二章 お貴族様の事情(2)
名残を惜しみつつ立ち上がり、最後にもう一度だけぐるりを見回して展望台を後にする。屋根から降りると、ミナが心配そうに待っていた。
「見付かった?」
小声で訊かれて、リーファは真面目な顔を保つのに苦心しながら瓶を取り出した。
「はい、これですね」
「ありがとう!」
パッと笑顔になったミナに、リーファもつられて笑みを広げる。ミナはそれに気付くと恥ずかしそうにうつむき、上目遣いになって言った。
「女同士の秘密よ?」
「……っ」危ういところだった。「はい、秘密にします」
辛うじて笑わず言ったリーファに、ミナは重々しくうなずいた。それから彼女は小さな箪笥の抽斗に小瓶を隠すと、かわりに何やら布巾で包んだものを出して来た。
(あれ? 紙切れじゃない?)
てっきり合格証が来るものと思っていたので、リーファは小首を傾げた。だが包みからふわんと甘い香りが漂い、あれかと納得する。
「これ、お礼に。本当はとっておきなんだけど、あげるわ」
いささか未練がましそうに言って、ミナは包みを差し出した。リーファはしゃがんで恭しく受け取ると、ちょっと胸に抱くようにしてから、再び少女の手に返す。
「お気持ちだけ頂きます、お嬢様」
「でも……」
「とっておきの秘密の場所で、一番いい眺めを見ながら食べるんでしょう?」
リーファが悪戯っぽく言うと、ミナは驚いて息を飲み、次いで悔しさと羞恥に赤面した。
「どうしてばれたの」
「屋根の上に、それと同じお菓子のかけらがあったもので」
リーファはおどけて答え、それに、と付け足す。
「梯子がいるかとお尋ねになりましたが、あなた一人では屋根に届くような梯子を、ここまで運んでくるのは無理だ。誰か共犯者がいるんですね? いつもあなたを屋根に連れていって、ちゃんと付き添ってくれている大人、そして今回も試験のことを知っている人が」
「……そうよ。あーあ、つまんない」
ミナはぷうっと膨れてお菓子を抽斗に戻し、「でも」続けた。
「お守りの事は本当に内緒よ。お父様にもお母様にも、ゲイルにも言ってないの」
そいつが共犯者か。リーファはそう考えながら、笑いを噛み殺してうなずく。ミナはこほんと咳払いすると、精一杯威厳をかき集めて姿勢を正した。
「それじゃあ、試験はおしまい。門のところにゲイルがいるから、合格証は彼に貰ったらいいわ。ご苦労様」
「わかりました。それでは」
終了の合図にぺこりとお辞儀をすると、リーファはごく自然に手を伸ばし、ミナの頭をくしゃっと撫でた。
「ミナもお疲れさん。面倒な事に協力してくれて、ありがとな」
呆気に取られている少女を残して館から出ると、門のところで衛兵のにやけた顔が待っていた。
「あんたがゲイル?」
リーファが問うと、門衛の片割れがおどけた風情でうなずいた。
「屋根に登ってるのが見えたけど、いい眺めだったかい」
「なかなか良かったよ。けどお嬢さんが転がり落ちないように、充分注意してやりなよ」
「ああ、それはもちろん。あんたも気に入ったのなら、時々登りにくればいい」
冗談なのか何なのか、ゲイルはそんな事を言った。リーファは胡散臭げに相手を見上げ、鼻を鳴らす。
「いちいちここまで来るぐらいなら、城の塔にでも登るよ」
「あ……そうか、あんたは城に住んでるんだったな。うーん、そうか」
なぜそこに引っ掛かる? リーファは片眉を上げたが、ゲイルはそれを見ていなかった。一人勝手になにやら唸り、しまったな、などとつぶやいている。
きょとんとしているリーファの前で、彼は気を取り直すと、懐から紙切れを取り出した。
「まぁいいや。それじゃ、これ。お嬢さんから貰った物と交換で渡すよ」
おや、まだ試験が残ってたよ。リーファは無邪気そうに小首を傾げて見せた。
「何も貰ってないよ」
「え? そんな筈ないだろ、お礼に渡す物を用意してたんだから」
「でも貰わなかったよ。もしオレが警備隊員なら、個人的に謝礼を受け取るのは良くないだろ。上司の許可があったんならともかくさ」
「…………」
しばし、無言で見つめ合う。リーファはあくまで純朴さの仮面を被ったまま、ぱちぱちと数回瞬きなどして見せた。
と、唐突にゲイルがふきだし、リーファも仮面を捨ててにやりとした。
「やれやれ、お見通しか。少しは慌ててくれたら面白かったのに。ほら、合格証」
「どうも」
紙切れを受け取り、リーファはそれを大事にしまった。
「残りの試験も頑張れよ」
「ありがとう」
励ましに礼を言い、リーファは足取り軽く城へ向かう。とりあえず、合格証を一枚手に入れた報告をしなければ。
思ったより簡単だったな、とリーファは複雑な気分になった。
こんな調子だったら、ひとつの街区に三日もの猶予は必要なかろうに。それとも実はさらに二重三重の仕掛けがあって、こちらが気を緩めている間にこっそり評価をつけられているのだろうか。
(シンハの奴も、時々余計なこと企むからなぁ。ディナルのおっさんがこんなやり方に納得してるとも思えないし)
妨害工作でもしてくるかも知れない。まだまだ油断はできないだろう。
リーファは気を引き締め、周囲に注意を払いながら、城へと戻っていった。
その頃には太陽が傾き、立ち並ぶ館の白壁を黄金色に染めていた。
執務室は珍しく扉が閉ざされ、前に一人の青年が立っていた。国王の側近で秘書官を務めるロトだ。手には他人のものらしき剣がある。
「もしかして来客中かい」
リーファが問うと、ロトは軽くうなずいてからノックした。
「陛下、リーが戻ってきましたよ」
「早かったな。ちょうどいい、入れ」
案外気安く許可が下りたので、リーファは目をぱちくりさせながら、ドアを開けた。
客人は白髪まじりの男だった。古風な貴族らしく上品な服を身につけてはいるが、体型は歳に似合わず引き締まり、素手であっても人を警戒させるような鋭さを備えている。
リーファが緊張したのを見て取り、男はおどけたように眉を上げ、髭の生えた口元に笑みを浮かべた。
そんな二人を眺めてシンハは面白そうに言った。
「リーファ、紹介しよう。彼がリュード伯だ」
「リュード伯、って……あ、まさか!」
思わずリーファは素っ頓狂な声を上げ、目を丸くして伯を見つめた。相手は茶目っ気たっぷりに微笑み、小首を傾げて見せたりなどする。
「はじめまして。娘が世話になったようだね」
「あー……いや、まあ、その」
どう答えろと? リーファは口ごもり、視線だけでシンハに助けを求めた。だが相手は、困惑するリーファを眺めて笑いを堪えているばかり。それでも民の庇護者か、と内心で毒づきつつ、リーファはごほんと咳払いして、なけなしの威厳をかき集めた。
「伯爵は試験のことをご存じだったんですか?」
「もちろん、陛下はまず私に相談されたのだよ。それを耳にした娘が名乗りを上げた、というわけだ」
そこまで言って彼はシンハを見やり、まったく何をやらされるか予測がつきませんな、と呆れ口調で付け足した。シンハはおどけて肩を竦め、ごまかすように話題を変える。
「リュード伯の領地は東の辺境でな。あの辺りはまだ草原の民がちょっかいを出してくるし、何より遠いしで、めったに王都までは出て来られないんだ」
「だからって、ここぞとばかり変な頼み事すんじゃねえよ」
うっかりいつもの癖で突っ込みを入れてしまい、慌ててリーファは伯爵の顔色を窺う。幸い彼は王に対する無礼を咎めるどころか、しかつめらしく同意してくれた。
「至極もっともな意見ですな、陛下」
「都合よく結託するなよ」
シンハが苦笑いする。そのやりとりを見て、リーファはふと疑問を抱いた。どうやら二人の間には信頼関係があるらしい。ということは、シンハが忠誠心を確かめるために辺境から呼び出したわけではないだろう。
「……東で何か厄介事でもあったのかい?」
小首を傾げ、声を抑えて問うてみる。男二人は表情を改め、顔を見合わせた。
「ふむ。確かになかなか鋭い」
伯爵が感心したようにつぶやく。図星らしい。だがシンハは、なぁに、と軽い口調でリーファに答えた。
「厄介と言うほどのことじゃない。おまえは試験に専念しろよ。伯爵の名前に反応したってことは、合格証を一枚、手に入れられたんだろう?」
「ああ、うん、だから報告に来たんだけど……でも本当にいいのか? 何か手伝えることがあったら言ってくれよ。オレのことより、おまえの仕事の方が大事なんだからさ」
真顔で言ったリーファに、なぜかシンハは少し困ったような微苦笑を浮かべ、ぽんと軽く彼女の頭を撫でた。
「そうだな、必要になったら頼む。今日は疲れたろう、ゆっくり休め。また明日から試験の続きだぞ」
「ガキじゃねんだぞ」
ぺしっと手を払いのけ、リーファはむっとして見せる。だがシンハはいつものようにからかいはせず、微妙な表情のまま手振りで退室を促した。拍子抜けだ。
(……妙だな)
納得はできないが、それ以上食い下がるわけにもいかない。リーファは諦めて踵を返したものの、わざとらしく扉のところで振り返り、仰々しく一礼してやった。
リュード辺境伯か――調べてみた方が良さそうだ。
一人うなずくと、リーファは図書館へ足を向けたのだった。