二章(1)
道具を取り戻すのは拍子抜けするほど簡単だった。
リーファから道具を奪い取った輩は、その使い方がよくわからず、すぐ質に入れてしまったのだ。店を聞き出したアースはそれを買い戻し、本来の持ち主に返した。
「これで間違いないな? よし。それじゃ、俺の目当てを教えるから、早速おまえの知恵を貸してくれ」
言って彼が連れて行ったのは、街の中心部。交易で賑わう大商館の建ち並ぶ界隈の、中でもとりわけ豪壮な館だった。
塀の外から建物を見上げ、リーファはしばし絶句し、それから声を潜めて罵った。
「馬鹿! いくらなんでもここに入るなんて無茶だ、誰んちか知らないのか!?」
「知っているとも。議会の重鎮にして大富豪、実質的なこの町の支配者だろう」
平然と答えられて、リーファは塀に懐いてしまった。その塀の煉瓦も、日干しではなく焼いたものだ。金持ちの象徴である。
大陸中部のこの辺りは乾燥した気候で、農業は難しい。水場の近くにだけ畑や果樹園があり、あとは牧畜と毛織物が主な産業であるため、古くから交易が盛んで、それによって財を成した人々が拠点都市の自治を担ってきた。
そんなわけだから、長い歴史の結果、古くから続く商家が財力権力をたくわえて君主同然になっているのが現状である。
むろん屋敷は広大だし使用人も多いし私兵の警備も厳重で犬なんかもいて、
「オレ程度のコソ泥が、中からの手引きも無しに単独で忍び込めるかっつーの!」
「おまえ一人に行かせるつもりはないぞ」
「ますます駄目だろ、おまえみたいに図体でかいやつ、一発で見付かっちまう」
リーファは苦り切って唸ったが、相手は動じなかった。
「普通に考え得る経路で侵入したら、見付かるかもな。だが安心しろ、俺にはちょっとした特技があってな。もしも自分が特別な軽業師だとしたら、どこから入ってどう逃げるか、目星をつけてくれ」
「軽業師、ってったって……具体的には?」
「二階の窓まで軽く跳び上がれて、そこを手がかりにすれば三階の窓から侵入できる。そのぐらいだ」
「なんだそりゃ。魔法でも使うのか? セレムなら、翼を生やして空に舞い上がってもおかしくないけどよ」
リーファは怪しげに言った。ちなみにその天使様は別行動で、今はいない。アースが失笑し、拳で口元を隠す。
「やめろ、想像してしまったじゃないか。まあ翼は生えないが、そんなようなものだと思ってくれ」
「うさんくせーな……偽名のうえに顔隠してるし魔法まで使うのか。カリーアだったら即、縛り首だぞ」
「なんだ、おまえはここの生まれじゃないのか」
思わずぼやいた直後、身の上を漏らしたと指摘され、リーファは顔をしかめた。どうもいけない、この青年が相手だと鎧を着込んでいられない。
(今も魔法を使ってんじゃないだろうな?)
じろりと下からねめつけて、フードに隠れた緑の目を捉える。最初ほどではないが、やはり不可解な気分にさせられた。どこか広く森閑とした、この世ならざる場所に引き出されて、人間ではない何かと対峙しているかのような。気を緩めると、頭を垂れて跪くべきだと思わされてしまう。
相手がふと微笑んだ途端、その感覚がすっと薄れて消えた。
「カリーア教国の生まれなら東方の神々や魔術には胡散臭さしか感じないだろうが、俺たちにとっては当たり前のものなんだ。現に俺もセレムも、神々にお節介されていてな。だからこんな鬱陶しいフードで顔を隠して名前も偽っている。まぁいずれおまえには本名も教えるさ。一仕事終わったら」
「別にどうでもいいけど。それより、その一仕事について嫌な予感がするから訊くぞ。いつ忍び込むつもりだ?」
ささやき声で鋭く切り込んだリーファに、アースはいったん明後日のほうを向いた。不穏な沈黙が一呼吸、二呼吸。それから彼は向き直り、端的に答えた。
「今夜」
「――っ!」
怒鳴り散らすのを寸前で堪え、拳を宙に振り回しながら何度も地面を踏みつける。それでも我慢したほうだ。真っ赤になって震える盗みの先輩に、ぽっと出の素人が知ったかぶって言った。
「いや、言いたい事はわかる、よくわかるぞ。こんな屋敷に忍び込むなら入念に下調べして、警備の配置や人の出入りを把握した上で万全の機を窺うべきだ、と」
「わかってんなら……っっ」
リーファは思わず背伸びして相手の胸倉を掴み、力任せに揺さぶった。
「落ち着け。すまんがこっちにも色々と事情があってな。目当ての物が屋敷内のどこにあるかは、このあと宿に戻ったらわかる手筈になっている。だからおまえは俺と一緒に来て、手薄そうな場所を指示してくれ。物を見付けたら錠前開けを頼む。それだけだ」
さすがに完全に行き当たりばったりで侵入しようというのではないらしい。リーファは手を離し、やれやれと周囲を見回した。人目を確かめ、声を抑えてささやく。
「じゃあ、おまえはひとまず引き上げな。オレがこの辺見て回って、行けそうなとこ目星つけとくから、日が落ちてから戻ってこいよ」
「……いいのか?」
「連れだってウロウロしてるほうがよっぽど怪しいだろ。オレならその辺の物陰に座り込んでてもおかしくないし、見付かっても物乞いだと思われるだけだ。ほら帰った帰った」
シッシッ、と手を振ってやると、アースは意外に聞き分けよく、任せたぞ、との一言と共に肩をぽんと叩いて立ち去った。
一人その場に残ったリーファは、ひとまず路地裏に身を隠した。屋敷の門が見える場所まで移動し、物陰に潜んで人の出入りを観察する。そうしながら、自分が巻き込まれた状況について改めて思案した。
(目当ての物の在処はわかる、ってことは……とっくに下調べは済んでいて、いざ決行って時にたまたま拾ったオレが錠前開けが出来るってんで計画に引き込んだ、ってところか。つまり、盗むモノは確実に厳重に保管されていて、元の計画だと錠前をぶっ壊しても構わなかったけど、盗んだことがバレないならそのほうがいい、と)
最初から使えそうな盗人を求めて、浮浪児を物色していたというなら別だが、あの二人の言動を見る限りそれはない。
(ただの金目当てじゃないのは確かだ。どうする? いいのか、本当に)
本来あの二人は盗みをはたらくような人間ではない。言葉遣い、リーファへの接し方、ありとあらゆるところから、うんざりするほど真人間くささが匂う。
このまま逃げても、きっと彼らは気にするまい。元の計画に戻すだけだ。
道具はもう取り返せたし、腹も膨れたし。そもそも盗人に義理堅さを期待するのが間違っている。だいたい、もし失敗したら、一番に罪を着せられるのは自分ではないか。
(……ってわかってんのになぁ、ああくそ!)
リーファはため息をつき、頭を抱えた。相手があからさまにこちらを侮っていたり、利用するだけして捨てようだとかいう魂胆が透けて見えたりしていたら、遠慮なくとんずらするのだが。誠実に接してくる者は欺けない。
諦めて彼女は当面の問題に意識を戻し、ほかに手薄な場所は無いか探すため歩き出した。
周辺の人通りや近隣の窓の向きなど、入念に調べていると時間はあっという間に過ぎた。薄暮が降り、月が昇って、世界が寝静まる。
リーファがアースと別れた場所に戻ってほどなく、暗がりの奥から人影が現れた。夜でもフードを被ったままとは、よほど顔を見られたくないらしい。だがそんなことをしても、不思議な存在感のせいで彼だとわかってしまう。
リーファは手招きして場所を移動し、侵入経路の候補に案内した。
「お薦めはここ。こっち向いてる窓が少ないし、人も通らない」
おまけに塀のすぐ内側に大きなナツメヤシが植えられていて、目隠しになってくれる。アースは夜風にざわめく葉の影を見上げ、ふむとうなずいた。
「良さそうだな」
「セレムは来ないのか?」
「あいつは宿で待機だ。さて、塀に登るか」
簡単に言って、アースは何のつもりか身を屈めた。リーファは反射的にその肩を踏み台にし、軽く跳んで塀にとりつく。上面に尖った石や釘が埋められていないのは確認済みだ。
身軽く塀にまたがった少女を見上げ、アースが呆れ声を漏らした。
「抱き上げてやろうと思ったんだがな」
「どっちでもいいじゃん。手ェ引っ張ってやろうか?」
「結構だ」
言うとアースは助走もなしに、ひょいと跳躍した。一瞬で塀の上、ナツメヤシの陰に立つ。今度はリーファが呆れる番だった。なるほど、軽業師だの神々にお節介されているだの言っていたのは、こういうことか。
(カリーアの教えが届かない東方には化け物の類がうようよいる、ってのは、まんざら嘘でもなかったんだなぁ。教会の連中に都合のいい作り話だと思ってたけど)
失敬なことを考えつつ、リーファは無言で眼下を見渡した。
どうやら屋敷の主人は庭でくつろぐのが好きらしく、ナツメヤシの下には簡素なテーブルとベンチが置かれている。薔薇の植え込みや柘榴の木があるものの、散歩に適したほどよい間隔が開いており、物音を立てずに通り抜けられるだろう。
屋敷の壁際にはところどころ篝火が置かれており、警備の兵が槍を抱えて退屈そうに立っている。基本的には定位置にいるらしい。
素早く見て取りながら、どう移動すれば安全迅速に屋敷に近づけるか、視線で経路を決める。強い風が吹いてザアッと木々が騒いだのに紛れ、塀から庭へ飛び降りた。特に合図をしたわけでもないのに、アースも同時に隣へ降り立つ。
リーファがごくわずかな手振りで自分が先に行くと示すと、彼は小さくうなずいた。
身を屈め足音を忍ばせて進む少女の後ろから、青年もまた驚くほど静かについてくる。もしかしたら彼も、盗人ではないが、潜入の訓練を積んでいるのかもしれない。
(そういえば、ちょっと前から妙な噂があったな)
小耳に挟んだ話が脳裏をよぎった。道行く人々がささやき交わす、いい加減な与太話だと思って気にとめていなかったのだか。
――東の大国レズリアの太陽王シンハが、中部地方の交易権を狙っている――
無学なコソ泥のリーファでも、馬鹿げているとわかる。交易商人の様子や市に並ぶ品物を観察していれば、東の国々がここいらよりもずっと豊かで恵まれているのはあきらかだ。交易に躍起になる必要はない。何よりとにかく遠い、遠すぎるではないか。
(けど、もし本当なら?)
リーファには想像もつかない、高度で難しい理由で、豊かな東の大国が中部侵出を計画しているのなら。
(こいつがその手先かもしれない)
その仮説はすとんと腑に落ちた。この青年なら、商売敵の手の内を調べる、とかいった卑近な目的より、そうした雲の上の権力ゲームであるほうが納得できる。
(まぁ、何にしてもオレには関係ないな)
王だの富豪だのがお空の上で掴み合いの喧嘩をしていようとも、地べたを駆け回って餌を探すネズミの生活が変わるわけではない。リーファは余計な詮索を頭から追いやり、目の前の現実に集中した。