二章 お貴族様の事情(1)
二章
一番隊の担当する街区は、城の敷地に隣接する王都の北東部分である。
最北の高台には街の生活用水を賄う貯水塔がそびえ立ち、中央大広場に接する南端には、議会や裁判の場となる市庁舎がある。その間を埋めるのは主に貴族の屋敷だ。
「でっけえ家だなぁ……」
化粧漆喰の白壁がまぶしい。リーファは街路に佇み、しみじみつぶやいた。
「金ってのは、ある所にはどんどん集まるんだよな」
そしてない所には、一向に寄り付かないものなんである。リーファは自分の懐具合を思い出して、一抹の侘しさに遠い目をした。
レズリア国の貴族たちは、普段はそれぞれの領地に暮らしているが、定期的に王都へ上り、国王に伺候しなければならない。忠誠の証を立てるためと、実際的な政務の必要上からである。
貴族の当主がいない間、館は名代として遣わされた者が管理している。たいていは当主にごく近い血縁者だ。
そんなわけで、付近一帯は広々とした敷地に瀟洒な建物、斬新美麗な庭園が続き、街路の隅にゴミが落ちているということもない。絵に描いたような美しい町並みだ。
さて、この区画のどこに試験官がいるのか。
リーファはすれ違う人々を観察しながら、ゆっくりと巡回を始めた。
館の使用人がせわしなく行き交い、時々貴族の誰かを乗せた馬車がガタゴトと通り過ぎて行く。
王都シエナは、城が建つ丘の南の裾野に広がっている。そのため、城に近い屋敷街はゆるやかな斜面に立地しており、自然と他の街区を見下ろす格好になっている。そんな辺りにも、階級の違いがあらわれているわけだ。
てくてく歩き続けたが、なかなか試験官らしき人物には出くわさない。うららかな春の陽射しとともに、時間だけが移ろっていく。
いつしかリーファは目的を忘れて、それぞれの屋敷をじっくりと観察していた。
繊細な装飾があちこちに施されたひとつの館は、庭一面に多種多様な薔薇がこれでもかと植えられており、門扉の上にも蔓薔薇のアーチが出来ていた。
ちょうど花の季節なので、華やかな色彩と甘い香りが一帯にあふれている。
とは言え、リーファが考えたのは別のことだった。
(ふーん、ここは侵入しやすそうだな)
柵には蔓薔薇が這わせてあるが、隙間がないわけではない。忍び返しも控えめだし、多少の引っ掻き傷を覚悟すれば乗り越えられるだろう。
庭に入れば、所狭しと植えられた薔薇が、身を隠す格好の遮蔽物になる。リーファは外から観察して侵入経路を考え、それからふと苦笑した。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだ。
そのまま薔薇屋敷を通り過ぎかけた時、一人の男が庭を眺めているのに気付き、リーファは足を止めた。
(園丁かな?)
それにしては妙な気もする。小柄なのに人目を憚るような猫背で、暗い金髪の頭はぼさぼさだ。服も汚れて継ぎ当てだらけ。屋敷付きの園丁なら、もう少しましな格好をしているだろう。
「なあ、そこのあんた」
軽い口調で声をかけると、相手はぎょっとして身を竦ませ、きょろきょろした。他の人影がないと分かると、自分の事かと問うように、おずおずとこちらを窺う。
「何やってるんだ?」
リーファがゆっくり歩み寄りながら問うと、男は目をそらして口ごもった。
「いや、あの……あんまり、見事な薔薇なんで……つい」
「確かにね。もしかして、花が欲しいのかい?」
言いながらリーファが遠慮なく男を観察すると、相手は縮こまって「はぁ」とうなずいた。
「花一輪でも勝手に取ってったんじゃ、騒ぎになりかねないだろ。欲しけりゃ館の誰かに頼んでみなよ。これだけ咲いてるんだから、頼めばケチったりはしないさ」
たぶんね。リーファは内心でそう付け足し、通用門があるのはどっちかな、と左右を見渡した。なんなら一緒に頼んでやろうか、と言うつもりだったのだ。しかし、
「い、いいんですもう、お構いなく」
慌てて男はそれだけ言い、ばたばたと走り去ってしまった。
「……なんだかね」
内気な花泥棒もいたもんだ、とリーファは首を傾げる。
念のために男が立っていた辺りを観察してみたが、これといって不審な点はなかったので、そのまま巡回を続けることにした。少なくとも、あれが試験官だということはないだろう。
次に通りかかった館は、無骨だが落ち着いた雰囲気があった。こちらは主の趣味か、あまり植え込みがないので侵入しにくい。身を隠せないし、樹木や蔦を利用して階上の窓にとりつくことができないからだ。
(んー……ああでも、そうだな、裏なら行けるかもしれない。夜間ならあそこの壁から……)
物騒なことを考えつつ、正面の門に差しかかる。衛兵が二人、リーファの制服を認めて軽く敬礼した。
「ご苦労さん」
リーファも礼を返し、そのまま行き過ぎようとした。が、その時。
「警備隊員に女がいたってのは聞かないけど……」
門衛の一人が遠慮がちに声をかけてきた。リーファは足を止め、くるりと向き直る。
「時間が空いてるなら、お嬢様の相談に乗って差し上げてくれないかな」
「そりゃ、構わないけど」これが試験なのかな?「ただオレは、警備隊の制服は着てるけど、その……見習いみたいなもんで、何の権限もないんだよ。それでも良ければ」
用心深く答えたリーファに、門衛は鷹揚な笑みを見せた。
「いや、そんなに大事じゃないんだ。ただどうも、男には話せないそうで」
「……はァ」
なんだそりゃ、とリーファは目をぱちくりさせた。
門衛に案内されて館に入ると、召使が来て引き継いでくれた。広いホールを横切り、居間に通される。
立ったまま待っていると、じきに明るい色彩のドレスを着た少女が一人、ぱたぱた小走りにやって来た。貴族の令嬢にしては元気がいい。まだ十一、二歳といったところだろう。
「あなたがリーファ?」
開口一番そう言われ、おや、とリーファは軽く目をみはった。まだ自分はこの館の誰にも名乗っていないはずだ。するとこの少女が試験官の一人ということか。
(子供のお守りは苦手なんだよなぁ)
しかしこの際、贅沢は言っていられない。リーファは急ごしらえの見えない礼服を素早く身にまとった。
「そうです。何かご相談があると伺いましたが?」
少女の機嫌を損ねないように、膝を折って視線を合わせる。少女は尊大にソファを指してリーファを座らせ、自分も向かいにぽすんと腰を下ろした。
「さてと。私はミナ=リュードよ。頼みたい事っていうのは、つまりその……ある物を取ってきてほしいの」
さも重大事のように切り出したミナに、リーファは感情をあらわさないまま、小さくうなずいて先を促した。ミナは声をひそめ、ためらいがちに続ける。
「鳥か猫が、屋根の上に持って行ってしまったみたいなの。とても大事な物なんだけど」
「どんな物なんですか」
「絶対に秘密にしてくれる?」
「誓って」
「じゃあね……」
ひそひそ、と打ち明けられた内容に思わずリーファは笑いかけ、慌てて真顔を取り繕った。そして、お任せ下さい、とうなずく。
ミナはほっとした表情になり、彼女を自室のバルコニーまで連れて行った。
「時々ここから猫が出入りしてるの。この上辺りだと思うんだけど、梯子がいるかしら」
「ああ、このぐらいなら大丈夫ですよ」
リーファは答えると、手摺りに足をかけ、片手で庇をつかみ、ひょいひょいっと身軽く屋根の上に飛び移った。仕事にかかる前に下を覗き込み、目を丸くしているミナにひらひら手を振って見せる。
「さて、と……うっぷ」
立ち上がった途端に吹き付けてきた風に、リーファは顔をしかめた。屋敷も広ければ屋根も広い。突き出た屋根窓の陰に鳥が巣をかけていたり、日当たりのいい場所で猫がうたた寝していたりと、賑やかだ。
リーファは用心しながら、スレートの隙間や鳥の巣を覗いていく。ほどなく目当ての物が見付かった。
屋根窓の桟にひっかかった、きらきら光る小さな瓶。
「あった、あった」
ひょいとつまんで陽にかざす。ミナが言った通り、神殿で売られている恋愛成就のお守りだ。リーファは苦笑をこぼしてから、ベルトにつけた小さな革袋にそれをしまった。
さて戻るか、と体の向きを変えた途端、彼女は目をみはった。
「うっ……わー……」
絶景、という言葉は声にならなかった。ちょうどそこからは、王都がすっきりと一望出来たのだ。
なだらかに下っていく町並みの、屋根、屋根、屋根。南からの風を受けて、館の庭に植えられた木々がざわめき、新緑がきらめく。その風が運ぶ、街の音。人々のおしゃべり、犬や家畜の鳴き声、神殿の鐘。どこかで誰かが歌っている。
無意識に、リーファは腰を下ろしていた。
二人の門衛が小さな玩具のように見える。石畳の白い道が広場へと続き、広場から市門へ、さらに外へと伸びて行く。
壁に囲まれた街の外には、豊かな緑の大地と、悠然たるシャーディン河の流れ。街道を行く荷馬車が蟻のようだ。
「気持ちいいなー」
うん、と深呼吸。それからふと屋根に手をつき、指先が触れた妙な感触に目をぱちくりさせる。はてなと見ると、正体はお菓子のかけらだった。
「ふーん……なるほどね」
指についた蜂蜜の匂いを嗅いで、リーファは一人うなずいた。