十一章 犯人逮捕(2)
暗がりに入って安心したらしく、男はほっと大きく息をついて立ち止まった。その油断を突き、リーファは素早く躍りかかって背後をとり、喉元に剣を滑り込ませた。片手は男の左腕を取り、先刻噛み付いてやった辺りを強く掴む。
「――――!」
男が押し殺した悲鳴を漏らす。抵抗しようとしたのも一瞬だけで、彼はすぐに右手を挙げた。
「ま……待て、落ち着け。話を……」
「振り向くな」
リーファは低くどすのきいた声を作って命じた。元からかすれ気味の低い声なので、あまり苦労せずにすむのがありがたい。
男の喉仏が、ごくりと上下した。リーファは後ろから男の耳元に口を寄せて囁く。
「貴様がディコンか」
分かっているが確認するだけ、という声音で問うと、男は一拍置いてうなずいた。ごまかしきれないと踏んだらしい。まずは成功。リーファは安堵を隠し、さらに続けた。
「随分と荒稼ぎをしてくれたな」
「な……何の事だ」
「ほかのブツにしときゃあ良かったんだよ。こうもシマを荒らされちゃ、うちも黙って見てるわけにゃいかねえ」
刃をちょいと動かし、脅しをかける。ディコンは息を飲み、ガタガタ震えだした。どうやら狙った通りの誤解をしてくれたようだ。リーファはほくそ笑んだ。
「悪く思うなよ」
「ま、待ってくれ! 頼む、俺は何も……、分かった、手を引く! 手を引くよ! だから勘弁してくれ、命だけは」
ディコンは早口でまくし立てた。リーファは「ふん」と気のない声を洩らしてから、ふと思いついたように装って交渉に入った。
「そうだな、ひとりひとり片付けるのも面倒くせぇ。貴様が出るとこに出て、男爵を片付ける手間を省いてくれるってんなら、この場は見逃してやってもいいが」
そこまで言い、ディコンの気配が露骨に安堵したので、リーファは「いや、やめた」と刃を喉に押し当てた。
「下っ端じゃ役に立たねえな。やっぱり……」
「やめろって! 帳簿の在処も取引相手も知ってる、何でも吐くから助けてくれ!」
ディコンの上ずった叫びが、水道の壁に反響する。リーファは厨房の物音に耳を澄ませ、気付かれていないことを確かめてから腕を離した。刃はまだ当てたまま、すっと一歩下がる。
「よし……そのまま歩け。ゆっくりだぞ、切れちまったら困るだろう。振り向くなよ」
「わ、分かってるよ」
ディコンはうなずくと、そろそろと歩きだした。リーファも影のように後からついていく。庭の噴水下に着くと、リーファは「上がれ」と短く命令した。
「ちょうどいい具合に、外に警備隊がいる。とっとと行け」
喉元から刃を離してやると、ディコンは腰が抜けたのか、ふらっと前にのめって階段に両手をついた。リーファは暗がりに身を隠したまま、用心深くそれを見守る。
「なあ、ひとつ教えてくれ。あんた一体、どこの者なんだ」
ディコンは四つん這いのまま、つぶやくように問うた。リーファは思わず苦笑をこぼしかけ、慌てて口元を引き締めた。答えようのない質問は無視し、どうとでも解釈できるように平坦な声音で応じた。
「忘れるなよ、貴様を見ているのは一人だけじゃない……」
ささやくような語尾が、不吉な響きを残して闇に消える。ディコンは憔悴した顔で振り向いたが、もちろんその時には、リーファは暗い水路の奥へと姿を消していた。
公的には、リーファには何の手柄も認められなかった。
ディナル隊長率いる警備隊が放火犯を捜索中、たまたまその当人がふらふらしている所を発見。本部で取り調べたところ、出るわ出るわの埃だらけ。
折よく『ミサゴ』とその乗組員を捕えられた事もあり、芋蔓式に塩の密売から男爵のたくらみまでが明るみに出て、ディコンを含む十数人の関係者が王都からの終身追放となった。
トニスについては情状酌量され、更生の余地は充分あるということで、救済をかねた軽い刑罰で済まされた。すなわち道路掃除である。
一連の裁判を経て最終的に、総元締めであるファロス男爵家は取り潰しとなった。
男爵本人は絞首刑に処するところを、家族に免じて助命。財産をすべて没収した上で北方の小さな土地に移り住ませ、終生その地を離れることを禁じた。
「まさか、あいつ一人からここまで引き出せるとはねぇ」
リーファはワインのグラスを片手に、ご機嫌な声で言った。
迅速な裁判が終わって数日後、シンハが約束通り御馳走を用意してくれたのだ。新鮮なチーズを使ったサラダや子羊の香草焼きなど、まるで祭日のような献立。同席しているのはシンハとロトだけで、気を遣わねばならない相手がいないのが嬉しかった。
シンハが向かいの席からワインのお代わりを注ぎ、にやりとした。
「お前が使った魔法を、ぜひとも知りたいもんだな。ディナルが渋面になってたぞ。ディコンの奴、気の毒なほど怯えて、一日も早く裁判を終わらせてくれと泣きついたらしい。訊かぬはしからべらべらしゃべりまくって、調書を取るのが追いつかなかったとか」
「魔法なんてもんじゃねえよ。ちょっと脅かしてやっただけさ。王都にはもーっと怖くて腹黒い大物がいるんだぞ、シマを荒らしたら命の保証はしないぞー、ってね」
リーファは鼻高々に答えて、料理を口に運ぶ。その様子にロトが苦笑した。
「よっぽど真に迫った演技をしたようだね?」
「まあね」
ぐふ、とリーファは堪え切れずにふきだした。ひとしきりくすくす笑ってから、下水道でのやりとりをかいつまんで説明し、それからとうとう、げらげら笑い出した。
「それでさ、やっぱりそれだけじゃ弱いだろ? だから後で、駄目押ししてやったんだ。夜中に留置所に忍び込んで、あいつの枕元に意味深な合図を残してやったり、取り調べされてる部屋の窓から、あいつにだけ見えるようにちらっと人影を見せたり。いやぁ、てきめんだね! 面白ぇぐらい青くなってやがんの」
あはは、と大笑いするリーファに、シンハとロトは複雑な顔を見合わせた。
「……おまえ、それは外では言うなよ」
釘を刺したシンハに、リーファは「わぁかってるよぉ」と浮かれ口調で応じる。そろそろ頭にブドウ色の靄がかかってきたようだ。
「陛下、リーが本格的に酔っ払う前に、渡しておいた方がいいんじゃありませんか」
ロトが苦笑まじりに言い、シンハに目配せする。リーファがきょとんとしている前で、シンハは一枚の紙をテーブルの上に置いた。
「ごたごたしていて遅くなったが、六番隊、新市街の試験官からの合格証だ。いち早く放火に気付いた功を認めて、ということだ」
リーファは曖昧な表情でグラスを置き、紙片を受け取って開いた。紙質もインクの色も、描かれている模様も同じ。間違いなく合格証だ。これで六枚。今までに手に入れたものを頭の中でつなぎ合わせてみると、なんとなくその正体が見えてきた。
「最後の一枚は、フィアナかセレムが持ってるんだろ。違うかい?」
「ご明察」シンハが笑った。「明日あたり、セレムのところに行って来い。もう試験の必要もないだろうが、一応な」
「やっぱりな。三枚ぐらい手に入れた辺りで、どこをどうつなげても知ってる模様や文字になりそうにないって気が付いて、おかしいなと思ったんだ。魔術の……あれ、なんていうんだっけ? なんかぐねぐね色々描く模様だろ、これ」
「魔法円だ。つなぎあわせてすぐ正体がばれるようじゃ、集める楽しみがないだろう?」
シンハがとぼけて言う。リーファは「まあね」と苦笑し、合格証を腰の袋にしまった。
「それで、『もう試験の必要もないだろうが』ってのは? ディナルのおっさんが何か言ってきたのかい」
その質問に答えたのはロトだった。
「実質的にディコンを捕えたのは、君だからね。トニスを見付けたのは偶然だったにしろ、試験とはかかわりのない事柄までよく観察しているという事は、ディナル隊長も認めたよ。君ほど、あー……隠密行動の巧みな警備隊員もいないしね」
言い淀んだ箇所は、ディナルの口から出た時はもっと辛辣な表現だったに違いない。リーファは渋い顔をしたが、あえてそこは突っ込まずにおいた。ロトが苦笑し、肩を竦めて続ける。
「ただ、貴族の屋敷に侵入する、なんていうのは、君が警備隊員ではないからこそ出来たわけで、正式に採用したら君をどう位置付けるか、どのように使うか、頭を悩ますことになりそうだとも言っていたよ」
「へえ、あのおっさんにも一応、悩ますほどの頭があったんだ」
リーファは皮肉で応じ、口をへの字に曲げた。もちろん本気ではないが、こちとら散々けなしまくられているのだから、この程度の陰口は許されて然るべきだろう。
彼女の心情を察し、シンハが思いやるようにしみじみと言った。
「その熊オヤジと、うまく折り合いをつける術を学ばないとな。長い付き合いになるぞ」
「…………」
さしものリーファも言い返せず沈黙する。深いため息をついてから顔を上げ、ぱくぱく食べ始めた。
「やめたやめた、あんなクソオヤジの話で、せっかくの料理を不味くしちゃ、もったいない。シンハ、それ食わねえんだったら貰うぞ」
フォークで指され、シンハは呆れ顔をしたものの、自分の皿をリーファに回してやった。元々彼は自分が食べるよりも、他人が喜んで食べる姿を見るのが好きなのだ。
「よく食べるねぇ」
ロトが感心する。リーファは厭味かと問うように眉を上げたが、彼の表情に羨ましげなものを見て取り、にやりとした。
「誰かさんと違って、胃が丈夫なんでね」
「僕にもその強さがあればと思うよ」
ふう、とため息。二人の会話に、シンハが落ち着かなくなって身じろぎした。何か話題をそらせようとして口を開き……ふと、思いついたように微笑む。
「そうだな。リーならどこで、誰とでも、やっていけるだろう」
「だからって追い出されちゃ困るよ」
リーファは複雑な顔をする。シンハは「そうじゃない」と首を振ったが、それ以上の説明はしなかった。そのまなざしの優しさに、リーファは照れ臭くなってうつむく。
どこで、誰とでも。
――ここで、彼らとでも。
そう、本来リーファにとってここは故郷でなく、彼らは見知らぬ異邦人だった。それでも、ちゃんとやって来られた。これからも、やって行けるだろう。
そうした信頼が伝わってきて、リーファは無意味に皿の料理をつつき回した。
長い穏やかな静寂の後、ようやく彼女が口に出せたのは、「うん」という小さなつぶやきだけだった。