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王都警備隊  作者: 風羽洸海
本編
18/36

十章 下町の小火騒ぎ


     十章


 しばらく後、トニスは新市街にある彼のねぐらに帰された。何食わぬ顔で今まで通りに指示を受け、その内容を警備隊の方に流せ、と言い含められて。

 もちろん放免されたわけではない。とぼとぼ歩く彼の後ろから、フードつきの外套で顔を隠した人物がついて行く。臙脂のダブレットを脱ぎ、みすぼらしい古着に着替えたリーファだ。すりきれて脂じみた襟から漂う悪臭に顔をしかめている。垢や汚れのしみついたぼろ着も、足に合わない靴も、かつて馴染んだものだとは言え、二年も離れていた後で旧交を温めたい相手ではない。

「お目付役も楽じゃねえや……」

 ぼそりと独りごち、リーファはため息をついた。

 最初はディナルが、警備隊の誰かを付けると言い張ったのだ。しかしあいにく、職業を悟られず目立たぬよう尾行の出来る隊員はおらず、やむなくリーファが任命されたのである。セレムが守護の術をかけてくれたが、それ以外には何も特別な装備があるでなし。

(用心、用心)

 自分に言い聞かせながら、リーファは昔の勘を呼び戻しつつ歩き続けた。

 新市街は、王都の人口が増えて旧市壁の内側に住まいを得られなくなった人々が、勝手気ままに建てた家々から成っている。

 元の街道――今は大通り――に近い場所は、比較的裕福な者が住み、生業も旧市街の市民と大差ないが、そこから離れてシャーディン河に近付くほどに、建物はみすぼらしく、流れる空気も不穏なものに変わって行く。

 とは言えトニスが住んでいるのは、荒れた地区ではなかった。貧しい者が多いのは確かだが、つましいながらもまっとうな暮らしが営まれている。猥雑な下町といった雰囲気だ。

「よう、トニス。お帰り」

 笑顔で声をかける者もいる。リーファはなるべく人目につかないよう、この界隈を知り尽くした浮浪者を装って、ゆっくり歩き続けた。

 そうこうする内に辿り着いたトニスの家は、こぢんまりとした漆喰塗りの建物だった。元は下宿屋か商店だったようだが、今はすっかり傷んでいる。トニス以外にも多くの住民が、ささやかな屋根を分かち合っているようだった。

 子供たちの騒がしい声、母親が叱る声、酔っ払いの下手な歌。トニスが建て付けの悪い木戸をくぐると、甲高い少女の声がそれを出迎えた。

「あっ、父ちゃん、お帰りぃ」

「帰ったかい、宿六が」女の声が続く。「まったく、どこほっついてたんだい。ちゃんと稼いで来たんだろうね?」

 怒った口調ではあったが、ほんのりと情愛を感じさせる声だ。リーファは少しむず痒い気分になって、家の裏手の路地に入った。壁に背中をつけて座り込み、浮浪者らしく影と一体化する。

 トニスは元々商店の雑役夫だったのだが、店の経営が思わしくなくなった折に解雇され、その後様々な職を転々としたという。伝言配達から蝋燭売り、柩担ぎに船着き場の荷運び、何もなければ物乞いもした。そうしてたまたまディコンという中継役と出会い、悪事の片棒を担ぐはめになったのだ。本人は、神に誓って、初めは何をやらされているのか分からなかった、と言っている。

 家族には、金持ちの旦那の使い走りをしている、と説明してあるらしい。妻も子供たちも、彼の仕事にさして興味があるようではなかった。

 壁越しに家族の会話を聞きながら、リーファは無意識に親指の爪を噛んでいた。

(旅芸人に紛れた売人が外に出たのが一昨日。トニスは多分あの後すぐに、オレから逃げようとして学院に隠れたんだろうから、丸二日行方をくらましたことになる。もしトニスが重要な駒と思われているなら、上の連中も変だと気付いてるかも知れない)

 とすれば、この家が見張られている可能性もある。歩いてきた限りでは、それらしい人影には気付かなかったが、近隣の家から監視されていたらリーファにも分からない。

 と、不意にひんやりした風が足元に流れ込み、リーファは身震いして起き上がった。頭上を仰ぐと、いつの間にか空は灰色の雲に閉ざされている。まずいな、と眉を寄せると同時に、ぽつりと小さな滴が頬に当たった。

「うわ、最悪」

 ひとつ、ふたつと地面に丸い染みがつき、瞬く間にその数が増え、世界の色を暗く変えて行く。あちこちで慌てて鎧戸を閉める音が響いた。路地の左右の家からはわずかばかり庇が出ているが、ほとんど役に立たない。リーファは少しでも濡れないように、立ち上がって壁にへばりついた。

「……やれやれ」

 今頃ディナル隊長は、姪っ子の難儀を思って笑み崩れていることだろう。自分はちゃんとした屋根の下で、温かい紅茶でも飲みながら。

 自分で思い浮かべた図に腹が立ち、リーファは「くそ」と小声で罵った。同時に、誰かが小さく舌打ちする音が聞こえた気がして、リーファはきょろきょろした。すぐ近くに人がいる。壁の向こうからではないし、ましてや反対側の建物の中からでもない。

(近くに潜んでる奴が、ほかにもいるのか……?)

 神経を研ぎ澄まし、気配を探る。だがちょうどその時、木戸の開く音がして、家から人が出てきた。慌ててリーファは素知らぬふりをしたが、何のことはない、トニスだった。

「おい、あんた」

 声をかけられ、リーファは愕然として振り返った。何考えてんだ、と言おうとして口を開けたが、相手の親切そうな顔を見ると罵声を投げつけられず、そのまま口をつぐむ。

「そんなとこじゃ、雨宿りになんねえだろ。入んなよ」

「…………」

 断るのもかえって怪しい。リーファはこちらを窺う視線を意識しつつ、小声でぼそぼそ礼を言って、浮浪者らしく疑り深い様子でトニスの後についていった。

 家の中は乾いて暖かく、リーファはほっと息をついた。

「誰だい、そいつは」

 女が剣呑な声を寄越す。リーファがフードの下からちらりと見ると、大きな腹をした赤毛の女だった。トニスが苦笑して肩を竦める。

「帰って来る時に、そこの路地に転がってるのを見つけたんだ。雨に濡れてあそこでくたばられちゃ、たまんねえからよ」

「そりゃ、そうだけどさ」

 女は不満そうに応じ、やれやれとため息をついて、リーファに向き直った。

「言っとくけど、雨がやんだらすぐ出てってもらうよ。食べ物も寝床も、うちには余分なんかないからね!」

 きつい口調で言い渡され、リーファは黙っておどおどとうなずく。そして、邪魔にならないように隅の壁際でうずくまった。

 幼い少女が古着で作った人形を手に、一人でままごとをしている。もう少し年長の少女は母親の手ほどきを受けながら糸車を回し、階上からは何やらどたばた暴れる音が響く。

 騒々しいが、しかし、平和な世界だ。リーファの生まれ育った環境も過密状態と騒音とは似ていたが、しかしその質は全く異なり、怒声と罵詈雑言、暴力と狂気が渦巻いていた。

 リーファはなんとなくいたたまれず、夕食の用意をする一家に背を向けて寝転がった。

 どうやら束の間、まどろんでしまったらしい。誰かが近付く気配で目を覚ますと同時に、コトン、と何かが頭のそばに置かれた。

「……?」

 体を起こすと、スープの皿だった。リーファが見上げると、トニスの妻が口をひん曲げて立っていた。

「残りもんだよ。捨てるのももったいないからね」

 それだけ言ってくるりと背を向ける。リーファはもそもそと起き上がり、皿を取った。まだ温かい。リーファは女の後ろ姿に向かって礼を言うと、豆のスープをかきこんだ。

 その声で、女はぎょっとしたように振り返った。リーファは慌てて顔を伏せ、スープに没頭しているふりをする。が、無駄だった。女はリーファの頭を両手で挟み、顔を上げさせてまじまじと見つめた。

「あんた、女じゃないか! なんてこった」

 リーファは女の手を振り払い、顔を背けて内心己を呪った。予期せぬ親切に出会って演技を忘れ、普段の声を出してしまうとは。

「ちょいと、どういうわけがあるんだか知らないけど、あんたみたいな娘っこがそんな生活してちゃぁ駄目だよ。神殿にお行き、そうすりゃ少なくとも保護してもらえるんだからね。いいかい、あんたのためだよ。言うことをお聞き」

 女は真剣だ。リーファのことを家出娘だとでも思ったのだろう。浮浪者なら雨の日は神殿に行けば良いことぐらい、知っていて当然だからだ。あえて行かないのは、家畜の群れのように扱われることを嫌う者か、身元を知られたくない家出人や犯罪者だけ。

「あんたが今まで無事だったとしても、それはたまたま、幸運だったってだけだよ。分かったね? 今夜は泊めたげるけど、明日になったら絶対に神殿に行くんだよ」

 しつこく言われて、リーファは黙ってうなずいた。嫌々ながら、という風情を装うのは忘れなかったが。それでも女は一応ほっとしたらしく、ふうっと息をついた。

「あたしもねぇ、親が早くにおっ死んじまってね。着の身着のままで放り出されちまったクチさ。だけどありがたいよね、この国じゃ、ちゃんと神殿が面倒みてくれる。お情けにすがるのは嫌かも知れないけど、そんなこと言ってられるのも、若くて病気してない内だけだよ」

 リーファはまた、無言でうなずいた。女はその沈黙に不服そうな表情を見せたが、それ以上は説教せず、「皿は桶に入れとくんだよ」とだけ言って背を向けた。


 その夜は寝付けなかった。堅い床に毛布一枚敷かずに横たわっているせい、ではない。そこかしこから聞こえるいびきや歯ぎしり、ネズミの足音のせいでもない。

 神経が妙に張りつめていた。気配のひとつひとつ、微かな物音にも敏感になっている。

(あれは何だったんだ……?)

 トニスに呼ばれて正体をつかみ損ねた、誰かの気配。それが不安をかき立てていた。外出した後で、戸締まりや火の始末をきちんと確かめて来なかった、と思い出した時のようだ。引き返したい、時間を巻き戻して確認したい、という焦燥。

 うなじの産毛がチリチリと焼けるような感覚に、リーファは我慢出来ず起き上がった。その瞬間、不安の正体を悟った。

(きな臭い!?)

 はっきりと煙たいほどではない。だが、誰かが火を起こそうとしている匂いだ。湿気てうまく着火しない時の、微かだが明らかな匂い。

 リーファは素早く静かに立ち上がり、物音に耳を澄ませた。戸口も窓もしっかりつっかい棒がしてある。屋内に侵入者があったはずはない。じっと息を殺していると、裏口の方で微かに異質な物音が聞こえた。リーファは猫のようにそっと一歩、踏み出す。

(この格好で、かえって良かったな)

 剣や剣帯の金具はもちろん、飾りボタンも音を立てる。ぼろをまとった今なら、ずっと静かに動くことができた。

 リーファは抜き足差し足で台所に入ったが、灰をかぶせたかまどのそばで眠る誰かにつまずきそうになった。何しろ初めて入る家の中で、しかも明かりはないのである。きわどいところで避けると、悟られなかったかと緊張して気配を探る。じきに外でせわしなく火打ち石を鳴らす音が聞こえ、ホッとした。次いで、

(安心してる場合じゃねえ!)

 リーファはぎくりと身を硬くする。火打ち石の音。それにこの匂い。誰かがこの家に火をつけようとしているのだ。

 悠長に様子を窺っている時ではなかった。リーファは木戸に駆け寄り、つっかい棒を乱暴に外して飛び出した。直後、目の前に炎が立ち上がり、光に目を射られて立ち竦む。

 怯んだのは一瞬だけだったが、手遅れになるには充分だった。リーファを驚かせた松明が、持っていた人間の手を離れ、台所に投げ込まれる。

「火事だッ!」

 大声で叫びながら、リーファは放火魔に飛びかかった。相手が上げた罵りの声で男だと判ったが、顔を確かめる余裕もない。振りほどこうとする腕に思い切り噛み付く。男がギャッと叫び、もう一方の手をさっと腰にやった。

 反射的にリーファは男を離し、飛びすさる。ナイフのきらめきが空を切った。男が身を翻す。リーファは素早く後ろ襟を捕え、引き戻した。

 再び刃が舞う。リーファは身を沈めてかわし、さっと手を伸ばして男の顔に爪を立て、ガリッと引っ掻いた。だが、そこまでだった。三度目に攻撃をかわした時には数歩の距離を空けられており、逃げる男を捕えるには、もう間に合わなかった。

 濡れた路面に炎が映っている。リーファは追跡を諦め、トニスの家に駆け戻った。その時にはもう住人が起き出しており、上を下への大騒動になっていた。

「水だ、水ッ! ぐずぐずすんじゃねえッ!」

「早く外へ出るんだよ! 早く、そらこっち!」

 すぐに近隣の家々も窓や戸口が開き、ぞろぞろと人が出てくる。リーファが驚いている間に、状況を見て取った彼らは、いっせいに動き出した。瞬く間に、桶を持った人々が集まってくる。井戸や貯水槽から人の列がつながり、桶が手から手へと渡されていく。子供たちは外で母親にしがみつき、トニスがその頭を数えて無事を確認していた。

 まるで訓練された軍隊のようなその動きに、リーファはただぽかんとしているしかなかった。幸い発見が早かったおかげもあり、火が消し止められるまでに時間はかからなかった。被害も、台所が少し焼けたものの、死人も怪我人もなし。

 火の粉ひとつ残さず始末したと確かめられると、今度は消火に当たった人々がわいわいと口々に話しだした。やれ、今度はここか、この間はいつだったか、火事場泥棒はいなかったか、なんでここが狙われたんだか。

 助けてくれた人々にトニスと妻が頭を下げているのを見付け、リーファはそちらへ駆け寄った。

「トニス!」

 名前を呼び、腕を掴む。もう他人の振りをしても無駄だ。

「どうやらあんたは見切りをつけられたらしいな。オレは本部に戻って報告してから、あの男を探すよ」

「えっ……おい、行くのか?」

 途端にトニスは心細げな顔をした。赤毛の女が訝る目を向けたが、リーファはそれには答えず、トニスの肩を叩いた。

「ああ。どっちにしろ今のオレは丸腰だし、この格好じゃこそこそすることは出来ても、立ち回りには不利だからね。誰か代わりを寄越してもらうよ。心配しなくても、ちょっとの間さ。それに、今はこれだけ人が集まってるんだ。奴らも無茶は出来ないよ」

 な、と言い聞かせる。横から女が「ちょっと」と口を挟んだ。

「どういうこったい? うちの人が何だって言うのさ」

「ごめん、世話になっといて悪いけど、詳しい話はまだ出来ないんだ」

 リーファは片手で拝む仕草をして詫びる。まだ女が食ってかかりそうな気配を見せたので、慌ててリーファは話を逸らせた。

「だけどすごいな、あっと言う間に皆が集まってさ。こんなに素早く火消しが出来るなんて、驚いたよ」

「当たり前だろ」

 女は呆れつつも、得意げな声で応じた。

「この辺はごみごみしてっからね。火が出たら大事だよ。水道もないし、のんびり火消しが来るのを待ってなんかいられやしない。そうでなくとも宿無しがそこらで勝手に火を焚くんだからさ。自分らの街は、自分らの手で守らなきゃね」

 なるほど、とリーファは感心して、ぐるりを見回す。そろそろぼつぼつと、にわか消防士たちが家に戻り始めていた。寝直すつもりだろう、大欠伸をしている者もいる。

「頼もしいね」

 リーファはそう褒めると、じゃ、と適当にごまかして、女にそれ以上追及されない内に逃げ出した。


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