一章
※他サイト用に後から書いた、王都以前の出会い編です。
ざっくりダイジェスト風味。
腹へったなぁ。
道端に座り込んだまま、リーファはぼんやりとそう感じていた。声に出してつぶやく元気もない。
目の前の風景は、彼女が飢えて倒れそうだろうと何だろうと、いつもと変わりなかった。
雲ひとつない青空、日干し煉瓦に泥を塗った黄土色の建物。砂埃を浴びて薄茶色に染まる街並みと、風に揺れるナツメヤシのさざめき。行き交う人々は皆、路傍にうずくまる浮浪者の列に一瞥もくれない。
屋台の呼び込みや、天秤棒を担いだ物売りの声、荷車を牽くロバの鼻息――活気に満ちた喧騒も、今はよそよそしく聞こえた。宿無し盗人の少女にとって、それらが意味を持つのは、手の中にいくらかでも貨幣がある時だけだ。
このところ不漁が続いて、三日ほどろくに食べていない。共用井戸が使えるから水だけは飲めるが、そろそろいい加減、まともな食べ物にありつかなければ。
リーファは飢えた目で人の波を睨んだ。
誰か隙のある奴はいないか。丸見えで簡単に手が届くところにカネの巾着をぶら下げている奴。買い物かごにあれこれ満載にして、ひとつふたつ抜き取られても気付かなさそうな奴……
そうして物色していた時、不意に奇妙な感覚をおぼえた。
誰かが来る。
正体も何もわからないが、そちらを見なければいけない気がして振り向いた。
砂除けの外套に身を包んだ旅人が、人込みを避けて道端に寄りながら、歩いて来るところだった。背格好からして大人の男だろう。フードを深く被っている怪しさゆえか、道行く人々はそそくさと距離を取り、彼のまわりだけ風通しが良い。
なぜか目が離せなくて、リーファは瞬きもせず見つめる。その視線に気付いたのか、相手がこちらを振り向いた。
同時に強い風が吹き、外套の裾を巻き上げ、フードをほんの少し浮き上がらせる。その一瞬、目が合った。
――ああ、森だ。
理由もなくリーファは直感した。吸い込まれそうな深い緑の瞳が、外界のすべてを消し去り、意識を圧倒する。一瞬でどこかの聖域に移動したかのように、ほかの何も聞こえず、何も見えなくなった。
人の歴史よりも古くから存在する、堂々たる巨樹に囲まれた緑の聖域。その静謐が、心に沁みとおる。樹々の息吹が聞こえたように思った、直後、幻想が揺らいで消えた。
我に返って目をしばたたくと、目の前に旅人が立っていた。呆然としているリーファ同様に、相手もまた不思議そうに首を傾げてこちらを見下ろしている。しばしののち、彼は手を差し出した。
「来るか?」
問いかけた声は若く、深く広い森の響きがした。リーファは答えず、ただじっと相手を見つめる。不思議な力を湛えた緑の双眸が再び心をとらえた。
彼が誰だかは知らない。問いかけの意味も、差し出された手の意図も。
――だが、彼女はその手を取り、立ち上がった。
逞しい手に引き上げられて立った途端、目の前が暗くなってよろけた。ただでさえ空腹で倒れそうだったのだから、無理もない。
「おっと」
青年が素早く背中に左手を添えて支えてくれた。握った手を離すのをためらい、心配そうに確認する。
「歩けるか?」
「……」
リーファは声を出さずにうなずいた。神秘めいた瞬間が過ぎ去り、現実的な警戒心が目を覚ましたからだ。道端の汚い浮浪児に手を差し伸べる物好きが、まったくの善意の人だと信じるほど、甘い人生を送ってきていない。
青年は彼女の手を離し、代わりに軽く肩を抱いてゆっくり歩き出した。一拍遅れてリーファは自分に驚く。いつもなら他人に触れられる前に距離を取るのに、そんなことはすっかり忘れていた。空腹すぎて反応が鈍ったのか、それとも――あの不思議な感覚の余韻だろうか。
(何者だろう)
遅まきながら疑問を抱き、リーファは長身の青年を観察する。フードで顔を隠しているため、いまいち人相がわからない。さっき覗き見えた限りでは、二十代半ばほどの、精悍な面差しだったように思う。髪は恐らく黒かった。
(けど、西方人の顔じゃなかったな。なりは地味にしてるけど、金持ちなのは間違いない)
髪の色が濃いのは彼女自身を含む大陸西方人の特徴で、東方人は淡い髪色が多い。ここ中部地域には東西両方の特徴を持つ人々が住み暮らし、また訪れては去っていく。
(町の者じゃない。最近来たやつだ……交易商人? それにしちゃ隙がなさすぎる)
むろん全住民を見知っているわけではないが、よそ者というのはなんとなくわかるものだ。それに長年盗人をしていると、狙って良い獲物と、近寄るべきでない相手の見分けぐらいはつく。この青年は明らかに後者。手を差し伸べた時、外套の下に立派な剣を帯びているのが見えたのだ。旅人の護身用だとしても、いささか物騒に過ぎる。
(……面倒なのに捕まったかも)
敵だ、とは感じない。このままどこかに連れ込まれ、気晴らしに嬲り殺されるとかいう恐れも。この青年はきっと、そういう暗さとは無縁の人間だ。しかし、だからこそ真意目的が知れない。
(気まぐれで野良犬に餌を投げてやる、ぐらいのもんならいいんだけどな)
金か食事か、何であれこの青年がよこしてくれるものを受け取るだけ取ったら、さっさと逃げよう。そんなことを考えたと同時に、行く手から、柔らかい声が届いた。
「あれ、どうなさったんですか、その子は」
穏やかな学者風の口調だった。連れがいたのか、とリーファは前を見る。隣の青年よりもまだ頭ひとつ長身の、これまた目立つ人物が立っていた。
(やばい。完全に別世界の連中だこれ)
リーファの顔がひきつった。
そこにいたのは絶世の美女かと見まごうほどの美青年で、長く伸ばして三つ編みにした髪は、この辺りではまず見ることのない輝く銀色だったのだ。
三十路に近い印象だが、年齢はこの際、問題にならなかった。周囲の人間がこぞって見とれている。買い物中の主婦や小間使いはもちろん、串焼き屋台の親父でさえ、口を半開きにして肉を焦がしている始末だ。
こんな美貌自体も驚きだが、何より、堂々とそれを晒して何の危険もないという態度こそ、リーファの常識と相容れない。大勢のお付きに守られているわけでもないのに。
思わず後ずさったが、よろけたと思ったのか、肩をしっかり抱き寄せられてしまった。
「そこで拾った。腹が減っているようだから、何か食わせてやろうと思ってな。……そんな顔をするなよ。こいつは俺の目をまっすぐ見返してきたんだ」
あまり感心しないと言いたげだった美青年が、理由を言われた途端、納得したばかりか興味深げに屈んでこちらを覗き込んできた。
「なるほど、そういうことなら。ですが、あなたはいいんですか? いきなり見知らぬ他人に連れ出されて、不愉快ではありませんか」
「……メシくれるんなら」
かろうじて声を絞り出す。黒髪の青年が小さく笑い、よし行こう、と連れを促して酒場や食堂の並ぶ界隈へ足を向けた。リーファは困惑しながらも、食べ物にありつくためについて行った。
(変なやつら。たまたま目が合って見返しただけで、因縁つけてくるんじゃなくメシをくれるのか?)
見るんじゃねえ、と蹴られ殴られるのが当たり前だろうに。
(そりゃまあ確かに、不思議な感じはしたけど……そうだな、あれを怖がる奴もいるか)
聖域に踏み込んだような、否、聖域のほうが自分のまわりに突然出現したような、あの感覚。確かにあれは、人によってはぞっとするかもしれない。
ともあれ、連れて行かれたのはごく普通の食堂だった。カウンターの奥で大鍋がコトコト煮えており、代金を払って料理とパンを受け取って勝手に席で食べる方式だ。久しぶりのまともな食事の予感に、リーファの腹が盛大に鳴き始める。
テーブルにつくと、彼女はすぐさま薄焼きパンをちぎって料理を貪った。この地方では基本的にスプーンを使わず、パンをへら代わりにして食べるのだ。煮込み料理の具は豆と鶏肉、瓜。塩味は薄いが香辛料が効いている。
「おい、そんな一気に食べたら……」
青年が落ち着かせようとした時には器はほとんど空になっており、絶句している間にもう、最後の汁をパンで拭って片付けてしまった。奪われないうちに、隙をつくらないように、できるだけ素早く食べる――身に染みついた習慣だった。
リーファは手の甲で口を拭うと、いつでも逃げ出せる体勢をとりつつ、連れ二人が食べるのを見守った。
フードの青年は店内でも深く被ったままで、連れの銀髪美青年が注目を集めてくれているのをいいことに、その陰に隠れているようだ。
その美青年が整った所作で席を立ち、飲み物を買って戻ってきた。
「どうぞ。ゆっくり飲んでください」
「……ドモ」
礼だかなんだか曖昧な返事をして、リーファはコップを手に取る。香草を煎じた茶だ。一口すすって煮込みの後味を流し込んだところで、やっと一番基本的な質問をされた。
「おまえの名前は?」
「リー」
短く答えて、彼女は質問者を見つめ返した。フードの陰で緑の目がすこし細められたのがわかる。
リーファ、と言わなかったのは用心のためだ。今のところこの二人は拾った野良犬の性別を気にしていないようだが、女名前だと気付かれたら、どう態度を変えるか知れない。髪はぼさぼさ、服は元の色がわからないほどのボロ着、みすぼらしい痩せっぽちでも、女は女だから。
だがそんな警戒も無用だったらしい。相手は頓着せず、自己紹介してくれた。
「そうか。こいつはセレム、俺のことはとりあえずアースと呼んでくれ」
「とりあえず?」
リーファは胡乱げに聞き返した。確かにアースというのはこの地方でありがちな名前だが、自分から偽名だとばらすのはどういうつもりか。だがもちろん説明はなく、怪しい青年は話を進めた。
「名前がわかったところで、もうひとつ訊きたいんだが」
言いながら彼はテーブルに身を乗り出し、声を低めてささやいた。
「ちょっと力を貸してくれる気はないか」
「何を言っているんですかあなたは。駄目でしょう、こんな子供を巻き込むなんて」
即座に横から制止がかかる。リーファは二人を見比べ、ひとまず返事をはぐらかした。
「オレに何ができると思ってるんだ?」
「そうだな、掏摸と置き引きぐらいはお手の物だろう」
しれっと返されて、リーファは茶にむせかけた。哀れな物乞いではなく、けしからん盗人だと判断していながら、何をのんきに食事をおごっているのだ、この馬鹿は。
リーファは思わずセレムのほうに向かってつくづくと言った。
「あんた、苦労してそうだな」
「もう慣れました」
「おい。なぜどいつもこいつも、俺を責める時だけやたらと素早く結託するんだ? まあいい。リー、おまえ錠前開けはできるか」
「何をさせようってんだよ。下手なことしたら手を斬り落とされちまうんだからな、厄介事はごめんだぞ」
リーファは渋面で釘を刺したが、席を立って逃げるのは先延ばしにして、ぼそりと付け足した。
「道具を取られちまったから、今は無理」
「なるほど」
ふむ、と応じてアースはいったん身を引き、自分の食事を片付ける。
「だったら道具を取り戻してやれば、手伝ってくれるか」
「本気か?」
「もちろん本気だ」
アースはまったく迷いを見せない。リーファは呆れて言葉を失った。憐れな浮浪児にお情けをかけてやろう、というだけならまだしも、盗みの道具を与え、さらにその手腕を貸せという。思わず深いため息をついた。
「あのなぁ……あんたがどこから来た何者で何をしようとしてんのか、どうでもいいけどよ。後ろ暗い仕事を頼むんなら、もうちょっと信用できる相手を選べよな」
「おまえは信用できる」
「なんで」
「ひとつは俺の目をまともに見返せるからだし、それがなくともおまえは頭が良くて慎重で義理堅いからだ。……何を驚く? わかるさ、おまえは俺とセレムの身元や懐具合を抜け目なく観察していたし、それで手出しすべきじゃないと判断できるぐらいには賢い。食うだけ食って逃げ去りもせず、礼を言い、こうしてちゃんと会話に応じる義理堅さもある。あげくに人を選べと忠告するほど善良だ」
すらすらと述べてアースは笑った。この短時間でそこまで見抜いた彼が慧眼なのか、それとも自分が防御の緩い間抜けなのか。リーファは頭を抱えてしまった。
「もうひとつ付け加えると、おまえを見込んだのは意志が挫けていないからだ。今もまだ何かされやしないかと警戒し、危なくなったら逃げようと構えているが、怯えてはいない。絶対に逃げてやる、という戦意がある。それなら足手まといにならんだろうよ」
「ちょっと待て。なんだそれ、勝手にオレを手下扱いすんなよ」
「手下とは言わないさ。協力者だ。助けてくれたら改めて礼をする」
誠実な口調で言われて、リーファは当惑したまま返答に詰まった。こんな風に、まともな人間らしい扱いをされるのは今までほとんどなかったことだ。盗人同士でつるむ時だって協力はするが、お互い相手を利用して少しでも多く分捕ろうと目を光らせている。
どうにも調子が狂ってしまい、もぞもぞ身じろぎする。そうしている間にアースは食事を終え、よし、と立ち上がった。
「それじゃ、おまえの道具が今どこにあるのか教えてくれ」
「まだ何も言ってないぞ」
慌てて止めた彼女に、相手はにやりと悪戯っ子のような笑みをよこした。
「手伝ってくれるんだろう?」
さも当然と返されて、リーファは絶句してしまった。明らかにきな臭い。関わり合いになるべきではないと、脳裏で本能が警告する。だが一方でこれは、またとない好機でもあった。
錠前開けができるか否かで、稼ぎはずいぶん違ってくる。ただの掏摸や引ったくりに頼っていたら、路上の厳しい生存競争を勝ち抜けない。縄張りを持ち連携して活動する浮浪集団の一員ならまだしも、この町に流れ着いて一年あまりのリーファは、どこにも属していなかった。道具を取られたのもそのせいだ。憂さ晴らしの標的にされたのである。
道具さえ取り戻せたら、屋台のささやかな稼ぎを荒らす必要も、お使いに急ぐ使用人を転ばせて小銭を奪う必要もなくなる。たんまり貯め込んでいる連中の懐に、直接手を突っ込んでやれるのだ。
「……ああくそ、わかったよ。道具を取り返してくれるんなら何だっていいさ」
諦めて腹をくくったリーファに、セレムが優しく微笑みかける。
「ありがとうございます。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、この人、やること無茶苦茶に見えて実際はわりと堅実ですから」
「本当かよ?」
「ええ、少なくとも行きずりの子供を危ない目に遭わせたりは、絶対にしません」
「そんなことをしたら、後でロトに殺されるからな」
ぼそりとアースがつぶやいた。まだもう一人、別行動の連れがいるらしい。
「おやおや。先に私がどうにかするとは思わないんですか、さすが余裕ですね」
美青年の笑顔がひんやりと冷気を放ち、アースが首を竦める。リーファは二人を見比べ、小首を傾げた。
「なぁアース、あんた、態度でかいわりに立場は弱くないか」
途端にセレムがふきだし、態度のでかい青年は肩を落とした。
「そうとも、だから同情してくれ。さあ行くぞ」