四章(1)
王様の仕事となると、さすがに半日や一日でやっつけられるものではなかったらしい。そもそもこの町の支配層は誰一人として、まさか東の大国の王ご本人がおいでだとは知らなかったのだ。不意打ちされて、対応にまごついても責められはしない。
そんなわけでシンハは宿を出たきり戻らず、リーファは待っている間、セレム相手に東方の共通語を教わったりしながら過ごした。
三日ぶりに宿に現れたシンハは、もう正体を隠していなかった。往来でざわつく野次馬をよそにリーファは飛び出し、得意満面に覚えたてのエファーン語で迎える。
「コンニチハ!」
「驚いたな。もう早速、言葉を教わったのか」
「暇だったからさ。そっちの仕事、片付いたのか?」
「ああ、おまえのおかげで奇襲が成功して一撃で陥落、ってところだ。ただ後始末に手間取ってしまってな。待たせて悪かった」
シンハも嬉しそうに答え、リーファの頭をくしゃりと撫でる。完全に犬扱いしてやがるな、とリーファは苦笑したが、まんざらでもないのだから自分も大概だ。
宿の受付では、動転する女将に金髪の青年が何やら話していた。リーファがちらりと様子を窺うと同時に精算を終えたらしく、きびきびした足取りでやって来た。二十歳ほどだろうか。人当たりの良い笑顔でちょっと屈んで、王様の拾いものと目を合わせる。碧い双眸はいかにも利発そうだ。
「はじめまして。国王付秘書官のロト=ラーシュです。どうぞよろしく」
流暢なウェスレ語だったが、シンハやセレムに比べるとわずかにぎこちない。リーファはなんとも言えない気分で眉を上げる。盗人相手に嘘くさい丁重さだと感じたのだ。
「オレはリー。シンハから聞いてっだろうけど、世話んなるぜ」
わざとぞんざいに言って反応を見る。案の定、ロトはかすかに眉をひそめてこちらをつくづくと観察してきた。わぁめんどくせえ、と内心苦々しく思いつつ、リーファのほうも無遠慮に観察し返してやる。
二人の間が緊張をはらんだところで、シンハが無頓着に口を挟んだ。
「リー、細々したことはだいたいロトが片付けてくれるから、何かあったら遠慮なくこいつに言うんだぞ。もちろん俺でもセレムでもいいが、手っ取り早いのはロトだ」
「ふーん……わかった」
うなずきはしたものの、リーファは警戒を解かなかった。ロトの態度は丁寧だが、本心では汚い浮浪児の後ろ襟をつまんでポイと捨てたがっているように感じられたのだ。
客観的にいえば、出会ったばかりの他人をいきなり懐に入れられるシンハやセレムのような人間のほうが奇特なのであって、ロトの緊張はごく自然なものだったのだが。
ともあれ普通でないシンハに慣れてしまったリーファにとって、ロトはいろいろな意味で慣れない他人だった。彼が馬の方へ行ったのを見計らい、リーファはこそっとシンハにささやいた。
「良かった。あいつは普通なんだな」
「うん?」
「東にいるのが皆、おまえやセレムみたいに化け物じみた連中だったらどうしようかと、ちょっとだけ心配してたんだ」
冗談めかした言葉に潜む密かな不安を、シンハは敏感に察知したらしい。まさか、と笑って軽く少女の肩を抱いた。
「エファーンでは神々が地上に力を及ぼしているのは事実だが、おおっぴらにじゃない。あくまでも人間を通して少しずつだ。俺やセレムはたまたま集中的に加護をくらっているが、ほかは……そうだな、人よりちょっと足が速いとか、頭の回転が速いとか、そのぐらいの差だ。魔術やまじないを使う者もいるが絶対数は少ないし、学院もまだ歴史が浅くて一般人の生活に魔術が広まるところまでいってない。ここいらで暮らすのと、それほど大きな差はないだろうよ」
「そっか。そんならいいんだ」
リーファはほっと息をつくと、改めてロトの背中に目をやり、それからシンハを見上げた。
「ってことは、あいつ、別におまえをぶっ殺せるほど強くないんだろ?」
「馬鹿よせ、もののたとえだと言ったろう」
シンハは慌てて物騒な口をふさぎ、秘書官に聞かれなかったかと様子を窺ってからひそひそとささやいた。
「もちろん殴り合えば俺が勝つさ。だがあいつの強みは政務を取り仕切っているところだ。あいつの補佐がなかったら、俺はとっくに玉座を放り出して地の果てまで逃げてるぞ」
「陛下。何やら不穏な言葉が聞こえましたが」
途端にくるりとロトが振り向き、シンハは首を竦める。そんな二人を眺めて、リーファはしみじみ嘆息した。
「おまえ、本っ当ーに、王様か?」
「そうじゃなかったら嬉しいんだがな。あいにく今のところ俺が国王だし、替わってくれる奴もいないんだ」
「へ い か」
ロトの声が圧力を増す。シンハは無念そうに天を仰いでから、諦めて秘書官に歩み寄った。馬の状態や荷物を点検しながら、主従が何事か言い交わす。東方の言葉だからリーファには内容がわからない。ロトが厳しい表情で何か言い、シンハが皮肉っぽく応じて、共に苦笑を交わしたその様子から、心の通じ合った信頼ある間柄であるのは明らかだ。
(早く言葉を覚えたいな)
ちくりと寂しさに胸を刺されたと同時に、シンハがこちらに向き直って笑いかけた。
「リー! 来い、出発するぞ」
「おう!」
反射的に威勢良く答え、駆け寄る。名前を呼んでもらえる、今はそれだけで充分なのだと我が身の幸運を噛みしめながら。
東への旅は、シンハたちとリーファ、それに現地の案内人と雑役夫を加えた六人に馬が四頭の構成だった。
本来なら馬上で揺られているべき身分のシンハとセレムは共に平然と歩き続けており、馬はほとんど荷物だけを運んでいる。一頭は荷を積んでおらず、これに時々他の面々が交代で乗った――といっても、実のところそれで休めるわけでもなかったのだが。
「馬に乗るのって、もっと楽なのかと思ってたよ……」
生まれて初めて乗馬したリーファは、すぐに認識を改めて鞍から滑り降りた。身体が軽いので、歩みに合わせて鞍上で尻がぽんぽん跳ねてしまうのだ。疲れるし痛いし股も擦れるし、急ぐのでなければ歩いた方がましだ。
シンハが笑い、横を歩く馬の首を軽く叩いて言った。
「おまえにはまだ難しいかもな。もうちょっと筋肉がついて馬を御せるようになったら、それはそれで楽しいぞ。普段より見晴らしのいい景色を見ながら走っていると、どこまでも行けそうな気がしてくる」
「あー、確かに高いとこに上がるのは気分いいけど。っていうかさ、おまえこそ王様らしく馬に乗ってふんぞり返ってりゃいいのに。そもそも王様ご一行にしちゃあんまりみすぼらしいだろ、これ」
町中の移動でさえ、屈強な男たちに担がせた輿に揺られていく金持ちがいるというのに、国王陛下が徒歩ってなんなんだ、とリーファは呆れる。シンハはにやりとして皮肉を返した。
「なんだ、おまえは着飾って偉そうにしてる俺を見物したいのか?」
「そうじゃねえけど」
「なら気にするな。言ったろう、俺は王族扱いされずに育ったから“王様らしく”するほうが面倒なんだ。おまえには、俺みたいに偉そうなやつが国王以外の何をしてるんだ、だとか言われたが、そもそも王になるつもりなんか無かったんだからな」
いくら旅先で吹きさらしの荒野にいるからとて、そんな本音をぶっちゃけていいのだろうか。リーファはさすがに心配になってロトやセレムの顔色を窺ったが、二人ともまったく動じていない。既に聞き飽きたといわんばかりだ。
王が王なら臣も臣、といったところか。リーファは呆れて首を振り、改めてシンハを見上げた。
「じゃあ何になるつもりだったんだよ? 騎士とか将軍とか?」
威風堂々たるこの青年なら、何をやっても“お偉いさん”になる未来からは外れようがない。そう思って言ったのだが、なぜかセレムが吹き出し、ロトが苦笑いになった。二人の反応を訝る間もなく、横から予想外の答えが降ってくる。
「料理人」
「……は?」
今なんておっしゃいましたかね、もう一回お願いします。
表情と声音で雄弁に訴えるリーファ。耐えきれずにセレムが肩を震わせ、ロトまで口元を覆って顔を背けた。ひとり真顔のシンハが、いたって当然の態度で繰り返す。
「聞こえなかったか? 料理人だ。どこかの屋敷で働いて金を貯めて自分の店を開くか、さもなきゃ諸国を旅して修行しながら稼いで暮らすのが夢だった」
「えっ……と、それ、……食い物の話、だよな?」
「ほかに何を料理するんだ!」
シンハが憤慨するのと、連れ二人がどっと笑いこけるのが同時だった。
「まったく、失敬な」
憮然としたシンハの肩を、セレムが慰めるように叩く。そうしながら銀髪の美青年は、いささか造作が崩れ気味の笑顔でリーファに説明してくれた。
「想像がつかないのはわかりますが、シンハ様の料理の腕は確かですよ。ええ、保証します。王都に帰ったら、歓迎のしるしにごちそうしてもらいなさい。特にお菓子は見た目も可愛いし最高ですから」
「ええぇー……?」
「本当ですよ。ロト君でさえ、陛下が仕事をサボって厨房にこもるのを止められないぐらいの美味しさです」
「マジかよ」
「いや止めますよ、さすがに」
秘書官が慌てて割り込んだのは、国王に対する牽制らしい。シンハが逃げるように明後日のほうを向いて、白々しく目陰を差した。
そんなたわいない話をしたり、言葉を教わったりしながら荒野の旅は続いた。