第1章 落下スル少年と殺意アル刃物5
事件のあの日、あの時、犯人は母を刺し、泣きじゃくる成吾の首根っこを捕まえて、警察と電話で話していた。
父が手足の縄をなんとか解こうともがきながら、犯人に叫ぶ。
――殺さないでくれ!
「殺さないでくださいましっ」
綾女の声が夜空に響いた。
「お嬢、屡衣に鬼の斧を渡すなっ」
非情な英利の声が、綾女の言葉をかき消す。
綾女は細かく首を振りながら英利を見る。
「でも……英利……」
「お嬢。族長として、一人の命と、これから増えるだろう数万人の命、どちらが重いと考える!」
「わたくしは……」
一端言葉を切って、綾女は紺色の包みの結び目に手をやった。
「そんなに……鬼の斧が欲しければ差し上げますわ」
包みがほどけて、中から柄の長さ一メートルはあるだろう斧が姿を現す。
刃の中央には北斗七星を形取った穴があき、刃先の反対に位置する斧頭は丸い鉄球になっていた。
黒い柄には帯状の金飾りが巻き付き、柄の根本には艶やかな黒い球が取り付けられている。
実用的ではない豪華な斧だ。
それでも、その刃先は包丁と同じ銀色だった。人を殺すために鋭く尖っている。
「これでいいのよ、可愛い綾女」
満足そうに屡衣が笑い声を転がす。
「ただし――お姉さまが、わたくしを殺せるなら」
綾女が強く斧を抱きしめると、屡衣は目を見張ってから鼻で笑った。
「綾女は私が戦うってこと考えないのね。姉なら妹を殺せないとでも思っているの?」
屡衣の痛烈な言葉に、やや怯んでから、綾女は斧の柄を強く握りしめて構えた。
その姿に戦意は感じられない。
「わたくしを手に掛けるおつもりなら、どうぞ、かかってきてくださいまし!」
追いつめられてもなお、一縷の望みに賭ける。
姉は人を殺さないと信じたがっている。
そんな彼女の気持ちが、過去と現在の狭間で震える成吾の心を押しとどめた。
(この顔……)
姉に対峙する綾女の顔が、数年前の父や母の顔を思い起こさせる。
(彼女……死ぬつもりじゃ)
自分が犠牲になって成吾を救う気だ。
「それ……ゃん」
父のように成吾の盾になろうとし、母のように成吾の身代わりになろうとしている。
「……ダメじゃん」
成吾は奥歯を噛みしめる。
自分は助けられてばっかりだ。
彼女を守りたい。無力な自分が悔しい。危機の時、誰かを助ける力が欲しかった。
「まだ目が開いていないのね、可哀想な綾女……。王魅!」
屡衣が数珠を広げると、青い珠が宙に散った。
藍色の夜空に星をまぶしたような空間が広がる。
青と金の光が強くなった。
「屡衣っ、あなたはたった一人の家族をっ」
英利が邪魔をしようと前に出た。
「お前の相手は僕です」
しかし、すぐに英利は咲人に邪魔され、成吾は動けない。
誰も、綾女を助けられない。
「まずは、綾女。あんたの目の前で、その子を殺してあげる」
「お姉さまっ、お止めください!」
(……オレに力を)
血まみれになったまま、成吾は思う。
(お願いだから……誰か彼女を守る力を……)
(どうして、オレは……いつも、こんな風に……守られてるだけで、何も出来ないで……。ただ、ただ、みんなが犠牲になるのを見てなきゃならなくて……)
(情けない……情けない……。なんで、こんなに弱くて……ダメなんだ……っ)
(……彼女を助けたいのに)
ぎゅっと強く目をつむると、子供のような透明な涙が落ちた。
すると、まぶたの裏に――白い閃光が走った。
視界が真っ白になった途端、数百の人の顔だけがどんどんどんどんと迫ってきた。
『勝利、勝利、勝利!』
乱れた髪、血まみれの顔、絶叫する人々が、成吾に向かって叫ぶ。
『あいつを殺そう、こいつ殺そう』『殺すが勝ちだ』『あのひとが殺された、このひとが殺された』『殺さなかったから負けた』『このひとは支える者なく滅びるだけ』『殺すのだ』
顔が成吾に衝突し、赤に塗れた肉体に吸収されていく……。
真っ白い世界の中央、墨絵のように寺が浮かんでいる。
寺の内部から叫び声が聞こえる。
坊主達が老体の住職を庇いながら寺の廊下を走っていく。
矢が廊下を飛び、壁に突き刺さる。
彼等はお堂に入って閂をかける。内部は白かった。霧ではなく、煙が充満していた。
『寺に火を付けるとは……非道な』
座禅する大仏の周りに、人と同じ大きさの立像仏が十二体並んでいる。
その裏から、煙が這い上がってきた。
柱が燃え、天上が落ち、床が陥没する。
中に閉じこめられた僧侶達が煙に巻き込まれて、一人二人と倒れていく。
『皆が死んでしまう……』
ここは密室だ。
逃げ道はない。
仏も人も炎に嬲られていく。
その中で、一つだけ光り輝いているものがあった。
炎の中心にありながら、炭になろうとしない物体。
燃えさかる一体の立像が構えている絢爛豪華な……綾女がもっていた斧だった。
『このまま殺されるより、殺してやる!』
僧の一人が斧を握りしめる。
足で壁を炎の壁を突き破り、斧を振り回して、外にいた甲冑を身につけた人々を惨殺していく。
『皆、ここは私に任せて逃げろ!』
僧が叫んで、次から次に襲いかかってくる敵を排除していく。
『これが力、力、力だっ!』
(力を)
成吾は僧に向かって手を伸ばした。
(オレにも力を――)
犯人の顔と、血まみれの母の姿が頭に浮かぶ。
「大切な人を守る力を!」
叫んで目を開けると、視界に白い煙が漂っていた。
煙の中、屡衣の珠が青いラインを描いて成吾に迫り、綾女が成吾を助けようと走り出してくる。
綾女が持つ斧の切っ先が、白い煙を放っていた。
その綾女の背後には珠がある。
――このままでは彼女が殺されてしまう!
「やめろぉぉぉぉぉぉっ!!」
叫んだ瞬間、煙が成吾を飲み込んだ。
煙の中に人の顔が無数に浮かんで叫ぶ。
『殺せ』『敵を殺せ』『そして勝利をっ』
「この手に勝利を!」
成吾は顔達と同じように叫んだ。
すると身をとらえていた光が消え、彼は自由を取り戻す。
目の前の綾女から斧を奪い、成吾は自らの血を飛び散らせて飛翔する。
片手で柄を握り、斧の切っ先を軽く振り回す。
それだけで珠が全て砕け散り、屡衣の胸元へ戻っていく。
『敵だ』
成吾は着地と同時に地を蹴り、斧を真横に構え、屡衣に迫る。
彼女は胸元に手を当て、硬直している。
(殺せる)
『殺せ』
成吾が屡衣の首を斧で切断しようとした――時。
「屡衣様っ」
咲人が飛び込み、屡衣を突き倒した。
斧の刃が風となって宙を切り裂く。
骨を断つ音もなく、青年の右腕が闇に消える。
霧から強いサビの臭い。
青年の血の臭いか、斧の臭いか、成吾は知らない。
知らなくていい。
目の前で、腕を失った青年が赤い肉の断面に手を当て号叫している。
『敵はどこだ』
(敵は地に伏している)
『斧の風で着衣が切り裂かれ、左胸が剥き出しだ』
(心臓は、その側にある……)
『揺れる乳房ごと斬ってしまえ』
(ああ、それでいい)
成吾が再び斧を構えて、屡衣に狙いを定める。
「王魅、大珠、郭大!」
屡衣が手で数珠を丸める。
数珠は大玉に変化し、オーロラのように波打つ青金の光を放出する。
光はドームを形成した。
『あいつに力を見せつけてやれ』
斧が言う。成吾は頷く。
敵の身体に斧を突き立てるべきだ。
迷いは死を産む。
死ねば守るべき者が奪われる。迷わず、切り捨てろ。
膨張する青い光に、成吾は突進する。
斧の刃先がドームを切り裂く。
白煙と青金の光が混ざり合い、爆竹のように破裂する。
断片化した光は、ザクザクと皮膚を刺す。包丁みたいに。
その真っ直ぐ先に綾女の敵がいた。
あの事件の犯人がいた。
過去も現在もわからぬまま、成吾は微かに唇を動かす。
もう二度と逃がさない。こんな輩は殺してやる。
自分や家族を苦しめるなら、この世から無くなってしまえ。
しね、シネ、死ね!
声にならない言葉が、唇から霧の中へこぼれ落ちる。
『そうだ、殺せ!』
成吾は三日月のように背を反らし、屡衣の頭へ斧を振り下ろす。
屡衣が刃を避け、両手を突き出す。
斧と玉が衝突した。
青い落雷。白の爆風。
彼の武器が、刃や柄が、割れていく。
圧縮波が腹をえぐり、煙に包まれたまま吹っ飛ぶ。
(――落ちる)
待ち受けるのは、濡れたアスファルト。
激突。
血と泥水が飛散する。
一度、二度、三度、絶痛を伴って身体が跳ねあがった。
茂みに頭からつっこみ、ボールになっていた肉体が止まる。
(今度は救えた? 救われなかった?)
成吾は、ぼぉとしながら夜空を見上げた。
砕けた斧が上から降ってくる。
その大きな刃先が彼の頭へ――
「いやぁぁぁっ」
綾女の悲鳴が響いた。




