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みゆきちゃん


 地面との摩擦でわたしのお気に入りのスニーカーはどんどん熱を帯びてゆくのがわかる。地面を蹴るように走る。アウト・イン・アウトで本屋の角を曲がったところでわたしは後方を確認する。どうやら追いかけられてはいないようだ。

 ふーと息を吐く。真夏だったらわたしは汗だくになっていただろう。しかし今は暦上冬であり、もうすぐ桜が咲く季節でもある。こんな時期に体中の汗腺から体液を垂れ流す人間はそうはいないだろう。

 風が吹けば気持ちがいいのにと考えながら腰に手をあて仁王立ちをしていると、誰かが声をかけてきた。振り返るとそこには親友の友人Aがいた。

「だれが友人Aだ」

「大変だ」

 ふと先ほどの出来事を思い出す。風が気持ちよくて忘れていた。

「なにが?」

「告白された!」

「へー。で、なんでそれが全身から汗が噴出す理由になるわけ?」

「すごいやつに声かけられたんだよ!」

 彼女は少し考えるしぐさをした。どうやら該当者を検索しているようだ。

「同じクラスの人?」

「違う!」

「じゃあ、先輩か、あのサッカー部の」

「違うってば!」

 わたしは顔を左右に振った。勢いがよすぎて汗がまきちる。彼女はハンカチを取り出し、顔を拭く。

「おっさんだったの!」

 彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真顔に戻った。

「それって道を聞こうとしていたとかじゃないの?」

 そこでわたしは顔を左右に振ることを止めた。言われてみればそうだったのかもしれない。しかしなにかひっかかる。さすがのわたしでも道を尋ねられたら案内をするぐらいの良心は持ち合わせているつもりだ。なにか普通ではない雰囲気を感じた。

そう、あの人は幽霊でも見たかのような顔をしていた。そしてこう言ったのだ。

 ミユキ

 もちろんわたしの名前はミユキではない。ミユキという名前の少女をわたしは知らない。




 それからおっさんのことはすっかり忘れていた。わたしの記憶力が乏しいわけではない。単に覚えておくほど重要な出来事でもなかっただけだ。しかし完全に忘却の彼方に追いやっていたわけでもない。だからおっさんに声をかけられたときすぐに思い出すことができた。

「やあ」

 今にも消え入りそうなか細い声だった。ここが図書館なので気を使っているのか、もともと気が弱いのか。どちらかはわからなかったが、そのどちらでもある気がした。

「どこかで話をしないか?」

「申し訳ないですけど、母に知らない人にはついていかないよう申しつけられておりますので」

「ケーキでもおごるよ」


 わたしたちは近くの喫茶店に入った。

 けっしてケーキが食べたくておっさんについてきたわけではない。わたしの行き先に喫茶店があっただけである。

 落ち着いた感じのお店だった。茶色を基調としていて、テーブルも椅子も木製である。わたしたちのほかには二人組みの女の人と、スーツを着たサラリーマン風の男の人だけしかいない。おっさんが迷わず窓側のテーブルに向かったので、わたしもそれに続く。

 席につくと女の人がわたしたちのところへ来た。白いシャツにジーンズ。黒いエプロンをしている。どうやら店員さんのようだ。

 わたしはメニューを見ようとテーブルを見渡したがそのようなものはなかった。

「モカと、あとモンブラン一つください」

 大人はメニューを見ずに注文するらしい。

 店内には音楽が流れている。ピアノであることくらいしかわからない。

 おっさんは店員さんがカウンターに戻るのを待って話しはじめた。

「君に声をかけたのはね」

 どうやらわたしにこえをかけた経緯を話しているようだったがわたしの興味は話の途中で運ばれてきたモンブランにうつってしまっていた。しかし完全に無視を決め込んでいたわけではない。モンブランの解体作業に忙しくしながらも聞いていた。わたしが人の話をまったく聞かない女ではないということを強く銘記していただきたい。話の途中でモンブランがやってきたのだ。けっしてわたしのせいではない。

 おっさんの話を要約するとこうだ。

 ミユキちゃんという女の子がわたしと瓜二つである。しかし病気で死んでしまった。そしてわたしを見つけて思わず声をかけてしまった。

 どうにも胡散臭い話である。

「信じられるわけないよね」

 おっさんは困った顔をする。あたりまえである。そんな話を信じるバカはいない。

「ミユキちゃんとわたしってそんなに似ているの?」

「ああ、似ているよ、それこそ生き返ったのかと思った」

 でも彼女は人の話を聞かずに全力疾走で逃げたりはしなかったけれど。おっさんはコーヒーに口をつけながら困ったように言った。

「つまり似ているのは見た目だけだと」

「そういうことになるね」

 わたしは端によせておいた栗にフォークを刺しおっさんにつきつけた。

「で、おっさんはなにが目的なわけ?」

「おっさんって僕のことかい?」

 まだ二十代なのだけど。おっさんは不満そうにこぼしていたが、わたしからしてみれば二十代はおっさんである。

「目的なんてそんなものはないさ」

 コーヒーに口をつける。表情は見えない。

「モンブランも食べさせてもらったし、わたしを好きにする権利をおっさんにあげましょう」

 おっさんは心底困ったような顔をして、なにか悩んでいた。それはなにか目的を考えているというよりか、目的は最初から決まっていて、それを言うべきか悩んでいるようだった。そして一冊の手帳を取り出した。

「なにこの手帳」

手渡された手帳は随分とかわいらしいものだった。いまどき中学生でも恥ずかしくて使うことがなさそうなデザインである。おっさんにこのような趣味はないだろうから、これはおそらくミユキちゃんのものだろう。

 手帳を開くと、そこにはかわいらしい字が並んでいた。どうやらやりたいこと、したいことなどが書かれているようだ。

「肉まんが食べたい。ステーキが食べたい。モンブランが食べたい。」

 だからわたしにモンブランを食べさせたのか。

「そこじゃない、もっと後だ」

 そこには一枚の写真がはさまっていた。桜だ。満開の桜。

「これは?」

「京都の桜だ、学生のとき僕が撮った」

 写真には誰も写ってはいない。ただの桜の木。ただの満開の桜。

 病気で外出できないミユキちゃんのために撮ったのか。頼まれて撮ったのか。良かれと思って撮ったのか。悪気はなかったのだろうか。この写真は彼女にとってどのような意味を持っていたのか。

 おっさんは手帳に写真を再びはさんだ。

「彼女と約束したんだ、この桜を見に行くって」

 しかしその約束を果たす前に彼女は亡くなった。だからわたしにミユキちゃんのかわりになれとでもいうのか。ミユキちゃんのかわりに約束を果たしてくれと。

 約束を反故にしたのは彼のほうだったのか、それとも彼女のほうだったのか。守れないことがわかっていても約束をした彼らはいったいどんな気持ちだったのだろう。希望に満ち溢れていたのか、それとも絶望から目を背けたかったのか。わたしにはわからない。しかし彼が贖罪を望んでいることはわかる。おっさんがわたしと約束の場所に行くことでミユキちゃんへの免罪符になるかもしれない。わたしになら彼の想いを、彼女の願いを叶えてかげられるかもしれない。夢を代わりに叶えてあげられる。


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