八章 謎は解けるか(1)
八章
城に戻ったリーファは、まっすぐ国王の執務室へ向かった。あの男の正体を確かめないことには、どうにも落ち着かない。
廊下を歩いて行くと、微かに話し声が聞こえてきた。執務室の扉は大抵いつも開け放たれているからだ。
「では、これで取引は成立ですな」
知らない男の声が愛想よく言う。商人かな、と彼女は眉を寄せた。
「結構。約を違えることのないようにな」
応じるシンハの声は、淡々として感情がない。ということは、不機嫌なのか警戒しているのか、どちらかだ。リーファは執務室が見える所まで来ると、壁際に寄って待機した。じきに、太った初老の男がお供を連れて部屋から出てきた。
リーファは優秀な召使たちがよくやるように、壁の一部になってそれをやり過ごす。男はこちらに一瞥もくれなかった。古めかしい宝飾品や随身の様子からして、商人ではなく貴族らしい。
重い足音が遠ざかると、彼女はぱっと壁から離れた。執務室のドアをノックし、立ったままの国王陛下がむっつりした顔で振り向くのを見て、にやりとする。
「嫌な客の後で可愛いお嬢さんが訪ねて来たんだ、ちょっとは嬉しそうな顔をしろよ」
「その娘を紹介してくれたらな。どこにいるんだ?」
シンハは憎まれ口を返したものの、表情を緩めて苦笑した。リーファはそれを許可のしるしと取り、中に入って机の端に腰を下ろす。
「今の、誰だい。貴族みたいだったけど、取引って?」
「聞いていたのか……ファロス男爵だ。リュード伯の隣人で、今回はまぁ……なんというか、金の無心だな」
「金持ちに見えたけど?」
「貴族の見かけは台所事情を反映するとは限らないのさ。春の納税が規定額に満たない分を、直轄地に小作人を提供することで埋め合わせてくれと言ってきた」
やれやれ、とシンハはため息をついて、不愉快な会見の痕跡を消すかのように、机上を片付け始める。リーファは難しそうな顔になった。
「それって、領民にとっちゃいい迷惑じゃねえの? 税が規定に足りないってことは、皆の生活だって苦しいはずじゃないか」
この国の納税は基本的に秋に一回だが、一部の税に関しては調整のため、春にも分けて行われる。補完的な春の納税は概ね小額で、普通なら規定額に満たないことはない。突然の災害に見舞われたとか、税額の算定に手違いがあったとかいうのでない限りは。
「なのに直轄地まで耕せって言われたって……」
「別の方法として、身に着けている宝石を置いて行けばどうかと提案はしたんだが」
シンハは辛辣な笑みを浮かべて言ったが、すぐに小さく首を振った。
「足りない税金を取り立てるか、算定をやり直すのなら、徴税吏を派遣して監査を行えばすむ。だがどうも、奴の狙いは別にあるような気がしてな」
「それであえて取引したってわけだ。でも……何が狙いだって?」
「奴の提案した直轄地は、ちょうどリュード伯の領地との境界だ。ずっと昔に緩衝地帯として定められた地域で、ここに国王軍以外の兵士を置くことは禁じられている」
事もなげに言われたので、リーファがその意味するところを察するまで、しばしの間を要した。
「……って、ちょっと待てよ! 男爵の私兵が鍬を持って駐屯するかも、ってのか?」
「可能性はある。ファロス男爵は以前から何かと、欲の皮の突っ張ったところを見せているからな。リュード伯と確執があるわけじゃないが、近隣の領主相手にせこい小競り合いを起こして、結果、協定に持ち込んでいい土地をせしめてきた男だ」
シンハの声にはもう、嫌悪の情がありありとあらわれていた。
「先に手を打っておかないとな。やれやれ、塩の件だけでも頭が痛いのに」
「あ、そうだ、その事だけど」
本来の用件を思い出し、リーファはぽんと手を打った。
「あのさ、オレに監視ってつけてるか?」
「……何の話だ?」
「つまり、試験官とは別に誰かを監督としてつけてるのか、ってこと。なんかやたらと鉢合わせする奴がいるんだけど」
「少なくとも、俺は知らんな」
シンハは怪訝そうだ。さもありなん、とリーファは頭を掻いた。
「そうか。いや、どうもそいつ、挙動不審でね。塩の件と関係あるかどうかはわからないけど、ただちょっと気になるんだ。呼び止めたら逃げ出したし……」
「何か後ろ暗いところがあるんだろう。あまり深追いするなよ、おまえはまだ警備隊員じゃないんだからな」
釘を刺され、彼女は苦笑した。
「ロトにも言われたよ。援護がないから、ってんだろ? そんなに心配しなくても、逃げ足には自信があるから大丈夫だよ」
「その点に関しては、異論はない」
シンハは真面目くさってうなずく。リーファは、いーだ、と歯を剥いて机から降りた。
「それじゃお墨付きの通り、さっさと退散しますよ」
しかし部屋から出かけたところで、「ああ、リーファ」と、何やら遠慮がちに呼び止められた。彼女が振り向くと、シンハは曖昧な顔で小首を傾げて歯切れ悪く続けた。
「昨日のことだが……」
そうだった。リーファは思い出すと同時に、堪えきれず失笑した。
「ああ、あれね。ごめんな、朝っぱらから呼び出しくらって説教されたって?」
それが軽い口調だったのでほっとしたように、シンハも笑みをこぼした。
「それは別にいいんだが。この機会に訊いておくが、結婚する気はないのか?」
「誰が」きょとんとするリーファ。
「おまえだ、ほかに誰がいる」
「誰と?」
「俺が知るか」
どうも話が噛み合わない。シンハはやりにくそうに、ちょっと頭を掻いた。リーファも何となく気詰まりで視線をそらす。しばらくどちらも相手の出方を窺っていたが、ややあってリーファの方がため息をついた。
「じゃあ訊くけどな、オレに家庭の主婦がつとまると思うか? 縫い物も糸紡ぎも料理もできない、その上、警備隊員になろうって女を、どこの誰が嫁にするんだよ」
「世の中には物好きもいるさ。おまえの意志を訊いているんだ」
「今、さらっと失敬なこと言いやがったなこの野郎。オレ自身としちゃ、結婚なんか考えたこともねえよ。城から追い出されたら別だけどな」
「そうか」
安堵と納得の返事に、心なしか残念そうな気配がまじる。リーファはおどけて目を丸くして見せた。
「もしかして、本当に嫁さんにしてくれるつもりだったかい?」
「馬鹿」
即答された。それはそれで多少傷つく。ぶすっとした彼女に、シンハは苦笑した。
「ちょっと別の事を考えていただけだ。おまえにその意志がないのなら、それでいい。追い出したりしないから、安心して居座ってろよ」
「そりゃどうも」
皮肉っぽく応じ、話は終わりかと問うように小首を傾げる。ちょうどその時、特徴的な速足の靴音が近付いてきた。案の定、ロトである。
「陛下! リーもいたのか、ちょうど良かった。例の件で少し進展がありましたよ」
忙しなく言って、小脇に抱えた書類挟みの中からメモを一枚引っ張り出す。
「警備隊員が、検印のついていない塩を見付けたそうです。無認可の小売商で、店主は知らなかったと言い張っているそうですが、少なくともそれを持って来た男の人相風体を聞き出すことはできた、と。それによると、塩を売りに来たのは小柄で痩せた、三十代後半から四十代と思しき男、髪は暗い金髪で目は灰色」
その特徴を聞く内に、リーファの脳裏にある男の姿が浮かび上がった。
「もしかしてそいつ、猫背で鼻がとがってるんじゃないか?」
「知ってるのかい? 今まさにそう言おうとしたところだよ」
驚いてロトが目をしばたたかせる。シンハも険しい表情になった。
「先刻言っていた男か?」
「多分。あいつが塩の取引を実際に行っているんだとしたら、絶対に黒幕がいるね。見るからに貧乏そうだし、怯えた目をしてた。自分で密売を計画して金儲けしてる奴だとは思えない」
「今までにその男を見かけた場所は?」
シンハに問われて、リーファもその意味するところを察する。
「持ち主は知らないけど、薔薇がやたら咲きまくっている屋敷の前だよ。それに船着き場と劇場街。この二箇所はたぶん、塩の受け渡しのために行ったんだと思う。船の名前は確か鳥の名前……そう、『ミサゴ』だ。やたら補修の跡があって、年季の入った船だなと思ったんだけど、偽装のせいだったんだな」
「ミサゴ、か。分かった、河沿いの街に停泊していないか調べさせよう。そうすると、恐らく屋敷の主が黒幕だろうな」
「薔薇を植えている屋敷は多いですが、咲きまくっている、となると……やはりファロス男爵の館ですね」
ロトがささやくように言った。リーファとシンハは顔を見合わせ、うなずく。
つながった。
「男爵の次の狙いはリュード伯の領地だな。そのために兵を雇う金が必要で、塩に目をつけたんだろう。他人の領地で採った塩から得た金で、その土地を奪い取ろうとは、どこまでも厚かましい奴だ」
シンハは軽蔑を込めて小さく舌打ちし、続けた。
「王都での売買に使われたのが、リーの言う猫背の男だろうな」
「じゃ、まずそいつから網にかけるかい? それともしばらく泳がせて、でかい魚がかかるまで待つかい」
袖まくりせんばかりの勢いで彼女が言うと、シンハは珍しく好戦的な笑みを浮かべて応じた。
「そりゃ、魚はでかい方がいいだろう。調理のし甲斐がある」
「活きのいい内に爼に載せられるように頑張るよ。えーと、オレはとりあえず薔薇屋敷の見張りでもすればいいかな」
「いや、おまえは試験の続きに戻ってろよ」
「おい!」
そりゃないだろう、と抗議しかけたリーファに、彼はおどけて付け足した。
「ただし、たまたま何かが網にかかれば、それはおまえの獲物だ」
「そうは言っても、あと残ってるのは司法学院のある五番隊の街区と、新市街、それに神殿と魔法学院の辺りだろ。新市街はともかく……」
新市街、と言えば聞こえはいいが、要するに旧市壁からはみ出して広がった町並みだ。今は新しい市壁の内側になっているが、区画整備はされておらず、治安も良くない。
「だがおまえは、無関係に思われるような場所から、思いがけない手掛かりを拾ってきたじゃないか。今度も何を嗅ぎ当てるか分からないだろう」
「人を犬みたいに言うなよ。……分かってるよ。正規の警備隊員でもないのにしゃしゃり出ちゃ、また王様の身贔屓が、ってな顔されちまうんだろ」
「そういうことだ」
すまんな、とシンハが苦笑する。リーファは肩を竦めた。二番隊の試験官が言ったように、警備隊の中でも意見は割れているのだろう。現にラヴァスのような男にも出くわしたのだ。自分が迂闊なことをすれば、シンハの方に抗議が雨あられと降り注ぐに違いない。
「仕方ないな。捕り物と手柄は、合格してからのお楽しみにしておくよ。今は正規の隊員に譲るさ。その代わり、後でオレにも何か美味いもの作ってくれよ」
リーファが聞き分けの良いところを見せると、シンハは嬉しそうな顔をし、ロトは渋面になったのだった。