九章 探し物発見(2)
塔のてっぺんに辿り着く頃には、リーファの足はちゃんと自身を支えられるようになっていた。狭い階段を上り詰めた先にある部屋は、埃っぽいガラクタ置き場になっている。
臙脂色の制服に囲まれて、学長らしき初老の男が腰をさすっており、猫背の男は床に組み伏せられていた。あの大声でのやりとりは、仲間の耳を用心しての演技だったわけだ。
「いやはや。年甲斐もなく隠れんぼなどするものではありませんな」
学長が苦笑しながら言うのが耳に入り、リーファはそちらを振り向く。と、まともに目が合ってしまった。灰緑の目が数回瞬きし、それから柔らかく細められる。
「なるほど。君が隊長の姪御さんだね」
「義理の、ですが」
リーファは白けた口調で応じ、伯父に一瞥をくれた。あちらさんも苦々しい顔だが、お互い様だ。学長は面白そうな表情をしたが、賢明にもそれ以上は言及しなかった。
「見付けて貰えて助かったよ。昨日、君が問題に取りかかったとの知らせを受けて、小生がここに来てみたら……この男がいてね。出て行くように言ったが聞き入れないもので、それならと守衛を呼ぼうとしたのが間違いだった。背中を向けた途端に突き倒されて、後は真っ暗さ。いやまったく、おかげで久々にたっぷり眠れたよ」
皮肉っぽく言った学長の視線の先で、猫背の男が顔を床に押し付けられている。リーファは眉を寄せ、拘束している隊員に「なあ」と声をかけた。
「そこまで手荒にする必要ないだろ? 少し緩めてやれよ」
「ほう、お仲間には優しいんだな」
即座にディナルが厭味をくれる。リーファは辛抱強く冷静な口調を作った。
「顔に痣がついていたら、無事に警備隊の手を逃れたってことにはならないでしょう。仲間に連絡を取らせるのなら、見た目に分かる痕を残すのはまずいと思いますが」
ディナルがぐっと詰まり、シンハが微かに笑みを浮かべる。ディナルが舌打ちして手を振ると、隊員は拘束の手を緩め、男を引き起こして床に座らせた。男はおどおどした目を一同の上に走らせ、リーファのところでそれを止めた。
「やっぱりあんた、本物の警備隊員だったんだな。女がいるわけないと思ったのに……」
「あー、今はまだ本物じゃないんだ。試験中でね」
リーファは肩を竦め、相手の前にしゃがんだ。不可解な顔をした男と向き合い、リーファは上の方から漂う本職たちの不機嫌な気配を感じつつ話を続ける。
「実はオレ、昔はコソ泥だったんでね。心を入れ替えたってのに信じて貰えなくて、試されてるってところかな。あ、そうそう、オレはリーファ。あんたは?」
「……トニス」
なんとなく流されるままに名乗り、彼、トニスはさらに身を縮こまらせた。リーファは相手の怯えた様子を見て取り、ちょっと考えてからシンハを振り返った。
「なあシンハ、こいつが協力してくれたら、いっちょ気前よく恩赦でも出してやってくれねえかな? たまには王様らしい事するのも悪くないだろ」
リーファの台詞にトニスがぎょっとなり、シンハは苦虫を噛み潰した。何人かが失笑し、ごまかすように身じろぎする。
「人聞きの悪い事を言うな」シンハが唸った。「ついでに教えておいてやるが、恩赦というのは罪の確定した者に対して出すものだ」
「へえ、勉強になったよ」
リーファはおどけて言い、「だってさ」とトニスを振り返る。話の流れが見えずに困惑しているトニスに、リーファは噛み砕いて説明した。
「つまり、あんたについてはまだ何も、罪とか罰とか決まってない、ってことさ。あんたの態度次第によっちゃ見逃してもいい、っていうありがたーい仰せだよ」
トニスが目を丸くしてシンハを見上げる。後ろからディナルが棘々しく言った。
「陛下。警備隊の仕事を邪魔せんで頂きたいものですな。このような小悪党に甘い顔をする必要などありませんぞ」
「出来れば俺も邪魔したくはないさ。しかし今回は塩だけでなく、背後に男爵の不穏な動きもある。この街だけの問題じゃない。ちょっとばかり獲物が大きすぎたな」
シンハはいかにもまっとうな意見のように装った皮肉を返し、俺のせいじゃない、と言わんばかりに肩を竦めた。それから彼はトニスに向かって、いつもの調子で話しかけた。
「ファロス男爵に義理立てする理由がないのなら、こちらに協力した方が得だぞ。どうする? まあ、実質的にはほとんど選択の余地はないがな」
「…………な」
答えかけたトニスの声が裏返った。彼は口をパクパクさせ、奥深い緑の眸から逃れようとしてうつむき、次いで上目遣いにリーファを見る。視線で縋りつかれたリーファは同情的な苦笑を返した。怖がる必要はないと言ってやりたかったが、それが何の慰めにもならないことは、彼女にもよく分かっていた。
シンハがその身にまとっている特有の空気は、己の悪事や卑小さを意識している者にとっては、容赦ない威力を持つのだ。彼の前に出ると、すべてを暴かれるように感じられる。それゆえ、胸を張って見せられる己の姿がどこにも見付けられない時、人は彼のまなざしに耐えかねてうつむくのだ。
(ま、こいつにも罪悪感がちゃんとあるって証拠だよな)
この様子なら、裏切られる心配はないだろう。リーファはトニスの肩をぽんと叩き、元気付けるように言った。
「あんたも、今までどのぐらい密売にかかわってきたのか知らないけどさ、ちゃんと清算して、きれいな体で表通りを歩きたいだろ?」
その言葉は、まさに今トニスを支配している望みを言い当てたようだった。トニスは激しく首を縦に振り、餓えたように「何をすればいいんで?」と身を乗り出した。
リーファはにっこりしてシンハとディナルを振り返った。ディナルはむっつりしたまま渋々うなずく。シンハはちらっとおどけた笑みを閃かせてから、トニスに向き直った。
「よし、次の取引の予定は?」
「い、今のところは何も……」途端にトニスは小声になる。
「取引の日時や場所は誰が決めるんだ?」
「知らねえ、です。その、多分、偉いさんだと思いやすけど、薔薇の手入れが合図になってて。あっしはそれを見るまで、なんにも知らされねえから」
ぼそぼそとトニスが説明したところによると、ファロス男爵邸の薔薇園は、どこを手入れするかによって塩の取引を合図しているのだと言う。
白薔薇のところに園丁がいたら、塩が入るというしるし。初めてリーファがトニスを見た時がそうだった。トニスはそれを見て、実質的に密売を取り仕切るディコンという男に伝える。そして、ディコンの指示に従って荷を受け取りに行ったり、取引の場所を探したり、余計な者が近付かぬよう見張ったりしていたらしい。
「要するに一番捕まる危険が高い仕事を、肝心のところは何も知らされずにやらされてたって事じゃないか。いいように使われて、危ねえなぁ、おい」
リーファが呆れる。トニスはしゅんとうなだれ、言い返さなかった。
船着き場へは塩を受け取りに来ていたのだが、リーファの姿を見て露見したと早合点し、船をそのまま出発させた。そして下流の町で塩を下ろし、密かに王都へ戻って職人街の空き家へ運び込んだ後、小売商に卸したわけである。
「じゃあ、劇場街にいたのは?」
リーファが問うと、トニスはぽかんとし、なんだ、とばかり横柄な態度になった。
「あっしを尾けてたんじゃなかったのかい。てっきりバレたもんだと思ったのに」
「偶然だよ。けどま、悪いこた出来ないって証拠だと思いな。で、なんでだい?」
「上から連絡があってよ……警備隊の目が厳しいってんで、今回の荷は半分ぐらい、他の街で売ることになったんだ。それで、旅芸人の一座に売人が何人か潜り込んで、塩を運び出したのさ」
「それは確か二日前だな」シンハがつぶやいた。「売った金はどうしているんだ? 誰かに渡すんだろう」
「へえ、さようで」
またトニスは縮こまる。忙しいことだ。
「あっしの扱った分は、もうディコンが持ってっちまいやした。けど、外に出た連中が戻ってきたら、回収することになってやす」
「いつ?」とシンハ。
「分かりやせん。けど、今までの感じから言えば、明後日ぐれえには合図が出ると思いやす。あの……あっしは、どうすればよろしいんで?」
早く解放されたいらしく、トニスは結論を急かした。シンハとディナルは小声でひそひそと相談を始める。シンハの注視から逃れられただけで、トニスはほっと息をついた。
その間に、学長がリーファの傍らにやってきた。
「リーファ君」
君、などと呼びかけられたのは初めてで、リーファは咄嗟に自分のことだと分からず、目をぱちくりさせた。一拍置いて気付き、慌てて立ち上がる。姿勢を正した彼女に、学長は一枚の紙を差し出した。
「よくここを見付けてくれたね。おめでとう、合格だ」
リーファは中途半端な表情でそれを受け取り、広げて中身を確かめた。彼女があまり喜ばないので、学長は首を傾げた。
「どうかしたかね?」
「いえ、その……本当のとこ、セレムがいなかったら、ここまで来られなかったんです。木のてっぺんから落ちてしまったんで」
きまり悪げな告白に、学長はぽかんとし、次いで驚きに目をむいた。
「大丈夫なのかね?」
「はい、治療はして貰いましたから。でも……だから、本当はこれを貰う資格はないんです。焦って無茶をして、下手したら死んでいたかもしれません」
「その可能性は低いだろう」
口を挟んだのは、ディナルと話していたはずのシンハだった。リーファは即座に抗議すべく振り返った。あれだけ目撃者がいる前での失態にもかかわらず、それを国王の言葉ひとつで無かった事にしようなどとは、横車を通すにもほどがある。
だがシンハは手ぶりで彼女を黙らせ、真顔で続けた。
「学院の守衛が俺たちより先にお前の転落に気付いて、助けを呼びに行こうとしていた。あの状況なら、相当運が悪くない限り命は助かるさ」
「死ななきゃいいって問題じゃねえだろ? オレだって合格証は欲しいよ、でも不正をしてまで警備隊の肩書が欲しいわけじゃない」
「心配するな」
そう言ってシンハは、にこりともにやりともつかない、微妙な笑みを浮かべた。
「合格の条件は、『試験官が警備隊員に相応しいと認めること』だ。失敗したかしなかったかは、必ずしも問題じゃない。本職の警備隊員だってしくじる時はあるんだ」
「そりゃ、そうだけどさ……」
リーファはもぐもぐ言い、どうしたものか決めかねて、手の中の合格証を見下ろした。学長がその肩をぽんと叩く。
「とっておきたまえ。君のその公明正大な態度は警備隊員たるに相応しい。いや、いっそ学院に来てはどうかね?」
途端にディナルが、聞こえよがしに鼻を鳴らす。リーファはそれを無視し、苦笑して答えた。
「やめときます。今から山ほど法令だの判例だのを覚える自信はありませんし、何より、早く……一人前になりたいので」
「そうかい、残念だな」
社交辞令でなく惜しんでいるのが分かる口調だけに、リーファは照れ臭いやら申し訳ないやらでどぎまぎした。そして、話題をそらせようとわざとらしく周囲を見回す。
「そう言えば、この部屋は何なんですか?」
「よくぞ訊いてくれた」途端に学長は得意げに胸を反らせた。「この部屋は学院創立以来の数々の誉れが収められているのだよ。歴代の王から賜った褒賞、表彰の類に、学院の卒業生が授与された勲章もいくつか遺贈されている。それだけでなく、裁判官として高名であった教授に寄せられた感謝の手紙などもね」
得々と語っていた学長は、そこでふと、肩を落とした。
「もっとも今では、小生が年に数回見に来るぐらいで、誰もこの薄暗い部屋に見向きはせんのだが」
その言葉に誰かがふきだした。皆が意外そうに声の主を見る。トニスは注目を集めてばつが悪そうに、しかし笑いたいのを隠し切れない表情で言った。
「あっしらはねぐらにしてやすがね。ここは夏は涼しいし、冬でもそこそこしのぎやすい。その上、滅多に人も来ねえしで、ありがたいんでさぁ」
「む……君、そもそもどこから、この学院に入り込んだのかね」
学長は厳しい表情になったが、トニスは首を竦めて答えない。シンハが苦笑した。
「学生たちでさえ、しょっちゅう抜け出しては酒場や菓子屋にたむろしているんだ。こういう類の人間ならたやすく入れるさ。まぁ、その辺はいずれ詳しく聞かせて貰うんだな。今はひとまず、自分の家に帰って貰おう」