第1章 落下スル少年と殺意アル刃物4
睨み合う三人から目を背け、成吾は自分の自転車を見た。
(あーあ、フラットロードバイクが……)
チェーンが外れ、サドルが右向きになり、ライトはなくなり、後輪の泥よけは割れている。
丈夫な車体だから、パーツを取り外せば直るだろうか?
(全体が歪んでいたら買い直しだろーなぁ)
(コツコツとアルバイトをして金を貯めて、買ったばかりだったのに。オレの人生って呪われてる)
惨めな気分になって自転車から目をそらそうとしたとき、ロールス・ロイスの中で何かが動くのが見えた。
注視して、内部を観察する。
後部席に人の手が見えた。
頭部は見えないから寝そべっているらしい。
運転席と助手席の間から、白い手が伸ばされる。
「……っ」
成吾の背がぞくりとした。
手の動きが、犯人が刃物の先で人質を物色する動きに似ている。
あれは、人を殺めようとする者の動きだ……。
狙いが定まったのか、手が制止した。
指先で何かが青く光っている。
車の前には、咲人という青年と英利がいる。
しかし手は、微かに左に曲がって見えた。
そこには包みを抱えた綾女がいる。
「――危ないっ」
咄嗟に成吾は叫んだ。
「王魅……っ!?」
綾女も叫び、英利と二人で道ばたに飛びのく。
その時、成吾は道路へ飛び出していた。綾女を助けようとしたのだ。
しゅんっと音がして周囲が青い光に染まり、成吾は光に囚われて宙づりになる。
(動けないッ)
その瞬間、冷たい何かが、背の肉をえぐる。
左脇から脇腹へ。
刃傷とは逆方向に駆け抜け、肉の溝を作る。
顔の前に落ちた自分の右手が赤く染まっている。
パーカーの袖口から真っ赤な液体が吹き出していた。
(刃物だ、刃物だ、怖い、助けて、助けて、助けてっ)
意識が過去と重なって、痛みの波にさらわれそうになる。
かろうじて目を開けていられるのは、起きた出来事があまりにも非現実すぎたからだ。
脳が状況を処理しきれない。
異常事態の連続に、心が変に興奮していた。
攻撃してくる相手を探して、成吾はなんとか視線を動かした。
白い車のフロントガラスが蜘蛛の巣状に割れている。
後部席で先ほどの人影が動いてドアが開いた。
「半人前の世話も大変ねぇ、英利」
気怠げな女の声が、夜の闇に広がった。
「る……屡衣」
竹村のうめき声が聞こえた。
振り返ると、水たまりを迂回して成吾の元へ歩いてくるのは、焦げ茶色の髪をルーズに束ね、後れ毛をカールさせた十八から二十歳ぐらいの女だ。
一目見ただけで、男の本能を煽る扇情的な雰囲気を持っている。
黒いミニワンピースのデザインは、色気に重心を置いていた。
大きく波打つフリルの襟はヘソまで開き、深い胸の谷間を露わにしている。
乳房の間には青い数珠型の長いネックレスが挟まっていて、歩くと、乳房が上下に揺れてネックレスを揉み、スカートの短い裾が舞い上がって脚の付け根が見える。
身長はモデル並に高く見えるが、ピンヒールの靴を脱げば成吾と同じくらいだろう。
なのに、やたらと大きく見える。
成吾の頭に、夜を背負った女王、という単語が浮かんだ。
「お姉さまが、咲人さまと一緒に……そんな」
かよわく震える綾女の声が成吾の耳に届いた。
(姉妹……?)
痛みに顔をクシャクシャにしながら、首を動かして左右の女を見比べる。
身から醸し出される空気は違うが、屡衣という女の顔は綾女に似ていた。
綾女が男子生徒が騒ぐほどのスタイルを慎ましやかに隠しているのに対して、屡衣は惜しげもなく披露しているだけだ。
「自転車転がしたのはお前ね。くだらない正義心なんか出すから、こうなるのよ」
「ぐぅっ」
尖ったミュールの先が、成吾の傷ついた背に刺さる。
鼓動と重なった痛みが激しくなり、袖口から放出される血の量が増える。
「お姉さまっ、おやめください!」
綾女が甲高く叫ぶ。
「だったら、さっさと鬼の斧をよこしなさい。本来は私ものだもの。いいわよね」
「その為に、――わざと咲人さまを車から下ろしたのですか」
「倉庫の管理長だった癖に読みが浅いのね」
彼女は肩を小刻みに動かしてフフフと笑う。その横に咲人が並んだ。
「鬼の斧を渡された後、綾女は白装束を着替えるために英利と儀式場から出るでしょう。それを見計らって僕が筒卵の壺を一つ盗みました。綾女が異変に気付き、鬼の斧を持ったまま竹村と動く。良心的に二人だけで。――全て計画通りです」
長ったらしい自慢げな説明を聞くと、綾女は包みを強く抱きしめた。
顔つきが変わる。無表情から一転して気の強い顔に。
「普通に停まっても気を許さないと思って、防波堤まで追いつめられたふりをするつもりだったけど……この自転車坊やのお陰ね。時間が短縮できたわ」
また成吾の背に激痛が走った。
長い爪で傷口をえぐり出しているのだろうか? 傷がギリギリと痛い。
宙づりのまま成吾は歯を食いしばって耐えるしかない。
救い出してくれそうなのは、紀田綾女と竹村英利だけだ。
成吾は眼球を動かして坂の下の二人を見る。
「鬼の斧は決して渡しません。お姉さまはもう、紀田の人ではありませんもの」
「ふう~ん」
屡衣は傲慢に相づちを打つ。
綾女は泣きそうな表情になりかけたが、長い黒髪を左右に振り乱してから、強い眼光を光らせて屡衣を睨んだ。
「この私に逆らうの?」
からかい混じりの問い掛け。綾女は二度肩を動かしてから声を張り上げた。
「紀田屡衣! 筒卵を置いて立ち去りなさい!」
その言葉に、屡衣は少しだけ目を見張る。
「そうね、今は……族長である貴女のほうが上ですものね。お子さまの癖に」
すると屡衣は成吾を指さした。
「綾女、鬼の斧を渡さないなら、この子を殺すわ。命を助けようとしてくれた人が死んだら悲しいでしょう?」
――渡さないなら、この子を殺すわ。
――――渡さないなら、この子を殺す。
――――――渡さねぇと、このガキぶっ殺すぞ。
屡衣の言葉が犯人の言葉とリンクしていく。




