見る人のなくとも花の咲く(後)
いつの間にかシンハが最後に着席し、晩餐が始まっていたが、リーファは完全にミナの虜にされており、まわりに気を配る余裕もほとんどなかった。もちろん、料理を楽しむどころではない。
みっともない失敗をしないように気をつけながら、急流のごとく続く会話の合間を縫って、小鳥のように料理をついばむのが精一杯。どのみち味もろくろく分からないので、料理が残っていても、次の皿を召使が運んで来たら、どんどん下げて貰った。決して進行は速くなかったが、それでも、そうしなければ食べかけの皿がたまる一方なのだ。
(あああ勿体ねえ)
食べ残しをするなど、リーファにとっては許しがたい罪悪だ。が、しかし、今この状況では他に選択肢はない。リーファは涙を飲んで、ひたすらミナの相手を続けた。
ええ、実際はそんなに危険なことはありませんよ。退屈な仕事の方が多いんです……落とし物の管理だとか、酔っ払いを家まで連れて行ったりとか……はい、立ち回りを演じることなど滅多にありませんね。そうです……
にこにこにこ。愛想笑いで頬が痛くなってくる。
食事が終わる頃には、リーファの忍耐力はほぼ払底しかけていた。どうかこれで解放してくれますように、と願いながら、伯爵が席を立つのを待つ。
国王が席を立ったのを皮切りに、賓客たちが三々五々、小さな集団に分かれて大広間を出て行く。やがて伯爵もそれにならった。小さな令嬢も、父親の差し出した手に手を添えて、軽やかに椅子から降りる。
ホッとしてリーファも腰を上げ、それでは、と暇を告げようとした。が、素早くミナが袖を掴んだ。
「さあリーファ、あちらにはお茶と砂糖菓子も用意してあるのよ。行きましょう」
しまった。
とは思えど、それを顔に出すことも出来ない。リーファは苦笑し、ちょっと身を屈めた。
「お嬢様、お誘いは大変ありがたいのですが、私ごとき卑しい身がこれ以上皆様とご一緒するのは憚られます。名残は尽きませんが、今宵はこれで……」
「駄目よ!」
ミナは強い口調で言ってから、はっと何かに気付いたように息を飲み、それからもじもじと上目遣いになって言い直した。
「ごめんなさい。でも、もうちょっとだけ一緒にいて?」
狙ってしおらしく装っているのではないらしい。本当に別れがたく、また一人にされるのを不安に感じているのが、その目の頼りなさから察せられる。
これではとても敵わない。リーファはやれやれと小さなため息をつき、愛想でない、本物の微笑を浮かべた。
「……承知しました。少しだけ、ですよ」
途端にミナはぱっと笑顔になって、リーファを早く早くと急き立てた。
ホールにはミナが言った通り、紅茶や甘いワイン、砂糖菓子や練り粉菓子などが、軽いデザートとして用意されていた。貴人達はそれぞれ手持ち無沙汰をごまかすために何がしか飲み物などを取り、情報交換と根回しに精を出している。
まあ、こういう状況ならミナと二人で隅っこにしけこんでも構うまい。そう考えて、リーファは少し肩の力を抜いた。リュード伯も同じく考えたようで、リーファに会釈して娘の手を離し、ひとつの集団に足を向けた。
「それじゃ、どのテーブルから襲撃しましょうか」
リーファがおどけてミナにささやいた、その時。
「こちらにおいででしたか」
不意に人の近付く気配がしたと思った途端、ねちっこく甘ったるい声が、耳に生温い息を吹きかけた。リーファはぎょっとなって、弾かれたように背を伸ばし、咄嗟にミナを庇うようにして振り返る。
大袈裟な反応に驚いた顔をして、どこぞの貴族のお坊ちゃんが立っていた。
(えーと誰だっけコイツは)
なんとか思い出そうとしたものの、一度に大勢の顔を見、名前を聞いたもので、どうにもこんがらかって答えが見付からない。
リーファが困っている隙に、青年はすっと一歩近寄り、彼女の背に腕を回して抱き寄せた。
「貴方ほどの方が、何を恐れてこのような隅に息を潜めておいでです。美しい花は人々に愛でられてこそ価値があるというもの。さあ、こちらへ」
「勿体無いお言葉、恐れ入ります」
ぞわぞわ悪寒が走るのを堪えながら、どうにかリーファは表情を取り繕った。既にミナ相手に忍耐力を使い果たしかけているのだ、これ以上は勘弁してもらいたい。
「ですが、みすぼらしい野辺の花が皆様の間に割り込んでは、場を汚すことになります。ご容赦を」
精一杯遠回しの拒絶を、しかし青年はまるで取り合わなかった。くすくす笑ってさらにリーファを身近に抱き寄せると、わざと耳元に口を寄せ、触れんばかりにしてささやく。
「知らないようだから教えてあげよう。国王の愛人というのは、決して卑しいものではないよ。むしろ胸を張って誇るべきことだ。じきに君も、名家の跡取りを夫にすることが出来るよ……私のような、ね」
「…………」
ぴき。
リーファの中で何かにひびが入った。微笑を凍りつかせ、素早く青年の小手を取って自分の腰から引き剥がす。あくまでさりげなく、痛めつけないように注意しながら。警備隊員の身のこなしをなめて貰っては困るのである。
「何か、勘違いをなさっておいでのようですね」
にっこりと、あくまで笑みを崩さずに、しかし声には怒気を滲ませてリーファが言う。様子が変だと気付いたリュード伯がこちらを振り向き、人の海の向こうからシンハその人も視線を寄越してきた。
が、青年貴族はリーファの反応に驚くばかりで、密かな警戒の視線に気付いてもいない。きょとんとして、つかまれたまま何故かふりほどけない自分の手に困惑し、それでも体面を保とうと平静を装っている。
「私は親切で教えてあげているんだよ。君はいずれ陛下の寵愛を失う。陛下もそれを承知で君を一時の慰めにしているだけだ」
小声でささやきながら、なおもしつこくリーファににじり寄る。相手の顔が、いまやはっきりと嫌悪に歪んでいるのも構わずに。
「あんな男よりも私の方が、君を幸せにしてあげられる……」
「っざけんな!!」
直後、ホールに怒声が響き渡った。ざわめきが一瞬でぴたりと止み、すべての視線がリーファに集まる。だがむろん、今更リーファも引けるわけがなかった。青年の手をねじ上げて痛めつけながら、その半泣き顔に言葉を叩きつける。
「あいつよりいい男がいてたまるか!! おととい来やがれ色ボケ小僧!!」
言葉尻で、ねじ上げた手をぐるんと回し、素早く足を払って、青年を床に叩き伏せる。ドダン、と鈍い音を立てて青年がひっくり返ると、リーファはフンと鼻を鳴らして肩にかかった髪を払った。
そのまま彼女は挑むようにその場の面々を見回すと、
「お騒がせしました。失礼!」
背筋をぴんと伸ばしたまま、ずかずかと大股にホールを出て行ったのだった。
――そんなわけで、後刻。
「おいリーファ」
「……ほっといてくれ……今すっげえ落ち込んでんだからよ……」
なぜか国王の私室でソファに突っ伏すリーファに、部屋の主は苦笑するしかなかった。
「落ち込む必要はないさ。あの『色ボケ小僧』の手の早さは有名だからな、誰もが事情を正確に察しただろう。おまえが代わりに怒鳴ってくれたおかげで、俺が口を出して問題を大きくすることにもならなかった。あの小僧は恥をかかされたが、それだけだ。大して影響はない。だから、いい加減に顔を上げろよ」
「うー……」
諭されて、リーファはもそりと起き上がる。くしゃくしゃになったドレスを手で伸ばし、情けない顔でシンハを見上げた。
「ごめんな。本当に、最後まで我慢しなきゃいけなかったのに」
「それはもういい。実際、おまえの振る舞いに溜飲を下げたご婦人方も多かろうさ。ミナがすっかり感動していたぞ」
「うあ、やべえ。変な言葉、覚えてなきゃいいけど」
「たまには伯爵も困ればいい。それより、怒鳴って落ち込んで喉が渇いたろう」
シンハは軽く笑ってリーファの心配をいなし、冷たい水をコップに注いで差し出す。リーファは礼を言って受け取ると、半分ばかり一息に飲み乾した。
そこでふと彼女は自分のドレスに目を落とし、おや、と気付いて、改めてシンハを見上げた。
「そう言えばおまえ、オレのこの格好のこと、何にも言わねえのな」
「うん? ああ、よく似合ってるぞ」
今更ながら、シンハがおざなりに褒める。
「すげえ気のない褒め方だな」
リーファは眉を上げ、立ち上がってドレスの形を整えた。しげしげと、袖口の刺繍や、たっぷりした襞の作る艶やかな陰影を眺める。いかにも高貴さの漂う一着だ。着ている人間を一段も二段も上等に見せてくれること請け合いの。
「こんなの着たことねーから、変な感じだけど……ロトはぽかんとしてたし、ミナにはえらく感激されたし、伯爵まで――そりゃお世辞だろうけど――褒めてくれたんだぜ。おかげで、変な奴まで寄ってきちまったけど。おまえは特に何とも思わねーのか?」
そう言ってからリーファは己の発言の示唆する内容に気付き、赤くなって慌てて言い足す。いやあの、別に変な意味じゃねーぞっ。
そんな彼女に、シンハはやや驚いた様子で数回瞬きし、それから小さくふきだした。温かくて優しい、深い情のこもった笑いだった。
おどけた仕草で手を伸ばし、こつんとリーファの額を小突く。そうして彼は、にやりともにこりともつかない、微妙な笑みを浮かべて言った。
「おまえほどいい女はいない。……と、知っているからな、俺は。衣装ぐらいで今さら認識は変わらんさ」
「――っ!」
不意打ちをくらってリーファは首まで真っ赤になった。両手でドレスの裾を握り締め、わなわな震えつつ口をぱくぱくさせる。ようやくのこと飛び出した声は、あまりのことに裏返っていた。
「ばっっ、馬鹿野郎ッッ!!! 滅多なこと言うんじゃねえッ!!」
あまりの動転ぶりに、シンハが声を立てて笑い出す。リーファは赤い顔のまま、拳を振り上げて殴りかかった。
「笑い事じゃねーだろっ、この馬鹿! おまっ、そーゆーことは、未来の嫁さんにとっとけ! 分かってんのかっ!」
「おまえこそ、ああいう台詞は未来の夫のために取っておけ。俺を見込んでくれるのは嬉しいがな」
シンハはリーファの拳を片手で受け止めて下ろさせ、空いた片手でいつものようにくしゃりと頭を撫でる。リーファは口をへの字に曲げ、うるせえ、と唸って、下ろされた拳を腹にお見舞いしてやった。
「おまえ以上の奴がこの世にいるわけねーだろ。おまえ、自分が本当に只者じゃねえって自覚してないだろ。そうでなくとも、オレにとっちゃおまえよりいい男なんて、この先よっぽどのことがなきゃ出て来やしねーよ」
「……微妙に意味が分かってないだろう、おまえ……」
「?? なんだよ。本気で言ってるんだぞ」
「ああ、それは分かってる。……まあいいか」
シンハは諦めたように苦笑し、くしゃくしゃとリーファの頭を撫で回した。やめろよ馬鹿、といつもの抗議を聞きながら、彼は少しだけ、本当にほんの少しだけ――寂しそうな目をしていた。そのことに、リーファが気付くことは決してなかったが。
――なお、余談であるが。
「お父様の馬鹿っ! おととい来やがれよっ!!」
「ミナ……そういう言葉遣いは、彼女だけが下品にならずに済むのであって、おまえが使っても見苦しいだけだからやめなさい」
「ごまかさないでっ! お父様のイロイロコゾウっっ!」
「やめなさいと言うのに」
辺境伯の家庭ではしばらく、親子喧嘩が絶えなかったそうである……。
(終)