十二章 最後の試験(2)
本殿の扉は、開け放たれたままだ。その奥の暗がりが、どこかこの世ならぬ場所へと続いているように思われる。
やがて、中から高く澄んだ鐘の音が響いた。
リィー……ン……
それに呼応し、外の神官が鈴を鳴らす。そしてまた、鐘の音。扉の中から、神官たちがゆっくりと一列になって現れる。あるいは鐘を持ち、あるいは歌を歌いながら。
響き合う鐘と鈴の音色に、人の声が薄絹を重ねるように唱和する。徐々にその声が大きくなり、音楽へと移ろってゆく。流れるようにゆったりと、風のように優しく、陽射しのように穏やかに。
旋律が体の芯まで沁みてくる。リーファは茫然と立ち尽くしていた。広場に座する人々の上に、目には見えないが、何かがいることを確信した。神の気配、とでも言うのだろうか。それとも、人々の祈りが生み出すまぼろしなのだろうか。
甘い花の香りが、どこからともなく漂ってくる。リーファは我知らず仰向き、空を見上げていた。
すうっと不思議な感覚が引いて行き、リーファは我に返って辺りを見回した。歌は終わり、鐘と鈴が再び呼び合っている。それもじきに止み、空気はしんと静まった。始まる前のそれとは違う、夢から醒めたような静寂。
やがて人々がざわめきながら立ち上がり、ぞろぞろと移動を始めた。広場の周囲にいる神官たちに祝福を授けてもらい、順序よく帰路につく。
ぽかんとしているリーファの前を、人波が通り過ぎて行く。そこへ、一緒に誘導をしていた若い神官がやって来た。
「お疲れさまでした。あとはもう大丈夫ですよ。帰りは皆、ゆっくりですから」
「あ……、うん、分かった」
リーファはまだぼうっとしたままだったので、敬語も忘れてぞんざいな受け答えをする。神官はちょっと目をしばたたいたが、それについては何も言わなかった。礼儀もしっかり教え込まれているものと見える。
リーファは軽く頭を振り、もう一度、首を巡らせて周囲を確かめた。何も特別なところはない。何も変わっていない。
「礼拝に来たのは初めてだったけど……」
リーファは相手に話しかけ、言葉遣いをどうするか迷ってから、結局いつもの通りで行くことにした。歳もそんなに違わないし、いまさら取り繕うのも妙だ。
「毎回こんな風なのかい?」
「何を指して『こんな風』とおっしゃっているのかにもよりますが、ええ、今日の礼拝もいつもと変わったところはありませんよ」
神官は心持ち面白そうに答えた。異邦人の目にどう映ったのか、好奇心を刺激されたのだろう。リーファはちょっと頭を掻くと、ふうん、と曖昧につぶやいた。
あの不思議な感覚や、花の香りがしたように思ったことなど、誰もがそうなのかと確かめてみたくはあった。が、もしあれが自分だけのことであり……つまり雰囲気に影響されて錯覚しただけなのであれば、かなりばつの悪い思いをすることになる。
リーファは質問を飲み込み、黙ってセレムを待つことにした。
神官はもの問いたげな顔をしたものの詮索はせず、それでは失礼します、と頭を下げて立ち去った。背筋がぴんと伸びた、清々しい後ろ姿だった。
ややあって、人の流れの中にセレムの銀髪も現れた。頭ひとつ抜きん出ているので、よく目立つ。彼はリーファの姿を認めると、手振りで外に出るように示した。
リーファが神殿から出てセレムに追いつくと、彼は学院へと歩きだしながら、早速「どうでした」と訊いてきた。
「毎回行きたいってほどじゃないけど、悪くなかったね」
「それは良かった」
セレムはにこりとして、満足げにうなずいた。何となくリーファは妙な反抗心を抱き、わざと渋面を作って続ける。
「皆が示し合わせたみたいに無言でぞろぞろ動いてるのは、ちょっと不気味だけどね。蟻の行列とか、蜂の巣でも覗いてるみたいだったよ」
失敬な言い草にも、セレムは気を悪くした様子はなく朗らかに笑った。
「それはお互い様でしょう。どんな集団でも、部外者からは異様に見えるものですよ」
「……まあね」
リーファも苦笑し、故郷の教会での礼拝を外から見ていたことを思い出した。リーファは貧民街の生まれ育ちだから、礼拝に参加するどころか入信もしていない。そんな彼女の目には、決まった日の決まった時間に集まる人々が、随分と怪しげに映ったものだ。
リーファは頭を振って過去のまぼろしを追い払い、「それで」とセレムを見上げた。
「試験結果は合格かい?」
「そうですねぇ」
セレムはわざと明後日の方を向いて、おどけた笑みを見せた。焦れったくなるほど間を置いてから、唐突な質問をする。
「試験内容は気に入りましたか?」
「は? 内容って……つまりあの礼拝が、ってことかい?」
魔法学院の門をくぐりながら、セレムが「ええ」とうなずく。リーファは歩きながら変な顔をした。
「だから……悪くなかった、って」
「『悪くない』ですか。困りましたねぇ」
白々しくうーんと唸るセレム。リーファは困惑してしまった。
「気に入らなきゃ駄目なのかよ」
「駄目というわけでは、ないんですが」セレムは尚もとぼける。「この試験には、あなたの能力を評価するという事とは別の目的もありますから、気に入って貰わないと困るんですよ」
「はァ?」
リーファは思わず頓狂な声で聞き返した。セレムは自室の扉を開け、リーファを中に招じ入れると、机の抽斗から一枚の紙片を取り出して見せる。
「さて、これが最後の合格証です。これまでの分は今、持っていますか」
「あ、うん。一、二、三……これで全部だよ」
リーファが合格証を数えて渡そうとすると、セレムはそれを止めた。
「最初から順番に、試験で何をして、何を見たのかを答えてから、渡してください。正規の試験をしなかった三番街と新市街については、除外して構いません」
「……?」
リーファは目をしばたたき、セレムを見つめる。紺碧のまなざしは穏やかながらも真剣そのもので、ふざけた気配はない。仕方なくリーファは言われた通りに、まず一枚目を差し出した。
「これは一番街。リュード伯のお屋敷に入って、ミナの失くし物を見付けるのに、屋根に登ったよ。猫がひなたぼっこしてたっけ。それと、眺めがすごく良かった」
セレムが無言でうなずく。リーファは合格証を机に置き、二枚目を取り上げた。
「二番街。船着き場だね。近くの酒場で酔っ払いの喧嘩を止めた」
記憶が呼び覚まされ、思わずリーファは笑みを浮かべた。
「後でその二人が、本当に喧嘩する予定じゃなかったのについ本気になった、とか言って、いきなり歌い出してさ。結局宴会になっちまったっけ。それで二日酔いに……」
言葉尻で苦笑し、二枚目を差し出す。セレムの手がそれを受け取り、一枚目の横に並べた。インクの筋がつながる。「三枚目も」と催促され、リーファはちょっとそれを眺めてから渡した。態度に出しはしなかったが、胸がざわつくのは抑えられなかった。
「職人街には配属されたかねえなぁ。ラヴァスの奴とは顔を合わせたくないよ。工房がいっぱいあるのは面白かったけど、臭かったしね。ああ、でも」
ラヴァスの冷笑に代わり、元気な少年の顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、あの子に事件の顛末を聞かせてやらなければ。面白おかしく脚色して、あの明けっ広げな笑顔と大きな声で「姉ちゃん、すっげえ」と言わせてやろう。
リーファはそこまで想像して、セレムの興味深げなまなざしに気付き、慌てて咳払いして表情をごまかした。
「さて……四枚目、劇場街。ここは楽しかったな。座長のじいさんが耄碌したふりをして、家を探しながらそこらじゅう歩き回ったっけ。川の土手で茶を飲んだりしてさ」
思い出すと笑いが込み上げる。最後にひょいと杖を担いでスタスタ歩いて行った、あの老人のとぼけっぷりときたら。
「機会があったら、また話をしたいね。それから、ええと、五枚目は……そうそう、司法学院だった。謎解きをやらされて、走り回らされたよ。警備隊の本部と、図書館と、食堂と……木登りもさせられたっけ」
そこでリーファはセレムに目配せした。転落して治療を受けたのは、つい最近のことだ。五枚目を渡し、六枚目も続けて差し出す。放火事件の夜を思い出し、リーファは改めて、大規模な火事にならなくて良かった、と小さな吐息をもらした。
「で、あとはあんたの持ってるその七枚目でおしまいだよ。今さっき終わったところなんだし、これはもう説明しなくていいだろ」
「そうですね。では……」
セレムは机の上に七枚の合格証を広げ、並べてつなげた。複雑に絡み合う蔦のような模様と、びっしり書き込まれた細かい文字が、ひとつの図形を作り出す。
(あれ?)
それを眺め、リーファはふと、何かを思い出した。
(この形……何かに似てる?)
なんだっけ、と訝ったところへ、セレムが言った。
「あなたのことだから、もう気付いているかと思ったんですがね。今答えたことから、この試験に隠されていたもうひとつの目的を、考えてごらんなさい」
「え?」
リーファが聞き返そうとした時には、セレムは小声で呪文を唱えだしていた。長く複雑な呪文の合間に、リーファの名前が挟まる。
やがて図形が輝きだし、七つの紙片そのものもぼんやりと光を帯びて、まるで一枚の紙のように――
(違う、本当につながってる!)
リーファが息を飲むと同時に、パシンと光が白く弾けた。
「さあ、これで合格証が完成しました」
セレムの得意げな声に、リーファは恐る恐る机に近寄る。そこにあったのは、一枚の大きな地図。
「……シエナだ」
リーファは呆然とつぶやいた。何かに似ていると思ったのは、王都シエナの形だったのだ。いびつな円形をした街。放射状に走る街路、ひしめく家々。
ひとつひとつの街区を順に見ていくと、最前セレムに説明した、これまでの試験で目にした光景が、それぞれの場所に応じて鮮やかに見える気がした。実際に映像が浮かび上がっているのではない。だが、脳裏に広がるのだ――伯爵家の屋根からの眺望が、酒場のテーブルやランプが、劇場街の小川が。
(もしかして)
痺れたような頭の隅で、ひとつの考えがぼんやりと形を取り始めていた。
「おめでとう、リーファ。あなた専用の市街地図です」
セレムの声で我に返り、顔を上げる。穏やかな微笑が、もう分かりましたか、と問うていた。リーファは息を飲み、もう一度地図に目を移す。
やはりそうだ、やっと分かった。
「シンハの奴……」
つぶやいた声がかすれた。
間違いない。試験官たちは、それぞれが自分の暮らす街区での『とっておき』を、リーファに見せてくれたのだ。
気持ちのいい景色、居心地の良い酒場。味わいのある街角、治安を守る法と正義と平等精神の象徴。人々の心を支える信仰の場。
そしてそれはもちろん、この追試を計画したシンハからの頼みだったのだろう。
まだこの街をよく知らない、愛着を持つに至らない新参者のために。この街を、好きになれるようにと。
言葉を失って立ち尽くすリーファに、セレムが優しく言った。
「予想外のことが起こって、すべての街区でちゃんとした『試験』を行えなかったのは残念ですが、その地図はあなたが見て回った場所について、特に詳しい情報を与えてくれるものです。これからあなたが自分の足で歩き、その目で見て、地図をより良いものにして行けることを、私も、シンハ様も、願っていますよ」
「…………」
リーファは答えられず、何度も瞬きして、涙がこぼれそうになるのを堪えた。数回深呼吸してから、思い切って手を伸ばし、地図を取る。
「――ありがとう」
なんとかその言葉を押し出すと、リーファは顔を上げ、にっこりした。
「これ、見せてくる」
誰に、とは、言うまでもない。
セレムがうなずくのを待たず、リーファは身を翻していた。
学院の外に飛び出し、まぶしさに目を細める。家々の白壁や石畳の道が輝いて見えるのは、春の陽射しのせいだけだろうか。
若葉の香りを乗せた風を胸いっぱいに吸い込むと、リーファは城を指して走りだした。青空の下、弾むような靴音を響かせて。
(完)
読んで下さり、ありがとうございました。
シリーズで『王都警備隊・2』から4まで、リーファの年齢順に出来事を追った中・長編があります。
少しずつリーファが成長し、人間関係も変化していきますので、もしお気に召しましたら以降の作品にもお付き合い頂けましたら幸いです。
ご感想など一言なりとお聞かせ頂けたら喜びます。