幸せな雪
リーファが城に来て最初の冬。『予期せぬ事態』より少し後の話です。
本編未読の方にもわかるように書いた短編。
今朝は一段と静かで、空気が凍りついている。
リーファはベッドの中で往生際悪くもぞもぞ動き、白い息を吐いた。レズリアの王城に居候することになって、初めての冬だった。
彼女が生まれたのは、遥か西方のとある町。その貧民街でならず者一族の使い走りをして育った。やがて逃げ出して、東へ東へと旅してきたが、生きる術と言えばやはり同じく、他人の懐から失敬することしか知らなかった。
それが、ふとした縁から一人の男に拾われ、こうして城の館に住まっている。図書館司書の養女として。
言葉もいくらか覚え、緑豊かな土地にもなじんだ。誰にも殴られず騙されず、衣食の心配をしなくて良い暮らしにも、ようやく居心地の悪さを感じずにすむ程度には慣れた。
それでもまだリーファは、時々これは夢ではないかと疑う。とりわけ、冷たく湿った空気が生まれ育ったあばら屋を思い出させる、こんな朝は。
しばらくぼうっとしていたが、居候に過ぎない彼女を起こしに来る者も、呼びつけて仕事を命ずる者もいない。リーファは鳥肌の立つ腕をこすり、急いで服を着た。
養父はもうとっくに朝食もすませ、図書館に向かっている。リーファは室内に残されたパンをかじり、水を飲んだ。その冷たさに、身がすくむ。
ため息をひとつこぼしてから、リーファはうんと伸びをして体に活を入れ、歩きだした。
図書館に行けば、いつものように養父がこの国の言葉を教えてくれるだろう。そのぐらいしかする事がないのも侘しいが、言葉が不自由なのでは下働きも満足にできない。
とぼとぼと裏口から外に出た途端、リーファは目をみはった。
「うわ……」
こぼれた声が、その場で凍って砕けそうだ。雪、雪、雪。どこを見回しても真っ白で、戸口から出入りする使用人たちの足跡だけが、ひとすじの轍を残している。
「こんなに積もるのか」
生まれた土地では、積もってもくるぶしまでがせいぜいだった。だがここでは、迂闊に処女地に踏み込めば膝まですっぽり埋まりそうだ。
呆然と立ち尽くすリーファの脳裏に、嫌な記憶がよみがえった。
板壁の隙間から吹き込むみぞれの冷たさ。
半分溶けて泥のまじった汚い雪を踏み、擦り切れた靴底から刃のような氷水がしみこんだ時の不快感。しもやけが悪化してぼろぼろになった指。
小屋から追い出され、腰を下ろすだけの乾いた場所も見付けられず、路地裏でしゃがみこんだ時の惨めさ。
図書館はすぐそこに見えているのに、間に横たわる雪を踏みしめて歩くことを考えるだけで、足がその場に根を生やした。
雪は嫌いだ。
雪は飢えと寒さと病気を、死を運んでくる。
リーファは不意に泣きたくなり、それが悔しくて回れ右をした。雪なんか見たくもない。部屋に戻って、頭から布団をかぶってしまおう。
だが扉を開けかけたところで、不意に明るい声が耳に届いた。何やら数人の男たちがわあわあ騒いでいるが、まるで子供のはしゃぎ声のようだ。その中にまじる、聞き間違えようのないひとつの声。
「何やってんだ、あいつ?」
リーファは眉を寄せて独りごち、声に引き寄せられるように踏み出した。足の下で雪がキュッと鳴り、一瞬びくりとしたものの、頭を振って先へ進む。今はもう、ぼろぼろで水のしみる靴を履いてはいないのだ。
館の横手を少し歩くと、じきに前庭を見渡せる場所に出た。
ちょうどその時、薄雲を割って太陽の光が射し、一面の雪が雲母のように輝いた。リーファは目を細め、慌てて手をかざす。わいわいと楽しげな声が大きくなり、いくつか知っている単語が聞き取れた。
「いい加減に……て下さいよ!」
「……から、手伝え。ほら、そっち」
「せぇの、おっとっと……よーし!」
ぱちぱちとまばらな拍手が起こる。まぶしさに慣れたリーファがそちらを見ると、なんと、巨大な雪だるまが庭の真ん中にでんと鎮座していた。それも、一体だけではない。儀仗兵の行列よろしく、城門から館の玄関までずらりと大小の雪だるまが並んでいる。
呆気に取られつつ辺りを見回すと、雪玉を転がした跡が、広い庭を縦横に走っていた。今も一人の男がころころと雪玉を大きくしている。確かあれは鍛冶屋ではなかったか。
リーファは口をぽかんと半開きにしたまま、たった今完成したばかりの雪だるまに目を戻した。傍らで、鼻や頬を赤くして、何人かの男が嬉しそうに談笑している。その中の一人、黒髪と夏草色の目をした青年が、ふとこちらを振り返った。
「リー!」
機嫌よく名を呼び、手を挙げる。リーファはまだ混乱気味のまま、そちらに歩み寄った。彼こそが、リーファを拾った責任者にして、この城の責任者でもある男なのだ。
「お早う、シンハ。何やってるんだ?」
リーファは雪だるまの列をちらちらと見ながら、おぼつかない言葉で問う。彼、シンハはにっこりして答えた。
「見ての通り、雪かきだ」
「違います」
すかさず不機嫌な声が割り込む。リーファとシンハが揃って振り向くと、雪だるまの背後から金髪の青年が現れた。彼だけは一人仏頂面で、他の者と違って大きなシャベルを持っている。
「違う?」
リーファが聞き返すと、青年はむっつりと答えた。
「陛下のは『雪遊び』。僕のが『雪かき』」
「おいロト、変なことを吹き込むなよ」慌ててシンハが抗議する。
「それは陛下の方でしょう。張り切って出てきたかと思ったら、館の階段を掘り出しただけで、後は遊んでばかりじゃありませんか! やるならきちんとやって下さい、でなきゃ館に引っ込んでいて貰えませんか。ほかの皆まで遊んでしまって、進みませんから」
ぴしゃりと言い返されてシンハがぐっと言葉に詰まる。リーファは二人を見比べ、おもむろに繰り返した。
「『雪遊び』と、『雪かき』」
「そうそう。覚えが早いね」
ロトがにっこりし、横でシンハが憮然と空を仰いだ。リーファはちょっと笑うと、シンハと同じぐらい背丈のある雪だるまに駆け寄り、指で顔を彫ってやった。
「へへっ。シンハ、これは何?」
リーファの質問は、慣れていないと意味がわからない。が、シンハはああとうなずいてゆっくり発音した。
ゆ・き・だ・る・ま。
リーファもそれを繰り返し、それから居並ぶ雪だるまに次々顔や模様を描きはじめた。
「ほら、リーまで遊びだした。どうしてくれるんですか、陛下」
ロトがやれやれとため息をつく。シンハは肩を竦めた。
「仕方ないだろう、あいつは子供だぞ」
「……へえ、じゃあ私より年長の国王陛下はどうなるんでしょうねぇ」
ロトはしらっと言い、わざとらしくトントンと腰を叩いた。
「私なんかもう腰に来てるみたいですけど、陛下の方が若いんですかね。不思議だなぁ」
「分かった分かった、真面目に働くからそう恨みがましい顔をするなよ」
「早くそう言えばいいんですよ。ほら、シャベル」
途端にロトはしゃんとして、シンハに自分のシャベルを押し付けた。シンハは苦笑し、まだ雪だるまの列を盛装させているリーファを呼び戻した。
「リー! 手伝ってくれ」
「わかった!」
すぐに気持ち良く答え、リーファが駆けてくる。ロトが嬉しそうに「素直だね」と褒めたが、もちろん当てこすりだ。むっつりしたシンハを尻目に、ロトはリーファを連れて、倉庫へ余分のシャベルを取りに行く。
「いつも、雪……ええと、どのぐらい?」
「そうしょっちゅうじゃないけどね。ひと冬に五、六回はこのぐらい積もるかな」
「『このぐらい積もる』……少ない時もある?」
「もちろん。うっすら積もるのはしょっちゅうだよ。年によったら冬中ずっと雪が消えないままってこともある」
そんなおしゃべりをしながらも、二人は道具を取り、早速仕事にかかる。リーファは自分にも手伝いが出来るのが嬉しくて張り切っていた。そもそもが、じっとしているよりも体を動かす方が好きなのだ。
そうしてしばらくせっせと雪をかいて道を作っていると、いきなり頭にぱふんと雪玉がぶつけられた。びっくりして顔を上げると、さっと誰かが雪だるまの陰に隠れた。
が、何しろ大のおとなである。どうしたって姿が見える。
「シンハ……何やってんだ」
呆れ口調に、仕事しろよ、とにじませる。シンハはひょこっと悪びれない顔を見せ、またひとつ雪玉を投げてきた。リーファが難なく避けると、今度はロトの背中に命中した。
「……陛下」
ゆらりと不吉な気配を漂わせてロトが振り返る。シンハはわざとらしくたじろぎ、それからリーファに向かってニヤッとした。
「もうひとつ、『雪合戦』って言葉もあるんだぞ」
「雪がっせん?」
リーファが聞き返すと同時に、シンハの顔面で雪玉が炸裂した。さしものシンハもうっぷと息を詰まらせ、大慌てで雪を払う。
「ロト! いくらなんでも、顔はない」
だろう、と言いかけたところへ、さらにもう一発。頭を雪まみれにされ、シンハはとうとう雪だるまの陰から躍り出て、ロトに飛びかかった。もちろんロトは一足早く逃げ出している。
走ったり隠れたりしながら雪玉をぶつけあう二人の姿に、他の者も気が付いてわっと参戦した。
ぽかんとしながら見ていたリーファも、すぐににんまりして雪玉を作りにかかる。
「なるほど、『雪合戦』ね。よーし、行くぞぉー!」
わあっと声を上げ、両腕に雪玉を抱えて走りだす。
「そぉれ!」
「うわ、ちょっと待てリー! わっぷ!」
「いいぞ、そこだ!……っ痛! この野郎!」
もはや真面目に雪かきしている者など一人もいない。リーファは誰彼構わず大量にぶつけてやったが、雪遊びに不慣れなもので、ぶつけられた量も半端ではなかった。
結局、集中砲火を浴びた国王がヤケを起こして雪だるまを投げようとしたところで停戦が成立し、息を切らせた一同はてんでにそこらで座り込んでしまった。
リーファも雪の上にひっくり返って、息を弾ませながら笑っていた。見上げる空が、いつの間にかすっかり晴れている。風は冷たいが、体が火照って寒さを感じなかった。
背中を柔らかく包み込む雪の感触が心地良い。リーファは目を瞑り、その優しさにしばし身を委ねた。
この雪は、故郷の雪とは違うのかもしれない。だからこんなに……
「寝るな。埋めるぞ」
言われて慌てて跳び起きると、案の定、シンハが笑っていた。彼は大きな手でリーファの頭についた雪を払うと、そら、と湯気の立つマグカップを差し出した。
リーファは驚きながらそれを受け取り、首を伸ばしてシンハの背後を覗き込んだ。女中が二人、大きなポットと幾つものカップを持って、呆れ半分、慈愛半分の苦笑を浮かべている。
「毎年、最初の雪が積もる度にこれだもの。後でちゃんと乾いた服に着替えて下さいましよ、陛下」
「リーファも、そのままでいちゃ駄目よ。汗が冷える前に着替えなさいね」
二人は口々に言って、次の『大きな子供』のところへ歩きだす。リーファはその背中に向かって礼を言い、マグカップに口をつけた。果汁とスパイス入りの熱いワインだ。
一口すすると、体中にほっと温もりが広がった。
「うわ、うまーい」
「美味しい、と言えよ」
「『うまい』って感じなんだよ」
生意気に言い返し、リーファはもう一口すする。横でシンハも雪の上に座り、ワインを飲んでいる。リーファはふと思いつき、ごそごそ動いてシンハの足に尻を乗せた。
「おいこら」
「だって濡れるから」
「俺の足は濡れてもいいのか? こら、どけ」
文句を言いながらも、シンハは足を動かすでもなく、苦笑しているだけだ。リーファも笑みを返し、それからぐるりを見回した。
庭の雪はさんざん遊んだせいでもうだいぶ汚れており、日の当たる場所では溶け始めていた。また積もらないかな、とごく自然に考え、リーファは不意に悟った。
「あ、そうか」
いきなりそれだけ呟いたリーファに、頭の上からシンハが怪訝そうな目を向ける。
しばしの沈黙。
「どうした?」
問うた言葉は、リーファの母国語だった。何か、不慣れな言葉では説明しづらい事ではないかと思ったのだろう。そのさりげない優しさが胸に沁みて、リーファは危うく涙ぐみそうになった。慌てて顔を伏せ、なんでもない、と首を振る。
雪が違うのではない。
着ている服が厚い毛織りだからでも、靴が丈夫だからでも、隙間風の入らない家に住んでいるからでもない。もちろん、それも大事なことなのだろうけれど。
(人が違うからなんだ)
雪が楽しいと思えるのは、今、この人たちと一緒にいるから。
いい年をして子供のようにはしゃぐ国王と、文句を言いつつも一緒になって遊んでしまう人と、そんな彼らに熱い飲み物を用意してくれる人と。
――それはきっと、とても幸せなことなのだ。
じんわりと胸に広がる実感は、どこまでも温かくて。
「リー、いい加減にどいてくれ」
そうは言われても素直には離れ難く、結局リーファは、カップが空になるまでそのままシンハにくっついていたのだった。
(終)