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王都警備隊  作者: 風羽洸海
番外編
28/36

壊れ物につき

リーファが19歳の時の話(第3期収録『溺れた靴職人』より後)。

警備隊でいくつか事件を解決したことが城でも知られるようになり、たまに便利屋的に使われることもあったり、という話。



「あっ、リーファ! こっちこっち、ちょっと来て!」

 早番の勤務を終えた昼下がり、リーファが城に帰ってくると、自室へ着替えに戻る間もなく女中の一人に呼び止められた。

 はてなと訝りつつ、後についてゆく。大股なリーファの歩みでも早足になるほどに、女中はしきりと急かしながら使用人食堂へ向かった。

「何かあったのかい?」

「ちょっとね、厄介なことになってるの。あなたなら何とかしてくれると思って」

 あなたなら、と言われてリーファは小首を傾げた。使用人の内輪の問題は、女中頭テアと家令ヘインの受け持ちだ。

 外部の者が絡む事態であれば、問題をそこで止めておくことは出来ず、ロトやシンハの耳にまで届くことになる。つまり何にしろ、リーファが関る部分はなさそうなのだが。

 とりあえず事情を聞いてみるか、と部屋に入ったリーファは、思わず「うわっ」と呻いてしまった。

 食堂にいたのは家令と女中頭、女中が二人。そして彼らを窒息させてしまいそうな、重く緊張した険悪さだった。

「……何事だぁ?」

 リーファは呆気に取られてつぶやいた。

 召使達の間では普段、目立った諍いは起こらない。ひとつには国王と側近の配慮で仕事の環境がよく整えられているからだし、その国王が姿を現せば、それだけで大抵の揉め事は自然消滅してしまうからだ。

 が、幸か不幸か現在、国王陛下は不在。公務で街に下りて貴族の館を訪問しているのである。脱走して行方をくらましていなければ、だが。

 それはさておき、リーファは剣呑な雰囲気に困惑しながら、女中頭と家令のどちらにともなく問いかけた。

「えーっと……一体、何をそんなに睨み合ってるんだい?」

 質問されても、しばらく二人はお互いから視線を外さなかった。まるで、目をそらせば相手の視線で刺し殺されるとばかりに。だが女中頭のテアが、先にリーファを説得してしまえと決めたらしい。いきなり振り向くや、憤然としてまくし立てた。

「この耄碌山羊が、自分の粗忽を棚に上げて人に罪を着せようとしてるんだよ。貰った釣銭を自分のポケットに入れたのか、その辺に落っことしたのかも忘れてしまったくせに、この子達が盗んだと決め付けて、出せの返せのって」

「下品な中傷は城の品位を損なう。内輪の場であっても控えたまえ」

 山羊呼ばわりされた家令は、その所以である髭に手を当てながら、いつものむっつりした顔のまま言い返した。

「私は間違いなく、小銭を裏口の棚に置いた。束の間とは言えそのまま場を離れたのは迂闊だったが、戻ってみれば消えているなどとは予想しなかったのでね」

 詳しく聞いてみると、話は単純だった。ヘインが出入りの業者に代金を支払った際、小銭がなくて釣りを受け取ったのだが、それをそこらに置いたまま業者と少し外へ出ている間に、失くなったというのである。

 そして、ちょうどその間、ここにいる二人の女中がそれぞれ近くで仕事をしていたらしい。もちろん二人とも、見てもいないし盗んでなどいない、と主張している。

 本当にそこに置いたのか、と記憶を疑うテアの言い分も、もっともだ。リーファも頭を掻いて、言いにくそうに念を押した。

「ヘインさん、ポケット全部ひっくり返してみたかい?」

「むろんだ」家令は渋面で答えた。「紛失に気付いた時、真っ先に調べた。周辺の、無意識に何かを置きそうな場所もすべて。しかし見付からなかった以上、誰かが盗んだと考えるほかあるまい」

「……親切心で、どっかにしまっちまったとか」

「それにしても、この二人以外に近付けた者はいない」

 断言されてリーファが唸ると、ヘインもわずかに態度を和らげて続けた。

「私とて、わずか銅貨数枚のことで騒ぎ立てたくはない。支払額の端数を切り上げて帳簿に記すか、なくなった分を私の財布から出してしまえば、誰に知られることもなかっただろう。だが、どうしても盗まれたとしか考えられないのにそれを見逃せば、次はもっと多額の金が消えてなくなりかねないのでね」

「だからって、悪いことは全部女中のせいにするのはどうかしらね」

 テアは鼻を鳴らした。ヘインが睨んだが、むろん彼女は歯牙にもかけない。

「まったく、みみっちい男だこと。自分がなくしたのを認めたくないのなら、それでもいいけど。光物が好きな烏に取られたとでもしておけば済むじゃないの。はした金でしょうが」

 そういう問題ではない、じゃあどういう問題なのさ、と二人がやりあうのを他所に、リーファは疑いをかけられている女中をじっくりと観察していた。

 一人はずっと以前から城にいるフェイミアだ。きつい物言いと愛想のなさゆえに冷淡な印象を与えるが、リーファも特段親しくはないので、本当のところ彼女がどういう人間なのかは知らない。

 もう一人は名前を知らない新顔だった。小心らしく、今もすっかり顔色を失くして、うつむきがちにそわそわと視線をさまよわせている。

 と、フェイミアが不機嫌に「あのぅ」とうんざり顔で声を上げた。家令と女中頭が振り向くと、彼女は腕組みしてじろりともう一人の女中を睨んでから言った。

「実際、盗られたのは『はした金』なんでしょう? だったらもう、いいじゃないですか。来月のイレーネの給金から差っ引いとけば」

「なっ――!」

 イレーネと呼ばれたもう一人の女中は抗議の声を上げかけたが、フェイミアが舌打ちしたもので、言葉を飲み込んだ。その沈黙に、フェイミアが言葉をかぶせる。

「早く仕事に戻らないと、今日の分が終わりませんよ、テア。あたしは夜中に蝋燭の明かりで階段の手摺を磨くなんて嫌ですからね」

「遅れた分は無理に取り戻さなくてもいいよ。今日だけはね。フェイミア、イレーネだってやったとは言ってないんだから、決め付けるもんじゃないよ。それに、差っ引くなら、最初にへまをしたこの山羊の方こそが妥当じゃないの。高給取りなんだから」

 話がまた元に戻ってしまった。リーファはやれやれと眉を上げ、ため息をつく。

「なんでこんな時に限ってシンハの奴はいないのかねぇ」

 独りごちたつもりだったが、途端に全員がぎょっとなって振り返った。

「止してくれたまえ!」ヘインが叫ぶ。「たかが銅貨数枚で陛下を煩わせるなど!」

「そうだよ、リー、そんな大袈裟な! あたしの監督が行き届かないみたいじゃないか」

 テアも身震いして言う。リーファは困惑気味に二人を見つめた。

「城仕えして長いのに、あんたらでもシンハが怖いのかい?」

「怖いのではない。しかし、このような些事で煩わせたとなれば、私は己の無能を深く恥じ入らずにはおれんのだ。それはこの場の誰もが同じだろう。それほどの罰に値することではあるまい。むろん、陛下がお尋ねになればこの女中らも嘘はつけまいが……」

 ヘインが言い、すべての元凶はおまえ達だ、とばかり非難の視線を送る。フェイミアは顔をこわばらせ、イレーネは悲鳴に近い声を上げた。

「お許し下さい、どうかそのような恐ろしいこと! どうかどうか、そればかりは」

 まだ国王の前に引き出すと決まったわけでもないのに、ずぶ濡れの子犬さながらぶるぶる震えている。目には涙が溜まり、うつむいたはずみにぽとりと雫が落ちた。

 フェイミアもやや臆したような表情だったが、しかしこちらは強気に主張した。

「そうですよ、あたしはこの仕事も長いんだし、陛下のお力も存じ上げてます。今更、さもしい真似をするわけがないじゃありませんか。あたしじゃないんなら、イレーネに決まってます。もういいでしょう、こんな話」

 リーファは各人各様の反応を眺めてから、ふむ、とうなずき、「じゃ、あいつは抜きで」と軽い口調で言って皆の緊張を和らげた。

「代わりに思いついた事があるんだ。さっさと終わらせたいのはオレも同感だけど、ちょっと待っててくれるかな」

 言い置いて、厨房へ走って行く。じきに戻ってきた彼女は、手にウズラの卵をいくつか持っていた。テアが不審げに眉を寄せる。

「卵? 何を始めるつもりだい」

「実験だよ。さて、と……そうだな、とりあえず一番分かりやすそうな、イレーネ」

 名前を呼ばれ、女中はびくりと身を竦ませる。リーファはウズラ卵をひとつ、そっと差し出した。

「二本指だけで持ってくれるかな。そう、落とさないようにね。大丈夫? よし、それじゃ、今から質問するから答えてくれるかい」

 イレーネが親指と人差し指で卵を挟んだのを確かめ、リーファは安心させるように笑みを見せた。

「とりあえず最初に……あんたの名前は、イレーネ、で正しいのかい」

「……? は、はい」

 思いがけない問いに、イレーネは目をしばたいてからおずおずとうなずいた。うん、とリーファもうなずき返し、質問を続ける。

「いつからこの城に勤めてる?」

「え、ええと……三月前から……です」

「仕事はきついかい?」

「いいえ、ちっとも! あ、いえその……楽をしているわけじゃありません、けど、でもあの、こんなに恵まれているのは初めてで。辛くはありません、決して!」

 慌ててイレーネは補足した。さぼっているとか仕事に不満があるとか思われたくない、と焦ったのだろう。はずみで、卵がミシッと微かな音を立てた。

 リーファはそれに気付かなかったふりで、それなら良かった、とにっこりする。そして、一呼吸置いてから言った。

「小銭を盗んだのは、あんたかい」

「違います! そんな、そんな事しません! 信じて下さい、あたしは……」

 ビシッ。

 弁明に夢中になるあまり、手に力が入った。小さく脆い卵の殻が、指に押されて割れる。イレーネはぬるっとした感触で我に返り、気持ち悪そうに自分の手を見下ろした。次いでその意味に気がついたらしく、さあっと青ざめる。

 全員の注視の中、彼女は半泣きで首を振った。

「ちっ、違います、本当に違います! あたしじゃありません!! お願いです、ようやっと巡り合えた仕事なんです、辞めさせないで下さい!」

「嘘をついたから、卵が割れたんじゃないの?」

 フェイミアが素っ気なく突き放す。ヘインは無表情に、テアは戸惑い顔で、イレーネを見つめていた。誰にも庇ってもらえず、イレーネは言葉に詰まって涙を流した。リーファ一人だけが、不釣り合いに明るい口調で言う。

「まぁとりあえず、こんな感じで、皆にも分かったよな? オレが昔いた中部でよく使われてた、嘘を見破る方法なんだ。イレーネ、ほら、手を拭いて」

 用意しておいた濡れ布巾を無造作に差し出し、続けてもうひとつ卵を取った。

「じゃあ今度はフェイミア、あんたが持って」

「あたし? もう犯人は分かったんだからいいじゃないの」

「いやまぁ、一応。あんただったら割れないってことを見せといた方が、はっきりするだろ」

「……そりゃ、そうだけど」

 渋々とフェイミアは卵を受け取る。彼女がこれ見よがしに卵を捧げ持つと、リーファは気楽な口調で言った。

「じゃ、フェイミア。あんたはヘインさんが小銭を置くところを見たかい?」

「…………」

 無言で口を尖らせ、首を振る。

「面倒臭いだろうけど、ちゃんと返事してくれないかな。はい? いいえ?」

「いーえ」

 フェイミアは投げやりに答えた。卵は無事だ。

「じゃあ、あんたは小銭を取ってない?」

「取ってません!……ほら、これでもういいでしょ」

 馬鹿馬鹿しい、とばかりにフェイミアは卵をテーブルに戻そうとする。リーファはあえてそれを止めず、しかし彼女が卵を手放すのに先んじて言った。

「最近、付き合う男を変えた?」

 グシャ!

 まともに卵を握り潰してしまい、フェイミアは顔を歪めて憎々しげにリーファを振り返った。

「いきなり何なのよ、関係ないでしょう!」

 牙を剥いて噛み付かんばかりの剣幕だ。リーファはわざとらしく驚いて見せたが、怯みも詫びもせず、肩を竦めた。

「別に。ただ、あんまり性質の良くない奴なんじゃないかと思ってさ」

「そんな事、今……」

「袖口と襟元。痣が見えてる」

「……!!」

 リーファに指差され、フェイミアは息を飲んで我が身を庇うように腕を引き寄せた。

 成り行きに面食らったテアとヘインは、言葉もなく、フェイミアとリーファを見比べている。すっかり蚊帳の外に置かれたイレーネも、何が進行中なのかと涙目のまま見守っていた。

「フェイミア、あんた相当、貢がされてるんじゃないのかい」

「……あ、あんたに、何の……」

「銅貨数枚ぐらい、なくなっても分かりゃしない。誰も困らない。でも、あたしには必要だ。……そんな誘惑には駆られなかったと、もう一度卵を持って、はっきり言えるかい?」

「…………っっ」

 フェイミアの唇がわなわなと震えた。怒りの形相がぼろぼろと崩れ落ち、情けなく弱々しい顔が現れる。驚きに目をみはるテアとヘインの前で、フェイミアは泣き崩れてしまった。

 テアが急いで傍らにしゃがみ、その背を撫でて慰める。ヘインはかろうじて平静を保った顔にわずかばかり畏れを交えて、リーファを見つめたのだった。



 ややあってフェイミアが泣き泣き盗みを告白し、テアに付き添われて食堂の隅の席に落ち着くと、リーファは卵を片付けにかかった。

「イレーネ、嫌な思いさせてごめんな。あんたじゃないだろうとは思ったんだけどさ」

「い……いいえ、そんな……」

 イレーネは首を振り、心配そうにフェイミアを見やってから、すっかり曇りの取れた顔でリーファを見つめた。

「あなたはとても賢いんですね。お城に来てから、噂は聞いていましたけど」

「え、いや、賢いとか言うほどのもんじゃねえけど」

 照れ臭くなってリーファは変な顔をする。イレーネは微笑んでから、ふと小声になっておずおずと言った。

「あの……この事、陛下のお耳には入りませんよね?」

「私からも頼むよ、リーファ」

 ヘインがしかつめらしく、口に封をして見せる。リーファは呆れてしまった。

「そりゃ、わざわざ告げ口するようなことじゃねえけどさ。何もそこまで怖がらなくてもいいだろ? イレーネあんた、シンハのこと神様かなんかと思ってないかい? そんなに凄い奴じゃないよ」

 厨房に籠もりに来た国王陛下と鉢合わせしたら、どうするんだ。

 そんな心配もあって、リーファは少しシンハの心証を良くしてやろうと試みた。三月前から出くわしていないからには、彼女の受け持ちはシンハの出没範囲から外れているのだろうが、何しろあの国王はいつどこに現れるか知れたものではない。だが思いやり空しく、イレーネは途端にまたびくついた表情に戻ってしまった。

「そんな、それはあなただから……。だって、国王陛下はとても厳しい方だと聞いてます。前のお屋敷でも……」

「前の?」

「あっ、い、いいえ、すみません!」

「謝らなくていいよ。誰のところで、どんな噂を聞いたんだい?」

 リーファが穏やかにしかし断固として促すと、イレーネはためらいに目を伏せながら、ぽつりと告白した。

「実は……私、元々は、ファロス男爵のお屋敷にお勤めしていたんです」

「――!」

 ぱか、とリーファの顎が落ちた。咄嗟にヘインを見ると、こちらも知らなかったらしく、無言ながら目を丸くしている。

 二人は絶句し、しばし言葉もなくイレーネを見つめた。

 塩の密売がばれて男爵家が取り潰しになったのは、一年ばかり前のことだ。街にある館は使用人の継続雇用を条件に競売にかけられ、今は別の貴族が所有しているが、領地の館では事情が違ったのである。

 男爵領はすべて国有になり、館に住むのは管財人だけ。貴族の華やかな生活が営まれなくなったら、使用人も必要なくなる。大勢が解雇された。

「……それじゃあ、びびっちまうのも無理ねえなぁ」

 そもそも悪いのは男爵の方で、しかもその当人はシンハの温情によって命を永らえているのだが、使用人にしてみれば、国王の鉄槌に生活を叩き潰されたわけであるからして。

 でもなぁ、と、本人を身近に知るリーファは複雑な気分になる。

 するとその時、まるで見計らったように、厨房の方から足音が近付いてきた。そして、

「リー! おまえ、卵をどうする気だ? 俺が料理長に……」

 明らかに自分の予定で頭がいっぱいの国王陛下が、ずかずか食堂にお出ましあそばしたのである。

 もちろんシンハもすぐに、まずい所に飛び込んだと気付いた。おっと、という顔をして室内に視線を走らせ、かすかに眉をひそめる。

 内密に、と頼んでいたヘインもテアも、今しがた盗みを告白したばかりのフェイミアも、揃って死を目前にしたかのごとく、青ざめて凍りつく。

 ただならぬ空気についてシンハが詰問する前に、リーファはわざと大声を出して呆れた。

「おまえこそ、卵をどうするつもりだよ? 今日は仕事でお出かけじゃなかったのか」

 ふっ、と呪縛が解けた。空気が軽くなり、シンハも怯えた使用人達から視線を外してリーファを振り向く。

「いや、それはもう終わったんだ。だから今の内に、準備をしておこうとだな……」

「何に使うんだ?」

「出来てからのお楽しみ。いいから卵を返せ」

「ちぇーっ、なんだよ、ケチ。あ、ふたつほど割っちまったけど」

「それじゃあ、卵の入ってない『外れ』がふたつほど出来るな」

「ハズレぇ? 本当に何をする気だよ」

 いつもと同じ、気の置けない無害な会話。凍てついていた場の空気が少しずつ緩み、常温に戻ってゆく。

 ――と、その時。

「あ……の、あの、まさか」

 イレーネがかすれ声を漏らした。リーファは振り返り、まさに卵をふたつ割ったような目をしているイレーネを見てふきだした。

「その、まさか、だよ。こいつが噂の国王陛下。そんなに怖くないだろ?」

 茶化す口調でリーファは言ったが、イレーネは絶句したままシンハを凝視している。当の国王陛下は、作るべき顔を決めかねているような風情だ。

 あれ、なんだか様子が変だな。リーファが訝って首を傾げた、直後。

 イレーネが震える両手を口元に当てて、悲鳴を押し殺すかのように、か細い声を絞り出した。

「でも……でも、私、あなたを知ってます。だって、その目と声……、あの時、確かに」

 信じられない、とつぶやいて後退りする。じりじり、一歩、二歩。そのままどこまでも逃げて行ってしまいそうだったので、シンハが微苦笑をこぼした。

「確かに、俺だったな」

 そう応じてから、彼はヘインに視線を転じた。

「ヘイン。何か彼女のことで問題が起きたのか」

「いいえ」忠実な家令は即答した。「お尋ねの理由がイレーネの経歴にあるのでしたら、何の問題も起きておりません。現在のこの状況は、私どもの間の瑣末事でございます」

 頭を下げたヘインに、シンハは胡散臭げな目をくれたが、詮索はしなかった。

「そうか。なら良い、任せたぞ」

 簡単にそれだけ言って、彼はリーファの肩を叩いた。

「卵の使い道を知りたければ、おまえも手伝え。ほら来い」

「はいはい、仰せのままに」

 リーファは厭味ったらしく応じて、残った卵を抱えると、イレーネに苦笑を見せてから食堂を後にした。彼女の視線が自分達を――シンハをずっと追っていることは、背を向けていても分かった。


 厨房に着いてから、リーファは「それで」とおもむろに切り出した。

「何やったんだよ、おまえ」

「ここは取り調べ室か?」

 シンハは苦笑しながら、鍋に水を張る。手振りで指示してリーファに卵を入れさせると、彼はそれを火にかけた。ゆで卵にするらしい。リーファは一瞬そちらに気を取られたが、シンハがその場を離れたので慌てて顔を上げた。逃げられるかと思ったのだが、杓子を取って来ただけだった。

 シンハは卵を割らないように、そっと静かに湯の中で転がしながら、ごく簡単に答えた。

「男爵家の処分が済んでしばらくしてから、後始末を確かめに行ったんだ。解雇された使用人の何人かは状況が酷かったから、改善されるように少し手を打った。それだけだ」

「そういや、半月近く留守にした事があったよな。あん時の話か」

 ふむ、とリーファは記憶を辿って納得し、次いで大きなため息をついた。

「本っ当、マメだなぁ、おまえ。何もそこまで自分でやる事ないだろうに。で、そん時イレーネに姿を見られて、救いの君になっちまったってわけかい?」

「俺が手を回した事は知らない筈だし、今も確証は持ってないだろう。いくらなんでも、一国の王がこんな細かい事に首を突っ込むなんて、非常識だからな」

 自分で言って、シンハはにやりとする。リーファは半眼になって皮肉をお見舞いした。

「ゆで卵作ってるのは非常識じゃねえってか?」

「…………」

 沈黙は金。

 特に、墓穴を掘るのが特技の誰かさんにとっては。

 リーファは慈悲深く相手の黙秘を尊重し、しばらくただ卵を転がすのに専念させてやった。そうしておいて、不意を突く。

「あ、ロトだ」

「――!!」

 ぎくっ、とシンハの背中がこわばる。咄嗟に振り返ってから、彼は参った様子で軽くリーファを睨んだ。

「あのな……本当に今日は、予定より早く用事が終わったんだ。ロトがまだ戻っていないのは、街で私用を片付けているからで、俺が後を押し付けて逃げ出したからじゃない」

「だったら、びくつくことはねえだろ」

「おまえのせいで、最近は無条件に反応してしまうんだ。あまり俺をオモチャにするな」

「本当かなぁ? 卵、ひとつ生のままとっとけば良かったな」

 にやにやしながらリーファが言う。怪訝な顔をしたシンハに、リーファは先刻の出来事をかいつまんで話した。むろん銅貨のことは一切伏せて、ただ卵の果たした役割だけを。

「嘘を見破る方法、か。俺もいくつか聞いた事がある。水を一杯に張った器を持たせるとか、手のひらを銅板に当てさせて曇り方を見るとか。しかしおまえは上手くやったな」

「そうかい?」

「ああ。単純に、嘘つきなら卵を割ってしまう、と決め付けなかった。圧力がかかれば壊れるのは、卵も真実も同じだ。取り扱いには慎重を期さないとな」

「……うん。人の言うことなんて、いくらでも変わるもんな。本当言うと、ちょっと仕事に使えないかと思ったんだけど、よっぽど他に方法がない時以外は、やめといた方が良さそうだ」

 リーファは残念そうに苦笑する。シンハは微笑むと、軽く彼女の頭をくしゃりと撫でたのだった。


 ちなみに、ウズラ卵の最終的な行き先は、夕食のロールキャベツだった。

 ちょうど断面に卵が覗くよう、上手く切ってある。リーファは部屋で養父と一緒にそれを食べながら、今頃きっとフェイミアとイレーネのところにも、特別に届けられているんだろうな、と考えていた。

「っとに、あいつは……」

「? なんだって?」

「いや、独り言」

 卵の黄身が丸い太陽のようだ。ころりと外れたそれを、リーファはそっと口に運んだ。ほんのり甘くて優しい、元気の出てくる味をしていた。



(終)

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