『錆びた鍵』
下町の鍵師と、開かずの金庫。 しっとりとした人間ドラマと、職人の矜持を描いた短編です。
静かな夜に、コーヒーでも飲みながらお読みいただければ幸いです。
第一章 シリンダーの底
指先に伝わる感触だけが、世界の全てだった。
幅一ミリにも満たない薄い金属片――ピックと呼ばれる工具を鍵穴に滑り込ませる。シリンダーの奥底で、バネに押し付けられた五本のピンが微かに抵抗する。 第一ピン、硬い。第二ピン、遊びがある。第三ピン、ここだ。
遠藤は呼吸を止めた。 路地裏に降り注ぐ冷たい雨音が、耳の奥で遠のいていく。 神経を右手の指先に集中させ、ミクロン単位でピックを押し上げる。クッ、という微かな手応えと共に、ピンがシャーラインと呼ばれる回転限界線を超えた。
カチリ。 金属と金属が噛み合う、乾いた音。 それは、閉ざされた世界が外の世界へと繋がる合図だ。
「……開きましたよ」
遠藤は低く掠れた声で告げると、ゆっくりとドアノブを回した。 古びたアパートの鉄扉が、蝶番の錆びた音を立てて開く。
「あ、ああ……! ありがとうございます!」
依頼主である若いサラリーマンが、安堵の息を漏らして頭を下げた。鍵を紛失し、雨の中で途方に暮れていた男だ。 遠藤は無言で頷き、工具を革のケースに収めた。 作業時間、三分。 これが、遠藤の仕事だった。
「あの、お代は……」 「電話で伝えた通り、一万五千円です」 「はい、助かりました。本当に魔法みたいだ」
魔法。 男は無邪気にそう言ったが、遠藤は内心で自嘲した。 魔法などではない。これは、ただの技術だ。それも、泥棒と紙一重の、薄汚れた技術だ。
代金を受け取り、領収書を切る。 『遠藤ロックサービス』。 それが、四十八歳になる遠藤啓介の、今の屋号だった。
*
墨田区の京島。 スカイツリーの足元に広がる、戦災を免れた古い木造住宅が密集する下町の一角に、遠藤の店兼自宅はあった。 六畳一間の店舗スペースには、合鍵を作るためのキーマシンと、様々なメーカーの錠前が所狭しと並んでいる。油と鉄の匂いが染み付いた、男の城であり、牢獄のような場所だ。
作業着のまま、遠藤はパイプ椅子に腰を下ろした。 窓の外はまだ雨が降り続いている。梅雨入りの冷たい雨だ。古傷の右膝が疼く。
缶ビールを開けようとした時、黒電話が鳴った。 ジリリリリ、というけたたましい音が、静寂を切り裂く。 こんな時間に客か。遠藤は眉を顰めながら受話器を取った。
「……遠藤ロックサービスです」
『……遠藤さんか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、男の声だった。 低く、粘りつくような、どこか焦燥を含んだ声。 二十年という歳月が流れていても、遠藤はその声を忘れていなかった。 忘れるはずがなかった。 遠藤の人生を狂わせ、全てを奪い去った男の声なのだから。
「……澤田か」
遠藤の声は、地を這うように低くなった。 澤田洋一。 かつて遠藤が経営していた精密加工会社の部下であり、営業部長だった男だ。 実直だと思っていたその男は、会社の特許技術と顧客リストを盗み出し、ライバル企業へと売り渡した。結果、遠藤の会社は不渡りを出して倒産。借金の保証人になっていた妻の実家とも揉め、遠藤は家族も、仕事も、誇りも失った。
その澤田が、今更なんの用だ。
『番号、変わってないんだな。……頼みがある』
澤田は、噛み締めるように言った。 会社がなくなった後、遠藤がどこに流れ着いたのか。澤田はずっと知っていたのだ。知っていて、二十年間かけることのできなかった番号に、今ようやく電話をかけてきたのだ。
「頼みだと? よく俺に電話ができたな。今すぐ切りたい気分だ」 「切らないでくれ! ……金なら払う。いくらでも出す。仕事だ、遠藤さん。あんたにしかできない仕事なんだ」
澤田の声は震えていた。 切迫している。ただ事ではない様子が、電話線越しにも伝わってくる。
「あんたに開けてほしい金庫がある」 「他の業者を当たれ」 「無理なんだ。今のデジタル頼りの若造には開けられない。あれは……クマヒラの旧式、『鉄壁』だ。百万変換ダイヤルが組み込まれた、特注品だ」
遠藤の指先がピクリと反応した。 クマヒラの鉄壁。昭和の高度経済成長期に作られた、伝説的な業務用金庫だ。その堅牢さと複雑な構造から、多くの鍵師が敗北してきた代物である。
「……場所は」 「奥多摩だ。俺の別荘がある。……頼む、遠藤さん。中には、俺とお前の二十年前の『決着』が入っている」
決着。 その言葉が、遠藤の胸に棘のように刺さった。
「……どういう意味だ」 「会えばわかる。俺はもう長くない。最後に、あんたに返すべきものを返したいんだ」
澤田は住所を告げると、一方的に電話を切った。 ツー、ツー、という電子音が虚しく響く。 遠藤は受話器を置くと、未開封の缶ビールをゴミ箱に放り込んだ。
行かなければならない。 金のためではない。あの男が何を隠し、何を返そうとしているのか。 止まっていた二十年の時間を動かすために。
遠藤は商売道具の入ったボストンバッグを掴み、雨の夜へと飛び出した。
*
中央自動車道を西へ走らせ、青梅街道から奥多摩の山道へと入る。 軽バンのワイパーが、激しさを増した雨を必死に拭い去ろうとしていた。 ヘッドライトが照らし出すのは、鬱蒼とした木々の壁と、濡れたアスファルトだけだ。
別荘地に到着した頃には、日付が変わろうとしていた。 木立の中に佇む、豪奢なログハウス。 だが、窓には明かりが一つも灯っていない。 闇の中に沈殿するような、不気味な静寂が支配していた。
「澤田」
玄関のインターホンを押すが、反応はない。 ドアノブを回す。鍵がかかっている。 遠藤は舌打ちをし、バッグから工具を取り出した。 MIWAのディスクシリンダー。一昔前の、防犯性の低い鍵だ。 テンションをかけ、ピックでディスクを揃える。十秒もかからずに解錠した。
ガチャリ。 ドアを開けると、カビ臭さと、微かな鉄の匂いが鼻をついた。 いや、これは鉄ではない。 もっと生臭い――血の匂いだ。
遠藤は懐中電灯を取り出し、慎重に廊下を進んだ。 リビングの扉を開ける。 光の筋が、床に広がる黒い液体を照らし出した。
「……おい」
その先に、男が倒れていた。 白髪混じりの頭髪。高そうなスーツ。 澤田洋一だった。 だが、彼はもう動かない。胸元を赤く染め、虚ろな瞳で天井を見つめていた。
死んでいる。
遠藤は息を呑み、後ずさった。 罠か。 そう思った瞬間、懐中電灯の光が、部屋の奥に鎮座する巨大な影を捉えた。
高さ一メートルはある、黒塗りの重厚な金庫。 中央には真鍮製のダイヤルと、太いレバー。 クマヒラの『鉄壁』だ。 澤田は死ぬ間際まで、この金庫を守ろうとしていたかのように、その前に倒れていた。
その時。 遠くから、サイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。 パトカーだ。一台や二台ではない。
「……通報済みってわけか」
誰が通報した? 澤田か? それとも犯人か? 遠藤は逃げようとはしなかった。 ここで逃げれば、自分が犯人にされる。いや、逃げなくても状況は最悪だ。第一発見者であり、被害者と因縁のある男。 だが、遠藤の目は死体ではなく、金庫のダイヤルに釘付けになっていた。
澤田。お前は俺を呼んだ。 死んでまで、俺にこれを開けさせたかったのか。 この鉄の扉の向こうに、お前は何を隠したんだ。
赤色灯の光が、リビングのカーテンを赤く染める。 土足の音が玄関になだれ込んでくる。
「警察だ! そのまま動くな!」
複数の懐中電灯が遠藤を照らし出す。 遠藤はゆっくりと両手を挙げた。その手は、震えていなかった。 彼の視線は、刑事たちの背後にある金庫から離れなかった。
「……厄介な遺言を残してくれたもんだ」
遠藤は誰に聞かせるでもなく、低く呟いた。 雨音は、まだ止みそうになかった。
第二章 過去の錠前
取調室の空気は、湿った雑巾のように重苦しかった。 パイプ椅子。スチール製の机。そして、あからさまに疑いの眼差しを向ける二人の刑事。
「――つまり、こういうことか。あんたは二十年前に自分を裏切って会社を潰した元部下、澤田洋一から突然呼び出された。行ってみたら死んでいて、金庫の前で呆然としていたと」
年嵩の刑事が、調書を叩きながら言った。 遠藤は無精髭の浮いた顎をさすりながら、短く頷いた。
「ああ。そうだ」 「出来すぎた話だな。恨みを持つ相手が、わざわざ殺される前に電話をかけてくるか? 普通」 「俺が聞きたいくらいだ」
遠藤は淡々と答えた。 嘘は言っていない。だが、真実が常に説得力を持つわけではないことを、遠藤は人生で嫌というほど学んでいた。
「凶器は現場にあった登山ナイフだ。指紋は拭き取られていたがね。……遠藤さん、あんたの店からは、特殊な工具がいくつも見つかってる。鍵を開ける道具だけじゃなく、何かを壊す道具もな」 「商売道具だ」 「人を刺すのにも使えるかもな」
刑事の挑発を、遠藤は柳のように受け流す。 澤田の死亡推定時刻、遠藤は高速道路を走っていた。Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)の記録を照合すれば、アリバイは証明されるはずだ。 彼らが遠藤を拘束しているのは、犯人だと確信しているからではない。 この事件の「背景」にある、金庫の中身に興味があるからだ。
「……なぁ、遠藤さん。あの金庫、何が入ってるんだ?」
若い方の刑事が身を乗り出した。
「澤田は政治家への闇献金に関わっていたという噂がある。裏帳簿か? それとも、あんたの会社の権利書か?」 「さあな。開けてみなきゃわからん」 「開けられるのか?」 「……道具があればな」
結局、翌朝には釈放された。 アリバイが成立したのだ。だが、刑事は捨て台詞を残した。「遠くへ行くなよ。あの金庫が開くまでは、あんたは重要参考人だ」と。
*
雨は上がっていたが、空は鈍色の雲に覆われていた。 店に戻った遠藤は、煎れたての苦いコーヒーを啜りながら、作業台に広げたノートを見つめていた。 そこには、昨夜一瞬だけ目にした金庫のスケッチが描かれている。
『クマヒラ製・防盗金庫 鉄壁』 製造年は昭和五十年代。 その名の通り、ドリルによる破壊も、バーナーによる溶断も跳ね返す、怪物のような金庫だ。 鍵穴はない。あるのは中央のダイヤルと、レバーのみ。 『百万変換ダイヤル』。 四枚のディスクが組み合わさり、その組み合わせ(順列)は一億通りに及ぶ。
「……澤田のやつ、面倒な棺桶を選びやがって」
遠藤は独りごちた。 通常、この手の金庫を開けるには『オートダイヤラー』と呼ばれる自動解読機を使うか、あるいは扉ごと破壊するしかない。だが、澤田は「遠藤にしかできない」と言った。 つまり、機械任せの総当たりや、破壊では意味がないということだ。 綺麗に、傷つけずに、開けなければならない理由がある。
遠藤は棚の奥から、古いアルバムを引っ張り出した。 会社を経営していた頃の写真だ。 社員旅行の集合写真。最前列で、遠藤の隣で屈託なく笑う澤田の姿がある。 ――社長、俺はこの会社が好きです。日本の技術を世界に売りましょうよ。
そんなことを言っていた男が、なぜ裏切ったのか。 金か。女か。 当時、遠藤は真相を知る前に全てを失い、逃げるようにこの街へ来た。向き合うことが怖かったのだ。 だが、澤田はずっと、この番号(店)を知っていた。 二十年間、遠藤を見つめ続け、そして最後に託した。
『中には、俺とお前の二十年前の決着が入っている』
遠藤は目を閉じる。 指先の感覚を呼び覚ます。 ダイヤルを回す時の、砂粒が擦れるような微細な音。ディスクが重なり合う時の、指に伝わる一瞬の重み。 それを感じ取れるのは、今の日本では数えるほどしかいない。 遠藤はその一人だ。 全てを失い、鍵を開けることだけに二十年を費やしてきた男の、悲しい特技だった。
プルルルル。 不意に、携帯電話が鳴った。こちらは仕事用ではなく、緊急連絡用のプリペイド携帯だ。 表示された番号を見て、遠藤は眉を跳ね上げた。 担当刑事からだ。
「……遠藤だ」 『……遠藤か。署の牧村だ。悪いが、もう一度現場に来てくれ』
刑事の声には、有無を言わせぬ圧力と、そして僅かな焦りが混じっていた。
『遺族……澤田の娘が、どうしても金庫を開けたいと言って聞かない。業者が三社来たが、全員お手上げで帰った。……あんたなら開けられると言っていたそうだな』
「娘?」 『ああ。澤田美咲。……あんたに依頼したいそうだ』
美咲。 その名前に、遠藤の心臓が早鐘を打った。 二十年前、澤田がよく自慢していた娘の名前だ。「社長のところの娘さんと同い年ですよ」と笑っていた、あの赤ん坊か。
「……わかった。すぐに行く」
遠藤は電話を切り、作業着の上からコートを羽織った。 そして、最も信頼する道具たち――聴診器、研磨した指先を保護するオイル、そして数種類の特殊な探り針――をバッグに詰め込んだ。
戦場へ戻る。 二十年前に止まった時間を動かすために。 遠藤は静かに店のシャッターを下ろした。
*
再び訪れた奥多摩の別荘は、規制線が張られ、物々しい雰囲気に包まれていた。 リビングに入ると、金庫の前で腕組みをする刑事たちの他に、喪服姿の若い女性が立っていた。 凛とした背中。だが、その肩は微かに震えている。
「……あなたが、遠藤さんですか」
振り返った彼女の顔を見て、遠藤は息を呑んだ。 澤田によく似た目元。だが、その瞳に宿る意志の強さは、父親以上だった。
「澤田美咲です。父が……生前、よく言っていました。『もしもの時は、遠藤さんを呼べ』と」 「俺のことを、話していたのか」 「はい。日本で一番、腕のいい職人だと。……そして、一番謝らなければならない人だと」
美咲は唇を噛み締め、金庫を指差した。
「警察は中身を証拠品だと言っていますが、父はこれを私に残しました。『会社の権利書も金もどうでもいい。ただ、これだけは遠藤さんに渡してくれ』と」
遠藤は無言で金庫の前に進み出た。 冷たい鋼鉄の塊。 その表面に手を触れる。ひやりとした感触が、指先から全身へと伝播する。
「……牧村さん。条件がある」
遠藤は背後の刑事に告げた。
「全員、部屋から出てくれ。音を立てるな。呼吸音一つ、邪魔になる」 「なんだと? 我々を追い出す気か」 「開けてほしいなら従え。……それとも、バーナーで焼き切って、中の書類を灰にするか?」
牧村たちは顔を見合わせ、舌打ちをしながらも廊下へと下がっていった。 部屋に残ったのは、遠藤と、立会人の美咲だけ。
静寂が戻った。 遠藤はコートを脱ぎ、袖をまくった。 聴診器を耳に当て、チェストピース(集音部)をダイヤルの横にマグネットで固定する。
「……始めようか」
遠藤は右手を伸ばし、ゆっくりと、祈るようにダイヤルを回し始めた。 世界から音が消える。 残るのは、シリンダーの中で擦れ合う、金属の囁き声だけだった。
第三章 錆びた真実
部屋には、時計の針が進む音さえなかった。 遠藤の額を、脂汗が一筋伝い落ちる。
百万変換ダイヤル。 四枚の座金にある「切り欠き」を一列に揃えなければ、閂は外れない。 遠藤は聴診器を押し当て、ダイヤルを右に四回、左に三回、慎重に回していく。
カサッ……カサッ……。
指先の皮膚一枚を通して、内部のディスクが擦れる振動を感じ取る。 普通の人間には無音の世界だ。だが、遠藤の耳には、金属たちの会話が聞こえていた。
(一枚目、捉えた……次は左へ)
背後で、美咲が息を殺して見守っている気配がする。 彼女の父親――澤田洋一は、なぜこの番号を設定したのか。 ダイヤル式の金庫は、持ち主の記憶にある数字が使われることが多い。誕生日、電話番号、記念日。 だが、遠藤が探り当てていく数字は、どれもランダムに見えた。
48。12。05……。
三枚目まで揃った。あと一枚。 遠藤の指が震えそうになるのを、長年の修練で抑え込む。 最後の数字。 ダイヤルをゆっくりと回す。クリック音(接触音)の変化を探る。
カチリ。
微かな、本当に微かな異音。 そこだ。 遠藤はダイヤルを止め、大きく息を吐いた。
「……開くぞ」
遠藤は立ち上がり、重厚なレバーを掴んだ。 グッ、と力を込める。 二十年間、閉ざされていた鉄の扉が、重い音を立てて動いた。
ギィィィィ……。
開かれた扉。 美咲が小さく悲鳴のような声を上げた。 遠藤は中を覗き込む。 そこには、札束の山も、裏帳簿もなかった。
入っていたのは、古ぼけた一冊のノートと、小さな桐の箱だけだった。
「これは……」
美咲が歩み寄り、震える手でノートを取り出す。 それは、二十年前に倒産した遠藤の会社――『遠藤精密』の技術日誌だった。 ページをめくると、一枚の封筒が挟まっていた。 表書きには、『遠藤啓介殿』と、澤田の几帳面な字で記されている。
「……読んでください」
美咲に促され、遠藤は封筒を開けた。 中には、便箋が一枚。
『遠藤さん。この手紙を読んでいるということは、あんたは俺の金庫を開けてくれたんだな。 あの日、俺が会社を裏切ったこと、許してくれとは言わない。当時、俺の娘――美咲が重い心臓病を患っていた。手術には莫大な金が必要だった。俺は、あんたの技術をライバル社に売って、娘の命を買ったんだ』
遠藤は顔を上げ、隣にいる美咲を見た。 彼女は、自分が生かされた理由を今初めて知ったのだろう。目から大粒の涙が溢れていた。
『俺はその後、盗んだ技術で会社を大きくした。だが、片時もあんたのことを忘れたことはない。 この桐の箱に入っているのは、あんたが最後に設計していた「夢の部品」の試作品だ。俺はずっと、これを完成させることだけを目標に生きてきた』
遠藤は桐の箱を開けた。 中には、銀色に輝く小さな金属部品――かつて遠藤が心血を注ぎ、完成を見ずに奪われた精密ギアが入っていた。 錆び一つない。 澤田が二十年間、大切に磨き続けていたのだ。
『この部品の特許は、俺の名前ではなく、架空名義で管理してある。その権利と、これまでのロイヤリティ(特許使用料)の全てを記録した通帳を、このノートの最後のページに隠した。 これは本来、あんたが手にするはずだった金だ。利子をつけて返す。 ……遠藤さん。俺は地獄へ行くが、あんたはもう一度、その技術で世界と戦ってくれ』
手紙はそこで終わっていた。 ノートの裏表紙からは、一冊の通帳が出てきた。 記載された残高は、遠藤がもう一度工場を建て直してもお釣りがくるほどの額だった。
「……バカな野郎だ」
遠藤は手紙を握りしめ、呻くように言った。 二十年。 澤田は成功者としての仮面の下で、ずっとこの十字架を背負っていたのか。 遠藤の居場所を突き止めながらも、合わせる顔がなく、ただ遠くから見守り、金庫の中に詫び状を隠し続けていたのか。
「遠藤さん……」
美咲が泣き崩れる。 遠藤は彼女の肩に手を置こうとして、止めた。その手は油と鉄の匂いが染み付いた、薄汚れた鍵屋の手だったからだ。
廊下で待機していた刑事たちが、騒ぎを聞きつけて入ってくる。 彼らは金庫の中身――技術日誌と試作品を見て、拍子抜けした顔をした。 汚職の証拠も、闇献金の記録もない。 あるのは、二人の男の、古臭い友情と裏切りの精算だけだった。
「……事件性はなしか」
刑事がつまらなそうに呟く。 遠藤は桐の箱を美咲に手渡した。
「これは、あんたが持っていてくれ」 「えっ? でも、これは父があなたに……」 「俺にはもう、過ぎた代物だ。それに……」
遠藤は窓の外を見た。 雲の切れ間から、薄日が差し込み始めていた。
「俺は鍵屋だ。閉ざされた扉を開けるのが仕事だ。……過去の扉はもう開いた。それで十分だ」
通帳だけは受け取った。 それを突き返すのは、澤田の二十年を否定することになる気がしたからだ。
遠藤は道具を鞄にしまい、部屋を出た。 背中で美咲が「ありがとうございました!」と叫ぶ声が聞こえた。
外の空気は、雨上がり特有の匂いがした。 膝の痛みは消えていた。 遠藤は車のエンジンをかける。 東京へ帰ろう。 溜まっている依頼がある。開かない金庫、無くした鍵、閉ざされた部屋。 俺を待っている「鍵」が、まだ山ほどあるのだから。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
いつもの異世界モノとは趣向を変えて、 「技術者としての誇り」と「男の再生」をテーマに書いてみました。
「こういう雰囲気も嫌いじゃない」 「ラストの余韻がよかった」
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