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「秋人、大丈夫?」
隣にいるはずの春香の声が、すごく遠くからするように感じる。
予定の時間よりかなり早く到着した俺たちは、近くのカフェで時間を潰していた。
ただひたすら、その時が来るのを待つ。
脳裏にはあの頃の彼女の姿が鮮明に映し出される。両手で顔を覆ったまま閉じていた目を開くと、指の隙間から春香が手に持っている一冊の文庫本が視界に入って、俺はまた目をつぶった。
友人である松田春香から、最近デビューした作家の小説が面白いと声をかけられたのが事の始まりだった。
これまで俺は基本的に人と関わり過ぎないようにすることを心がけていて、それは大学に入っても同じだった。逆に面倒くさいことになるので故意に無視したり冷たい態度を取るようなことはしないが、関わりは少ないほうがいい。彼女はそのうちの一人で、よく俺のところへ走ってきては「布教の時間でーす」とか言って自分の好きな映画や本の話を勝手にしはじめる、ちょっと変な奴だった。
「カリイルト、っていうタイトルなの。知ってる?」
「いや、知らない」
「えー、そっかぁ。戸田くんならいつも構内の図書館にいるし、タイトルくらいは聞いたことあると思ったんだけどな」
「……」
図書館にいるからといって全員が読書家なわけじゃない。もちろん本を読むこともあるけれど、俺の場合は何より静かだから落ち着くし、誰かに容易に話しかけられることもないし、心が休まるから足を運ぶのだ。そしてそれも昔から変わっていないことの一つで、本を読んだり勉強したり、俺と同じ、その空間を好んで人が集まっているということが、なぜかわからないけどちょっと嬉しいのだ。
「もし良かったら、読んで感想聞かせてほしいな。私は本屋さんで買ったけど、図書館じゃ予約が殺到してるみたいだよ?」
「ふーん……」
松田が一冊の文庫本を差し出した。俺は知らないが、何かの文学賞の大賞を受賞した作品のようで、衝撃のデビュー作といった随分派手な帯が巻かれている。「カリイルト」どんなタイトルだよ。そう思った時、作者名を見て身体が硬直した。
「……森井、小奈津……?」
「え?」
「ちょ、ちょっと見せてくれる」
松田の手から文庫本を受け取り、その文字を指でなぞる。森、井、小、奈、津。間違いない。
表紙をめくり、作者の情報を確認する。東京都出身であることと、この作品で賞を取ったこと以外の情報は何も記されていなかった。
「もしかして知ってる作家さんだった?」
「……いや…」
その時、誰かが松田を呼ぶ声が聞こえたが、俺はその名前から目を離せず、反応できなかった。
「あっ、ごめん、呼ばれちゃった。その本貸すから、戸田くんが持ってて? もちろん読んでいいから。てか読んで。はいこれ、ブックカバーね。ちゃんとかけておいてね」
ブックカバーも手渡され、松田は走り去っていった。
森井小奈津という名前を、俺は知っている。何度も何度も目にしてきた。
だって奈子が──今でも忘れられずにいる彼女が、ずっと使っていたペンネームだから。




