は私やセレムさんと違って、リーを抱えたりしていたじゃありませんか」
「無茶言うなよ。てっきり、声変わりもまだの子供だと思っていたんだぞ」
放心したままだったリーファは、会話がそこまで進んではっと我に返った。
「おい馬鹿にすんな、オレはもう十六歳だぞ!」
思わず虚勢を張った彼女に、驚きの目が向けられる。シンハが疑わしげに念を押した。
「本当か?」
「うっ……多分、だけど。だっていつ生まれたかなんて知らねーし」
誰も誕生日なんて教えてくれないし憶えてもいない、そんな境遇だったのだ。口を尖らせて黙り込んだリーファの頭越しに、男二人が視線を交わす。
「……参ったな。十六の女か……」
「とりあえず、別室を取れるか確認しましょう」
「一人だけ離れるのも不用心じゃないか? 女部屋があればそっちに」
深刻な表情で相談する二人に、慌ててリーファは割り込んだ。
「ちょっと待った! いいよ、そんな特別なことしなくても。今までだって問題なかったろ? 余計な手間とカネをかけないでくれよ。っていうか……」
早口にまくし立て、彼女はまだ信じられない気分で二人をまじまじと見つめた。
「なんなんだよ。そういうの、そっちの常識なのか? 女だからって、なんて言うかそんな、……お姫様とかじゃないんだぞ? ただの、野良の雌犬で」
そこまで言った途端、シンハが顔色を変えた。その身を包む力が強さを増し、リーファを初めて竦ませる。彼は険しく厳しい面持ちで、ゆっくり手をもたげて少女の頭に置いた。
「おまえは人間だ。誰がなんと言おうとも」
「……」
なんだよ、おまえだって犬扱いしただろ――などと、茶化してごまかせる空気ではなかった。もちろん彼のそれと、かつて受けた扱いとは全く違う。その差を意識すると、過去が目の前に立ち上がってきてしまい、リーファは唇を噛んでうつむいた。その足元にロトが膝をつき、優しく言った。
「それに、女だからってひどい扱いをされる理由にはならない。君は身の安全を守られ、意思を尊重される権利がある」
ロトの言葉は少し難しくて、リーファは正確に理解できなかった。それでもわかったことがある。彼らは、自分がどんな扱いをされてきたか、雌犬、の一言だけで察してくれた。そして、もうそんな目に遭うことはないと約束してくれたのだ。
「ふっ……、う、」
胸が熱くなり、瞬く間に視界が揺れて、大粒の涙がぽろぽろと落ちた。歯を食いしばり、両手を固く拳に握り締め、声を殺して身を震わせる。
シンハがそっと頭を撫で、そのまま手を滑らせて軽く抱き寄せた。リーファは逞しい肩に額を預け、突っ立ったまましゃくりあげる。
――もう大丈夫だ。
温かい手を通して力強さが伝わり、安堵と確信が胸に満ちていく。
もう安全だ。女であることを隠さなくてもいい、自分が自分として生きてゆけるのだ。この人のそばにいる限り。
「……名前」
嗚咽の合間に、彼女は言葉を絞り出した。
「ほんとは……リーファ、って」
略さない、性別のわかる名前を告げられて、シンハとロトが顔を見合わせる。一呼吸置いてシンハが微笑み、静かに呼びかけた。
「リーファ」
「うん」
「改めて、よろしくな」
「……うん」
涙声で答えながら、彼女はひとつ心に決めた。
ついて行こう。この先たとえ何があっても、彼が差し出してくれたこの手を離すまい。
いつか、付き従い庇護されるだけの立場を脱して並び立てる、その日まで――
(終 →本編冒頭へと続く)
これにて出会い編終了。
よそでコンテストに出した時はこの後に本編をつなげていました。
なおリーファ本人はこの時点で16歳だと主張していますが、実際は恐らく半年~一年ほど少ない年齢です。